天秤
選挙戦が始まった。
それはこれまでのどんな選挙とも違っていた。
投票所の多くがまだ瓦礫の中だった。
避難所がそのまま投票所になった土地もある。
灰をかぶった選挙ポスターの掲示板に、候補者たちの顔が、雨に滲んでいく。……傷ついた国の傷ついたままの選挙だった。
その、荒れた大地を私は駆けた。
「灯」の遊説には、行く先々で黒山の人だかりができた。あの駅前の第一声の日を私は思い出した。
あのときとは、比べものにならない熱だった。
人々は、私の言葉を待っていた。この長い夜の底でたった一つでいい、信じられる光を探していたのだ。
私の隣には、いつもあの顔ぶれがいた。屋根の灰を掻き落とした鳶職の佐伯くん。自分の工場で、被災者のための道具を作り続けた鵜飼さん。
炊き出しを支えたリムさんたち。
彼らは、もう「弱い者」でも、「はみ出し者」でもなかった。あの灰の底から掘り出された、この党のまぎれもない宝だった。
演説の合間に彼らが自分の言葉で体験を語ってもらうと、それは百の薄っぺらい言葉より説得力を持った。
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一方、政権の側は、あの古い集票マシーンを静かに動かし続けていた。表立っては「解散は復興のための強固な体制作りが必要」だと取ってつけたような主張をしていた。
しかし裏側で、彼らは私を口汚く攻撃した。
「国を外国に売る売国奴」「日本の伝統を壊す危険分子」だの、悪口のオンパレードだ。
そして、あのCNNからの一件、特に中国などによる「軍国政治の再来」などとの批判につながったことを繰り返し蒸し返した。
それは幅広い層には響かない。けれど――狙いはそこにはなかったのだ。
権藤の言ったとおりだった。彼らが固めたかったのはあの固定票だ。神社や遺族会の古い後援会の律儀な人々。
「あの女は危険だ」
そのとおりだ。ただ、危険なのは国に対してではない。彼らにとって危険なのだ。その意識は共有され、固定票は更に強固になっていく。
加えて与党には農村部や建築関係のように、例えどんな政策を掲げようと計算できる票がある。
そして、この劣悪な環境下での選挙は投票率を押し下げ、圧倒的に固定票に有利なはずだった。
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翻って、我々は資金さえクラウドファンディングなどに頼らざるを得ない。この先が見えない状況下で、自分達に投資してくれる人がどれだけいるというのか。
何より、私たちには権藤が述べたその弱点が、最後まで残っていた。
候補者が足りない。
全国には、三百近い小選挙区(※)がある。
※有権者が、その地域の代表を一人だけ選ぶ選挙区。
急ごしらえの「灯」に、そのすべてに立てる顔などがあるはずがない。権藤が割ってきた大河内先生も含むリベラルの三十名と、もともとの二十名。
新人をかき集めても、立てられる駒はその半分にも遠く及ばなかった。
比例の数さえ足りなかった。桐生さんやにも名前を連ねてもらった。しかし、その他のバックグラウンドも分からない人たちを立候補させるわけにはいかなかった。後から問題が発覚するかもしれないし、下手をしたらスパイすらいるかもしれない。
遊説の先で幾度も同じ声を聞いた。
「先生! うちの選挙区には、『灯』の人が、いないんです。私はいったい誰に入れれば」
私は、そのたびに胸が締めつけられた。これほどの思いが寄せられているのに。その思いを受け止める器がこちらには足りない。差し出された無数の手に対し、私たちはすべてを握り返せない。
私にできるのは、こう答えることだけだった。
「……比例で(※)。※政党の名を書いて投じる票です。そこに『灯』と書いてください。その一票は必ずどこかの私たちの灯に繋がります」
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投票日の夜が来た。
仙台の「灯」の間に合わせの事務所は、張りつめた、静けさに満ちていた壁に貼られた日本地図。長机の上のいくつもの画面。
冷めかけた、差し入れのおにぎり。あの、駅前の事務所と同じ光景が、はるかに大きな舞台で、繰り返されていた。
佐伯くんが拳を握りしめている。
鵜飼さんが腕を組んで画面を睨んでいる。
立花が私の手をそっと握った。
大河内先生は静かに椅子に座り、桐生さんと、沢井さんは開票の数字を食い入るように追っていた。
そして部屋の隅で。権藤が一人目を閉じていた。
開票が始まる。
まず、最初から衝撃的な数字が出てきた。投票率が70%近くになる見込みだとの数字だ。
最近の衆議院議員選挙では、53-57%に数字が低迷していたことを考えると、圧倒的な数字だ。これは固定票を頼りにする政党にはとても厳しい数字でもある。
小選挙区ではまず与党側に当選確実が次々出ている。候補者のいない選挙区では灯の名はそもそも投票用紙の上にない。拮抗することのない選挙区では当然のように与党側に票が流れる。
次に、灯が候補を立てた小選挙区に立てた数少ない候補者たちは、善戦しているが、根強い固定票と組織に苦戦している。……権藤の、読みの半分は無慈悲なほど正しかった。組織は人気に勝つ。
けれど。
比例の数字が出始めたとき。事務所の空気が、変わった。
『灯』。誰に入れればいいか、わからなかった人々が。器のなかった選挙区の人々が。そのたった一つの箱に思いを託していた。
全国の津々浦々から。灰の東京から。
雪の東北から。
西日本から。
その一票、一票が、繋がって、画面の中の灯の議席が一つまた一つと点っていく。
まるで、暗い日本地図の上に、小さな灯が次々とともっていくようだった。
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すべての、開票が終わったとき。
「灯」の議席は五十七。
比例で重複立候補した候補も合わせると、まさかの全員当選となった。比例では幾つもの議席を、候補者がいないために取りこぼした。
しかし過半数には遠い。
擁立が間に合わなかった。あの無数の思いを思えば悔しさもあった。あと半年。いやあと三月でも駒を揃える時間があれば。
私たちは、この国の風景をまるごと塗り替えていたかもしれない。
けれど。
その夜開いた蓋の中で重い意味を持ったのは、私たちの数ではなかった。与党も過半数に届いていなかったのだ。
支持を失った与党は、固定票で崩壊こそ免れたが大きく議席を減らし、百九十議席。
野党は相変わらずばらばらに割れている。最大野党が六十七議席。
その拮抗した盤面の、ちょうど真ん中に。
五十七の議席を持つ「灯」が座っていた。
私たちは、いつのまにかこの国の政治のキャスティングボートを握る立場になっていた。
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歓声が上がる事務所の隅で。私は、静かに権藤のそばへ歩み寄った。
「……先生」私は言った。
「私たちには、駒が足りなかった」
「ああ」権藤は、目を開けた。「だがこの盤面を見ろ。誰も過半数を取れんかった。……お前の薄っぺらい人気が、比例の箱の中で束になって、この国の天秤の真ん中に居座りおった」
彼は、ふ、と笑った。今度は憎まれ口ではなかった。
「……この旗はたいした旗だよ。九条絵里香」
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事務所を出ると、仙台の夜はまだ深かった。
けれど東の空のいちばん低いところがほんの、わずかに藍色に滲み始めていた。夜明けにはまだ、遠い。それでも確かに闇のいちばん濃い刻は、過ぎようとしていた。
私は、胸の奥のあの灯を確かめた。
義父から受け継いだ一筋の火。それはいま五十七の議席となり、そして、全国の無数の一票となってこの暗い国のあちこちに点っていた。
政権を取ったわけではない。
むしろここからが本当の始まりだった。この握ってしまった重い一票をどう使うのか。傷ついたこの国をどちらへ導くのか。……その、途方もない責任がいま私の細い両肩にそっと載せられたのだ。
けれど私は一人の無所属ではなかった。
隣には、しかめ面の老いた幹事長がいる。背後には、灰から掘り出された仲間たちがいる。そして、胸には決して消えない義父の灯が燃えている。
夜明け前の藍色の空を私は見上げた。
長い夜はもう終わろうとしていた。




