灯火
九条邸はまだ無事だった。
あの揺れにもこの古い木の家はしなり軋みながらも持ちこたえ、屋根に積もった灰も時々落としてやれば大丈夫そうだった。
まるでこの家の主が、そう決めたかのようにしなやかに立ち続けている。
だが、電気は止まったままだった。灰は窓の隙間からも忍び込んでくる。暖房も効かず薬も尽きた部屋で、もともと大病を患っていた義父の肺は、日ごとに浅く細い息しかつけなくなっていた。
夜、私は灯の消えた家に帰った。
停電の闇の中で、聡子がたった一本の蠟燭を灯して義父の枕元に座っていた。その頼りない、けれど確かなオレンジ色の炎だけが闇に沈んだ家の中で静かに揺れていた。
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その夜、義父の息がひときわ浅くなった。
聡子と、同居の義兄と義姉がその側についていた。
私は畳に膝をつき、その痩せた手を握った。かつてこの国の政治を裏で動かしたその手は、もう驚くほど軽く冷たかった。
「……絵里香か」
うっすらと目を開けて、義父は言った。
「はい。ここにいます」
義父は、少し笑ったようだった。
「……いい政治家になったな」
「お義父様」
「わしが育てたわけではない。……お前が、勝手になったのだ。地盤も血筋も何一つ受け継がずに。……立派に」
私の目に涙があふれた。
義父の視線が、枕元の蠟燭の炎へとそっと向けられた。
「……絵里香。あの灯を、見なさい」
私は、その小さな炎を見た。
「頼りない、火だ……だが、闇が深ければ深いほど、あの一つの灯は、遠くまで届く」
義父は私の手を最後の力で握り返した。
「わしの灯をお前に渡す。……走る者は、代わっても、火は決して、絶えない。……絶やすな、絵里香。このどれほど暗い夜の中でも」
「……はい」私は、震える声で答えた。「絶やしません。必ず」
義父は、満足そうに目を閉じた。口の中で、何か祈りの言葉を唱えているようだった。信心深いこの人らしい、穏やかな顔だった。
やがて、その手から力が抜けた。
蠟燭の炎が、一度大きく揺れたが、それでも消えはしなかった。
畳の上で、九条匡義は眠るように逝った。
安らかな、死に顔だった。
まるで、長い長い一日の仕事を終えて、ようやく床につく人のような。
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地震でも、噴火でもなかった。
役所の記録の上では、義父の死は「災害関連死」――災害そのものではなく、その後の過酷な環境の中で失われた命――と、数えられるのだろう。灰に埋もれた、無数の関連死の一つ。
災害はいちばん弱い者から順にそっと命を奪っていく。私が、避難所で必死に食い止めようとしてきた、まさにその隙間が私の大切な人を連れて行った。
悲しみの底で、私は静かに誓った。
このような死をこれ以上増やさない。それが、あなたから灯を受け取った私の最初の仕事だと。
その晩は夫の曜一郎も病院から戻り、私に付き添ってくれた。疲れているはずの彼に、私は抱きついて泣きじゃくった。彼を待っている人は多いが、このときだけは私だけにその時間を使ってくれた。
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翌朝、灰を踏んで権藤が弔いに来た。
灰まみれのコートを玄関で脱ぎ、小柄な老人は、畳の上の旧い好敵手の亡骸を黙って見下ろしていた。
「……先に、逝ったか」
ぽつりと彼は言った。
その声には、私が初めて聞く湿り気があった。
やがて権藤は私のほうを向いた。
「……絵里香」初めて、彼は私を名で呼んだ。
「臨時の国会が開かれる。……東京ではない。今は東京では電気すらも満足に使えず、その機能は果たせない」
彼は、窓の外の灰色の空を見やった。
富士の灰は、東海道を――東と西を結ぶ、この国の大動脈を根こそぎ埋めていた。線路も、道も、空の便も、すべて止まった。西へ行くためには陸路ではぐるりと日本海側まで行く必要がある。事実上、日本はあの一つの山の灰で、東と西に断ち切られていた。
「西は灰で塞がれた。南は津波にさらわれた。……残る道は、北だけだ」
被災を免れたのは、かつてあの大津波にいちばん苦しめられた土地――東北だった。
「仙台に国会の機能の一部を移す。……この東京から、まだ陸路で繋がっているたった一つの場所だ。かつて国じゅうに助けられた東北が、今度は国をかくまう。……悪くない話だろう」
そして権藤は続けた。
「そこに議員が要る。一人でも多く。目の前の人の痛みがわかる議員が……お前が、避難所でやってきたことを、国の真ん中でやれる者が」
私は義父の亡骸を見た。そして、聡子を。
まだ弔いも済んでいない。この人を置いて。悲しみに暮れる義母を置いて。私は行けるのか。
私の迷いを見透かしたように、聡子が言った。
「……行きなさい、絵里香さん」
その声は涙で掠れていた。
けれど、まっすぐだった。
「この人がいちばん望むことよ。あなたが、がこの国のために灯を絶やさないこと。……ここは、私が看ます。この人のこともちゃんと送ります。だから」
権藤が、静かに付け加えた。
「北への足と宿泊場所はわしが手配した。行け」
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私は、灰の残る東京を車で発った。
車が、少しずつ灰の色を抜けていく。
北へ、山を越えて進むにつれ、空からあの忌まわしい灰が消えやがて雲の切れ間に久しぶりの青が覗いた。
私は、胸の内で、あの蠟燭の炎をそっと抱きしめていた。
――絶やすな。このどれほど暗い夜の中でも。
私がいちばん苦しかった時に私を拾い、九条の名を与え、家族にしてくれた。今の私の根っこであるともいえる部分を失った。
ずっと恐れてきた喪失がいま現実になった。
それでも、私の手の中には確かにあの人から渡された灯が燃えていた。
失われてはいない。私の中に移っただけだ。
暗い夜だった。国じゅうが灰と瓦礫と悲しみに、沈んでいた。
けれど、だからこそ。
一つの灯は、遠くまで届くはずだった。
私は、その灯を掲げて北へ向かった。
一人の娘としては、父を見送り。一人の議員としては、長い夜を照らすために。




