手
仙台の臨時の国会は、国際センターの大きな展示ホールに置かれていた。
もともとは見本市や学会に使われる天井の高い、がらんとした空間だ。
そこへどこからかかき集めてきた長机と、折りたたみ椅子が、幾列も並べられ正面には間に合わせの議長席がしつらえてある。
壁際には、電源ケーブルがうずたかく這い、非常用の発電機が低く唸り続けていた。
床には、養生のシートが敷かれ歩くたびに乾いた音を立てる。
暖房はこの広すぎる空間にはまるで足りていなかった。議員たちはコートを着たまま、白い息を吐きながら席に着いている。名札は、プラスチックのケースに紙で印刷されたものだ。
窓の外には、遠くから運ばれた灰の混じったみぞれが音もなく降っている。国の政治が、この寒々とした、借り物のホールに押し込められていた。
議場の片側の壁には、巨大なスクリーンが、いくつも並んでいた。そこに映し出されているのは、この仙台まで来られなかった議員たちの顔だ。
富士の灰は、この国を東と西に断ち切っていた。
東海道は埋もれ、西日本の議員たちは、こちらへ陸路では来られない。
だから彼らは、それぞれの場所から、画面越しに、この国会へ出席していた。
無傷の会館の一室から映る者もいれば、崩れかけた地元の事務所から繋ぐ者もいる。中には、避難所の片隅から毛布にくるまったまま参加している議員さえいた。
回線はしばしば途切れた。誰かが発言している最中に、その顔がふと静止しモザイクのように崩れて消える。
採決のたびに、議長が名を読み上げ、画面の向こうから、雑音混じりの声が返ってくる。「……賛成」。そのたった一言が届くのを、議場全体が固唾をのんで待つ。これがいまのこの国の国会の姿だった。
そして議場には、いくつもの空席があった。
主のいないその机には、白い菊の花と、黒い喪章が、そっと置かれている。
議員も、またこの災害のただ中にいたのだ。太平洋岸に選挙区を持つ何人かは、あの日地元で津波に呑まれた。家族を失った者。自らも瓦礫の下で、九死に一生を得た者。ここにこうして座っている私たちの誰もが多かれ少なかれ傷を負っていた。
会期のはじめ、私たちは席を失った同僚たちのために黙祷を捧げた。広いホールに、発電機の唸りだけが低く響く中で。私は目を閉じ、義父の顔を思った。
仙台の、間に合わせの国会で、私は初めての法案づくりに取りかかった。
やるべきことは山ほどあった。けれど、真っ先に手をつけると決めたのはたった一つのことだった。
支援を届ける。いちばん届きにくい人にいちばん早く。
義父を連れて行ったのは、地震でも、灰でもなかった。その後の、支援の隙間だった。
停電した寒い部屋。切れた薬。届かなかった手。あの隙間で、義父は逝った。義父だけではない。避難所で静かに削られていった無数の命も。その一つひとつが支援が間に合わなかった、あるいは届かなかった命だった。
桐生さんが、法案を練り上げた。
いまの仕組みでは支援を受けるのに、まず罹災証明――※被災したことを役所が証明する紙――が要る。
けれどその発行が遅い。窓口に行けない、体の弱い人ほど後回しになる。
そして支援は、原則自分から申請しなければ届かない。申請のやり方がわからない外国人。窓口まで行けない車椅子の人。動けない、寝たきりの老人。いちばん助けの要る人ほどその入口で、こぼれ落ちていく。
「だから」と、桐生さんは言った。
「発想を、逆にするんです」
証明を待たずにまず届ける。また役所が自分から動いて支援の要る人を探しに行く。※こうした、待たずに届ける支援を、プッシュ型支援という。
体の弱い人、言葉の通じない人には優先して人が出向く。申請できない人を見捨てない。それを、はっきりと法律に書き込む。
私の胸が、熱くなった。それは、義父をあの隙間から救い出せたかもしれない一手だった。
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けれど、それを法律にするのはまた別の話だった。
私は、無所属だ。無所属の議員が出す法案が、そのまま通ることなどまずない。
会派の承認。二十人の賛成者。そして何より与党がうんと言わなければ、どんな法案も店晒しになって終わる。手柄を無所属の一年生に渡すことを、与党が良しとするはずもなかった。
ところが。
その、店晒しになるはずの法案が、動き始めた。
信じられない速さだった。
閉ざされていた会派の扉が開き渋っていた議員たちが、次々と賛成に回っていく。
与党の部会が、この無所属の法案を、正式に審議の俎上に載せた。無所属からの提案を、与党が丸ごと呑む。そんな例は、永田町の誰に聞いても、前例がないと言った。
私にはわかっていた。あの人だ。権藤。
後で、断片を繋ぎ合わせて、そのからくりが見えてきた。
権藤はまず、この法案に表立って反対しにくい空気を作った。
「被災した、いちばん弱い人に、一刻も早く支援を届ける」。それに反対する、と口にすれば、その議員は、あの災害を生き延びた国民の前で、どう見られるか。
権藤は、その逃げ場を一つひとつ塞いでいった。そのうえで、四十年の貸し借りを片っ端から取り立てて、渋る古参を黙らせていった。
数と、力と、面倒見。
あの人が四十年、この国のいちばん濁ったところで磨いてきた、その手練手管のすべてが、いま、私のたった一つの綺麗事のために使われていた。
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そして、法案は可決された。
被災した人に、支援を待たせない。申請できない人を見捨てない。
その、たった一つのことを、この国の法律に書き込んだ、私の、初めての一本。
無所属の一年生が出した法案が、与党を動かして成立する。それは、確かに、異例ずくめの出来事だった。
……けれど私は、それを自分の力だけで成し遂げたものだとは、露ほども思っていなかった。
あの見えない老いた手がなければ、この一本は、間違いなく店晒しの山の中で朽ちていた。
法律が成立したその夜。
私は一人、窓の外の雪を見ていた。
これで、助かる人がいる。まだ終わらない、この災害の中でも。申請できずに、こぼれ落ちるはずだった誰かの手に、今度こそ、支援が届く。
……お義父様。あなたを救えなかった、あの隙間を。私は、一つだけ塞ぎました。
けれど、と私は自分に言い聞かせた。
これは、まだたった一本だ。法律を一つ通したくらいで、何かを成し遂げた気になってはいけない。
この崩れた国を建て直す、途方もない道のりの、その最初の、小さな一歩に過ぎない。
私は、胸の奥の灯をそっと確かめた。義父から受け継いだ、あの一筋の火を。その光をもう少し遠くまで届かせるために、私にはまだ越えねばならない壁がいくつもあった。
そして、今回私は目立ち過ぎた。光の中へ進み出た者には、必ず影から狙う者が現れる。
その最初の一矢が放たれたのはすぐその後だった。




