線
攻撃は私の周りへのものだった。
反社に、不良外国人、性的マイノリティ。
「九条絵里香の周りは、外れ者ばかりだ」と、ある週刊誌が書き立てた。
けれどその火は燃え広がらなかった。
つい先ごろ生まれも過去も関係なく、肩を寄せ合って、あの灰の底を生き延びたばかりの人々に、剥き出しの分断は、白々しく響いた。
火がつかない。
焦った彼らは、次に狙いを一点に絞ってきた。
私の政策秘書、桐生律さんだ。
彼らは桐生さんを「九条絵里香の懐に潜む、倒錯者」として槍玉に挙げた。
「そもそも九条議員自身が、男から女へと性を変えた人間ではないか。倒錯した者が、倒錯した者を集めている。こんな人間に、家族を、国のかたちを語る資格があるのか」と。
私のことは世界じゅうがとうに知っているし、その攻撃はいまさら感がある。
しかし、記事の刃が狙ってきたのは、その傍の桐生さんだった。
彼の暮らしや家庭にまで土足で踏み込んで。
私への攻撃のために、穏やかに、誠実に生きてきた一人の人間のいちばん柔らかいところを彼らは嬲るように抉った。
それでも桐生さんは一言も弱音を吐かなかった。
あいかわらず、いちばん早く事務所に来て、いちばん遅くまで、条文を練っていた。……ただ、その顔から、いつのまにか血の気が失せていることに気づいていたのは、たぶん、私だけだった。
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ある夜。桐生さんが、私の部屋を訪ねてきた。
手に一通の封書を持って。
「……先生。これを」
差し出されたのは、辞表だった。
「私がいる限り、彼らはこの一点を突き続けます」
桐生さんは静かに言った。いつもの、言葉を選ぶあの話し方で。けれど、その声は少し掠れていた。
「あなたはもう、あなた一人のものでは、ありません。何十万という人の希望です。……その希望の邪魔に、私一人の存在がなるくらいなら……私が退きます」
彼は深く頭を下げた。自分を消すことで大きなものを守る。
それはいかにもこの誠実な人らしい選択だった。
……正直に言おう。私の中に一瞬ずるい声が囁いたのを。
この辞表を受け取れば、攻撃は標的を失う。楽になる。
……政治家としては、いちばん賢い判断だった。
けれど、私は、その声をはっきりと殺した。
そして、辞表を受け取らなかった。
「桐生さん。……覚えていますか」私は、静かに言った。
「あなたを雇うとき、相馬さんが言ったんです。『あの人をそばに置けば、必ず、的にされる』と。……そのとき、私がなんと答えたか」
桐生さんが、顔を上げた。
「……その人の来し方を理由にすること。それこそが私がいちばんしてはいけないことだ。……そう言いました」
私はその辞表を、そっと、彼の手に押し返した。
「いま、あなたの辞表を受け取ることは。……あのとき、私がいちばんしてはいけないと言ったことを、私自身がやるということです。あなたに何の非もないのに、都合が悪くなったからあなたという人間を切り捨てる。……それは、あの記事を書いた人たちとまったく同じです。人を、道具のように扱う……私は、あの人たちと、同じにはなりません」
桐生さんはしばらく私を見ていた。
いつも適切な言葉を選ぶ、その人が何も言えずにいた。
やがて、堅く結ばれていた口元がわずかに歪んだ。
この静かな人が私の前で、初めてその深い傷を見せた瞬間だった。
「……ありがとう、ございます」
それだけを、彼は、やっと絞り出した。
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辞表を押し返す。それだけでは足りないと私は思った。
桐生さんは、いまたった一人で「倒錯者」という札を、背負わされている。
私が、事務所の中で庇っているだけでは、世間の前では、彼はたった一人の「異常な者」のままだ。
それは違う。
私は、記者たちの前に立った。展示棟のガラス張りのロビー。
報道のカメラと、その奥の、中継の赤いランプ。
そのレンズが、この仙台から、灰の東京へ、西日本の避難所へと、私の声を届ける。
「桐生律を、『倒錯者』だと書いた記事について、お答えします」
私は、静かにけれどはっきりと切り出した。
「彼らは、彼を『生まれた性と、違う自分を生きる者』だと、書きました。……ええ、そのとおりです。そしてそれを言うなら」
私は、まっすぐレンズを見た。逃げも隠れもしなかった。
「この私も同じです。私はかつて神谷真という男でした。皆さんの、ご存じのとおりです…ですから、もし彼を『倒錯者』と呼ぶのなら。この私もまったく同じようにお呼びください」
そして、私は声に静かな芯を込めた。
「この国には、いま生まれた性と違う自分を抱えて、誰にも言えず、息を殺して生きている人が大勢います。あなたがたが、『倒錯』『異常』『病』と書くたびに、その言葉はその名も知らぬ人たちの胸を貫いている」
「何より、私は、その人たちと自分たちとの間に線を引くことはしません。もし引くのであれば、私は、はっきりと言います。……あなたもこちら側だと。この国の一員だと。人を『こちら』と『あちら』に切り分けること。その先に待っているものを、私たちは忌まわしい歴史で、嫌というほど見てきたはずです。……だから、私は決してその線を引きません」
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その中継を桐生さんは、事務所の隅でじっと見ていたという。自分のために自ら火の中へ身を投じるのを。……あとで聞けば、あのめったに動じない人が、そのとき、こらえきれずに顔を覆っていた、と。
痛みはあった。
桐生さんの傷も消えない。
離れていった年配の支援者もいた。
けれど、多くの人が静かに見ていた。
追い詰められても、この人は仲間を売らないどころか自らその盾になった。
……その姿が、かえって静かな信頼に変わっていった。人を人として。それを彼女は語るのではなく我が身で示していた。
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その一部始終を権藤は遠くから見ていた。
「……切れば、楽になるものを。あの娘は、切らんどころか自分から盾になりおった。損得で動かん厄介な女だ」
そう、側近に漏らしたという。
正面からは崩れない。
搦め手も効かない。
そう悟った者たちは、いよいよもっと危うい最後の一手へと傾いていった。
盤面をひっくり返す、一手。――解散へと。
ちょっとストーリーのつながりが悪かったので、全面改稿しました。




