解散
あの灰の日から、季節が一つめぐろうとしていた。
雪が解け、瓦礫の街にもわずかずつ槌音が戻り始めていた。
仮設住宅が少しずつ建ち、止まっていた鉄道が、区間を繋ぎ直していく。
....そんなある日、政権は衆議院の解散に踏み切った。
青天の霹靂だった。
私は、初めその報せが信じられなかった。
支持率は、あのCNN事件以来坂を転げ落ちている。
国民の支持を失った政権が、自ら国民に信を問う。それは常識で考えれば、自分で自分の首を絞めるような悪手だった。
なぜ、いま解散なのか。
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その謎を解いてくれたのは、権藤だった。
人目を避けた、仙台の一室であの老いた策士は、湯呑みを片手に敵の腹の内を、まるで自分の手の内のように読んでみせた。
「いいか、絵里香。……世論調査の数字と、選挙の票は、別物よ」
テレビや新聞の支持率は確かに地に落ちている。だが、その数字を答えるのは誰だ。
それを真に受けて投票所まで足を運ぶのは誰だ。
「あの連中の、本当の強みはな。……固定票だ。皇国会議に連なる、神社の、遺族会の、古い後援会の、網だ。年配の信心深い律儀な人々。彼らは、雨が降ろうが、灰が降ろうが必ず投票所へ行く。そして、決めた候補に黙って一票を入れる。……この地獄のような混乱の中でも、崩れずに動く票があの連中にはあるのだ」
「翻って、お前の人気はどうだ」
権藤の目が鋭くなった。
「幅は広い。だが、薄い。お前をいいと言う若い連中が、この家も流された混乱の中で本当に投票所まで行くか。……そして、何より」
彼はそこで、ひと呼吸置いた。
「お前には候補者がおらん。全国の、三百の小選挙区に立てる顔がない。人気だけでは、議席にはならん。……立てる駒がなければ、勝ちようがないのだ」
私はぞっとした。その通りだった。私の周りにいる議員は、まだ、二十名ほど。全国を覆うには、あまりに少ない。
「だから、あの連中はこう読んだ」権藤は続けた。「支持率など、どうでもいい。投票所に来るのはうちの固定票だ。あの小娘の人気は、票には化けん。しかも、あいつには駒がない。……ならば、あいつが駒を揃える前に、まだ二十人の寄せ集めのうちに、一気に解散して選挙で踏み潰してしまえとな」
負けを覚悟のやけくその賭けではなかった。
冷徹な計算だった。組織は人気に勝つ。野党も受け皿にはならない。だから時機はいまをおいてない。
追い詰められたからこそ、彼らはそのたった一つの勝ち筋に賭けたのだ。
「おまけに」と、権藤は皮肉に口の端を歪めた。「解散すれば、党の公認を握れる。あのうるさいリベラルの造反予備軍どもに公認を出さん。それで党から干上がらせて消せる。……一石二鳥、というわけよ」
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「……では、私たちは勝てないのですか」
私は、思わず聞いた。
権藤は、ゆっくりと湯呑みを置いた。そして、四十年、この国のいちばん濁ったところで生き抜いてきた男の、あの底光りする目で私を見た。
「あいつらの読みには、一つだけ穴がある。……あいつらは、お前が“駒を揃えられない”という、その一点に、すべてを賭けておる。ならば」
その口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。
「その、たった一つの前提を、ひっくり返してやればいい。……あいつらが、絶対に動かんと高を括っておる、あのリベラルの一群を。わしが、そっくり引き連れて、お前のところへ渡してやる」
私は、息をのんだ。
「あいつらは、いまだに思っておる。あの連中は、党が嫌でも、固定票が恐くて離れられん、とな。……四十年、そのしがらみを作ってきたのが、このわしだ。ならばそのしがらみを断ち切ってやれるのも、わし一人よ。……あいつらの勝ち筋を、その大もとからへし折ってやる」
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解散のその日。私は、仙台のあの展示ホールの議場にいた。
議長が、天皇陛下の詔書を読み上げる。※衆議院の解散を告げる文書。
それは本来なら、赤い絨毯の敷かれた、東京の荘厳な議場で読まれるはずのものだった。
けれど、いまそれが響いているのは、発電機の唸るこの寒々とした借り物のホールだ。菊と喪章の載った空席をいくつも抱えたまま。画面の向こうの、避難所の議員たちが見守る中で。
慣例では、解散のとき議員たちは立ち上がり、万歳を三唱する。
けれど、その日その声はどこかうつろだった。
国土が傷つき、同僚が幾人も欠けたこの議場で、万歳と両手を挙げることにいったい、どれほどの人が心からなれただろう。
まばらな、力のない万歳が、高い天井に吸い込まれて消えていった。
私は、その手を挙げなかった。ただ、静かに席で、目を閉じていた。
――さあ。始まる。あの連中の、冷たい計算を覆す戦いが。
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解散と同時に。私は旗を揚げた。
新党「灯」。
義父から受け継いだ、闇を照らす一筋の火にちなんだ名だ。
集まったのは、あの逆流の日々に、私のもとを訪ねてくれた与野党の若手議員たち。
比例で通っていたために、これまではうかつに動けば議席を失う恐れから動けずにいた者たちも、選挙で新しい党から出直すのなら、もう恐れることはない。
沢井さんも、三宅さんも、ようやく堂々と私の旗の下に名を連ねてくれた。
けれど、その数は、政権が高を括ったとおり、二十名ほどに過ぎなかった。全国を覆うには、あまりに心もとない。
例え全員が当選したとしても、与党は勝って政権に対する正当性を得たと言い張れる。
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その大勢が決まったかに見えたまさにそのときだった。
権藤堅一郎が、動いた。
あの老いた実力者が、四十年、その身を置いてきた与党を割った。
あの緊急事態条項の、火事場泥棒のようなやり方に、我慢の限界を迎えていた、党内のリベラル派――穏健で、現実的で、あの復古の熱についていけずにいた一群の議員たち。
政権が「固定票が恐くて動けまい」と高を括っていたその一群を。彼らを縛るしがらみを、四十年かけて作った張本人が、いま自らの手でそれを断ち切った。
権藤は、彼らをそっくり束ね率いて党を出た。
その行き先が、私の新党「灯」だった。
政権の、冷徹な計算の土台――「あの小娘に、駒はない」。それが、音を立てて崩れ落ちた。
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永田町(と言っても場所ではない)は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
清らかな理想を掲げる、あの九条絵里香が。よりによって、あの権藤堅一郎と。
数と、力と、寝業の化身のような、あの古い政治の権化と手を組んだというのだ。
「あの二人が組むだと?」「水と油ではないか」
記者たちが、色めき立って私にマイクを突きつけた。
私は、隠さなかった。
「ええ。権藤さんに、幹事長をお願いしました」
私は静かに言った。
「私と権藤さんは、かつて、敵同士でした。掲げるものも、正反対です。……けれど私は、この災害の底で学びました。美しい理想だけでは、目の前の一人の命すら救えない、ということを。私の義父を救えなかったように」
私は、傍らの権藤を見た。相変わらず、苦虫を噛み潰したような小柄な老人。けれどその目には、あの雪の日々をくぐり抜けた静かな光があった。
「私が掲げるのは、灯です。行く先を照らす、光。けれど光だけでは、人は進めない。その足元のぬかるみを均し、橋を架ける現実の力が要る。私にはそれが足りない。この人にはそれがある。……理想と現実。その両方が揃って、初めて、この国は動く。それを私は義父の生涯から学びました」
そして、権藤がぼそりと口を開いた。独り言のように。
「……勘違いするな。わしは、ただ、この腐りきった古い家を、この手で壊すと決めた。そして、新しい家を作る人間がこの小娘しかおらん。それだけよ」
けれどその憎まれ口とは裏腹に、四十年党という古い家に身を捧げてきたこの男が、いま自らの手でその家を割って出てきた。その覚悟の重さを、私は誰よりもわかっていた。
理想を掲げる若き党首と。現実を知り尽くした、老いた幹事長。
世間は、私たちをこう呼び始めた。――「最凶コンビ」だ、と。
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けれど、私は浮かれてはいなかった。
権藤の割りは、確かに、敵の計算を根底から覆した。「灯」は、もはや一夜の寄せ集めではない。あの古い、大きな機械に、真っ向から挑める一つの確かな勢力になった。
だが、それでもなお。全国に候補者を立てそろえる時間は、あまりに足りなかった。人気はある。組織の芯もできた。けれどその二つを、三百の選挙区のすべてで票に変える駒は――どうしても、間に合わない。政権の読みの半分はまだ生きていた。
雪の解けた、仙台の空を私は見上げた。
義父から受け継いだ一筋の灯は、いま、一つの党の旗になった。その旗を掲げて、私は、選挙という名の、長い夜の戦いへと漕ぎ出していく。
長い夜はまだ明けない。
けれど、その旗の下には、もう二十ではない灯火が集まり始めていた。
混ぜるな危険




