灰とダイヤモンド
地震から、一週間が過ぎた。
震源は、静岡沖。
押し寄せた津波は、太平洋の沿岸を次々と呑み込んでいった。
静岡そして紀伊半島の――和歌山の、海辺の町々も。
何万という人が家を失い、行方の知れぬ人を捜す声が、瓦礫の上に響いていた。
東京とて、無事ではなかった。震度は、五から六弱。それだけなら、と誰もが胸を撫でおろしかけた。けれど、長周期の揺れ――※遠く離れた高い建物ほど大きくしなる、ゆっくりした揺れ――は、都心の高層ビルを内側から傷つけ、古い家々を歪ませた。壊れた我が家を離れ近所の学校の体育館へ身を寄せた人は、この東京にも数えきれないほどいた。
つまりこの災いは遠いどこかの話ではなかった。
私の暮らすこの街もまた、被災地の一つになっていた。
私がいちばん気がかりだったのは義父のことだった。
九条邸は、あの揺れにも辛くも耐えた。
少しゆがみはあったが、直ちに危険ということはなさそうだ。
けれど、地震のあとの日々が、九条の老いた体にこたえていた。
電気が止まりがちになり、暖房も十分ではない。
かかりつけの医者にもかかれない。
もともと大病で弱っていた肺が、この冷えと埃っぽい空気の中で日に日に浅い息しかしなくなっていた。
「わしのことは、いい」と義父は言った。
「お前は、お前のやるべきことをやれ。……外に、お前を待っている人が、大勢いる」
その言葉に背を押され、私は、後ろ髪を引かれながら避難所へと向かった。
――それがどれほど危ういことだったか。
私は、まだ知らずにいた。
****
そして、それは起きた。
地震から、わずか七日目の午後だった。
遠い雷のような音に、西の空を見上げた私は息を呑んだ。
白かった富士の山肌から、黒い煙が、猛烈な勢いで天へ噴き上がっている。
それはみるみる、巨大なきのこ雲に育ち、空の半分を暗く閉ざしていった。
宝永のときは噴火まで四十九日の猶予があったと、義父は言った。だが、今度の山は七日と待たなかった。地震にまだ誰もが打ちのめされているその背中へ、天は二つ目の槌を容赦なく振り下ろした。
やがて、空から灰が降り始めた。
雪ではない。灰色のざらついた火山灰だ。それが音もなく、街に降り積もっていく。
たった数ミリで鉄道は止まった。
道路は滑り車も動けない。
そして灰は雨を含んで重く濡れ、送電の設備に降りかかって――街の灯が、消えた。
停電。断水。細かい灰は、目を刺し、喉を焼き、息をするたび肺に入り込む。
一つの傷から立ち上がろうとしていたこの国に、天は、二つ目の災いを、重ねてきた。
****
私は、避難所の体育館にいた。
灰は降りやまなかった。
そして、濡れて重くなった灰が、静かに、けれど確実に屋根を圧し始めた。
古い体育館の天井が、みしり、みしりと、不気味な音を立てる。
中には、逃げ場を失った人が、何百人と身を寄せ合っていた。
「このままじゃ、屋根が、抜けるぞ……!」
誰かが、叫んだ。役所から来た担当者は、青ざめて無線機を握りしめるばかりだった。
「上の、指示を……専門の業者の、手配を、待たないと……」
待っていたら、屋根が落ちる。中の人が、潰される。
私は腹を決めた。
「――佐伯くん!」
私は、仲間の一人を呼んだ。佐伯くん。
かつて少年院にいた、鳶職の青年だ。手弁当の頃からずっと私のそばにいてくれた。
高いところが、庭のような男だった。
「屋根の、灰を掻き落とせますか。人が、下敷きになる前に」
佐伯くんは、灰まみれの顔でにっと笑った。
「先生。それ、俺らの、いっとう得意なやつっすよ」
彼は、同じ現場仲間を数人集め、命綱を体に巻きつけると、猿のように体育館の屋根へ駆け上がっていった。かつては世間に爪弾きにされた腕っぷしと、身の軽さ。
それが今、何百人もの命を、その背に担いでいた。
私も、下に残った者を動かした。
「両側から、はしごを! バケツを回して、掻き落とした灰を受けて!」
鵜飼さんが、工場の有り合わせで、灰を掻くための道具をいくつも作って持ってきてくれた。
リムさんと、仲間の外国人たちがそのバケツリレーに加わった。
言葉は、うまく通じなくても、手は、しっかりと繋がっていた。
屋根の上で、佐伯くんたちが、重い濡れ灰を、力の限り掻き落としていく。
天井の軋みが、少しずつ収まっていった。
そのあいだに桐生さんと立花は、体育館の中で、動けない人たちをより安全な頑丈な校舎へと移していった。あの、片足を失くした息子を持つ母親が、車椅子を押している。
「先生! こっちは、私が! 弱った人から、先に!」
その声は以前の、消え入るようなものとはまるで違う芯の通った声だった。
また鵜飼さんは、工場のわずかな電気を使って、灰を防ぐ簡単な覆いをこしらえ配って回っていた。かつて、大手に言われたものしか作れなかったあの人が、いま、自分の頭で考えたものを人のために作っていた。
役所の担当者が、呆然とその光景を見ていた。誰の号令でもなくそれぞれが自分にできることで、目の前の命に手を伸ばしている。
佐伯君と私は、他にもつぶれそうな家がないか回った。
私はその真ん中で声を張り上げ、駆け回り指示を飛ばし続けた。
政治家の顔でも、演台の上の顔でもない。
ただ、目の前の一人を死なせたくない。
その一心だった。
屋根は、落ちなかった。
誰一人、欠けなかった。
****
すべてが、ひと段落した、夜更け。
私は、灰にまみれて体育館の隅に、へたり込んだ。
すると、佐伯くんが缶コーヒーを一本放って寄越した。
「先生も、無茶しますねえ」
「佐伯君ほどじゃありません」
私たちは、灰だらけの顔で笑い合った。
そのとき、私の胸に、ふと一つの像が浮かんだ。
石炭は、途方もない圧に長い時をかけて押し潰されるとダイヤモンドになるという。
いまこのすべてを覆う灰の重い圧の下で。
世間から見向きもされなかった人たちが、次々と思いもよらない輝きを放ち始めていた。
爪弾きにされた鳶の青年。
買い叩かれてきた町工場の主人。
よそ者とされてきた外国人。
身を縮めていた、母親。
この国がいちばん軽んじてきた名もない人々。
その一人ひとりが、この灰の底で押し潰されるどころか、硬く輝くダイヤモンドになっていた。
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思いがけない助けも、届いていた。
滞っていたはずの物資が、ある時から、避難所に流れ込み始めた。
詰まっていた行政の手続きが、どこかでするするとほどけていく。
不思議に思っていた私に、大河内先生がそっと教えてくれた。
「……権藤さんよ」
あの人は、現場には出てこない。
灰を掻くことも瓦礫を運ぶこともしない。
その代わりに、彼は電話の一本で役所を動かしていた。
後で聞くと、それは恫喝のような言葉だったという。
「――ふざけるな! 前例がないだと? 前例のない災害だから、言うておるのだ! 物資は公平に等と悠長なことを言っておらず、動かせるものから動かせ」
そういって受話器を叩きつけていた。
数と力で四十年。役人の生殺与奪を握ってきた男。
その凄みだけで、彼は、凍りついた行政の歯車を無理やりこじ開けていた。
掻いた汗ではなく、恫喝で人を救っていた。
やり方は私とは正反対だった。けれど――届く先は同じ一人の命だった。
あとで知ったことだが、権藤の地元、和歌山は、その海辺の町もあの津波に根こそぎさらわれていた。もう票にも何にもならない場所だった。
****
その夜。
灰の積もった九条の家に権藤が訪ねてきた。
義父は、床に伏せったまま、旧い好敵手を迎えた。
浅い息のあいだから、それでも、皮肉な笑みだけは絶やさなかった。
「……相変わらず、役人を、泣かせておるようだな」
「うるさい。寝ておれ」
権藤は、義父の枕元にしばらく座っていた。
それから、ゆっくりと私のほうを向いた。
初めて、その目に敵意も値踏みもなかった。
「小娘。……肚を決めた」彼は言った。
「わしは退かん。党の内に残る……そのうえで力をお前に使ってやる」
「……なぜですか」
「この灰の下で、見たからよ」権藤は言った。
「お前たちが人に火を灯して回るのを。……わしのような数だけの男の時代は終わる。だがその終わらせ方くらいは、選ばせてもらう」
彼は、ふ、と息を吐いた。
「お前一人では、越えられん壁がこの先いくつも来る。会派の壁。二十人の賛成者。……そのときに内側から閂を外してやる者が要るだろう」
それはずっと私を阻んできたあの壁を。無所属の私が決して一人では越えられなかったあの壁を。
内側から、開けてやるという申し出だった。
私の頭の中で、灰の中からあの絵図がもう一度立ち上がってきた。
まだ具体的な姿まで見えていたわけではないが、
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権藤が帰ったあと義父は、目を閉じて静かに息をしていた。
その呼吸が痛ましいほど浅かった。
「お義父様。……少し、横になっていてください。お医者様を探しますから」
「……いい」義父はうっすらと笑った。
「それより、絵里香。……お前の掲げる、その旗を、わしは、もう少し、見ていたいものだな」
その声があまりに穏やかで、私はなぜか胸を締めつけられた。
けれど、そのときの私は、まだ、迫りくるものの正体に、気づいていなかった。
私は、窓の外を見た。
灰は、まだ降り続いていた。けれど、その灰色の空の遠くにほんのわずかに明るいものが滲んで見えた気がした。
すべてを覆った、灰の下から。
硬く、まばゆいものが、いくつも芽を出そうとしていた。




