奔流
揺れは、永遠に続くかと思われた。
私は、義父の痩せた体を畳に押さえつけるようにして覆いかぶさっていた。
頭の上で、天井が軋み、悲鳴を上げている。茶棚が倒れガラスの割れる音がした。聡子の押し殺した悲鳴が聞こえる。
どれほどの時間だったろう。実際には、ほんの数分だったのかもしれない。けれど、それは私がこれまで生きてきたどの数分よりも長かった。
やがて、揺れは潮が引くようにゆっくりと退いていった。
「……お義父様。ご無事ですか」
私は、恐る恐る体を起こした。九条は、青ざめた顔でそれでも、しっかりと頷いた。
「わしは、大丈夫だ。……お前こそ、怪我はないか」
「聡子さんは」
「ここに、いますよ」
茶箪笥の陰から、震える声が返ってきた。額に、切り傷。けれど命に別条はなさそうだった。
そして私は座敷の隅を見た。
権藤堅一郎が、そこにいた。崩れた本棚の下敷きになりかけ辛うじて身をかわしたらしい。その顔から、いつもの底の知れない冷たさが消えていた。ただ呆然と、揺れの去った天井を見上げている。
数と力で、四十年、この国を締め上げてきた男。その男が、いま大地のたった一度の身震いの前に、なすすべもなく畳にへたり込んでいた。
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幸い、停電はしていなかった。私は震える手でテレビをつけた。
画面は、すでに、あの忘れもしない地図に切り替わっていた。日本列島の太平洋側が、赤く点滅している。
『大津波警報』――※津波への警戒として、いちばん高い呼びかけだ。
アナウンサーの、切迫した声。震源は、静岡県沖。南海トラフ――※東海から西へ、海の底に横たわる巨大な溝。いつか必ず巨大地震を起こすと長く恐れられてきた場所――が、ついに動いたのだ。
「……来たか」
九条が、掠れた声で呟いた。
私の手の中で、スマートフォンが鳴りやまない。仲間からの、安否の確認。けれど、私の目は、テレビの一点に釘付けになっていた。
伊豆半島の南の端。下田。
画面の中で、その海が、膨れ上がっていた。
黒い壁のような水が、防波堤をあっけなく乗り越えていく。船が、家が、車が、おもちゃのように押し流されていく。
下田。
かつて曜一朗と一緒に過ごした、青く、穏やかだったあの海が。いま、すべてを呑み込む黒い奔流に変わっていた。
私は声も出せなかった。ただ、画面を見つめていた。あの優しかった水が、人の暮らしを根こそぎさらっていくその様をみていた。
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東京も無傷ではなかった。
私たちのいるこの古い家は、木造ゆえに、かえってしなって持ちこたえた。けれど、テレビは都心の別の光景を映し出していた。
震度は五から六弱。それだけなら、あれほどの高層ビルが傷つくはずはなかった。
けれど――長周期地震動。※ゆっくりと、長く続く大きな揺れ。震源から遠く離れた背の高い建物ほど大きくしなる。天を突くようなビルの群れが、船の帆柱のようにたわみ、軋み、内側から傷ついていた。
ガラスが降り、エレベーターが止まる。街の機能が静かに麻痺していく。
私は、はっとした。
曜一朗。
夫は、今日研究室にいたはずだった。
震える指で電話をかける。繋がらない。何度かけても回線はすべてパンクしていた。
医者でもあるあの人は、いま、この破れた街のどこかで、運び込まれてくる無数の傷ついた人たちの前に立っているかもしれない。
逃げることもできずに。
無事でいて。私は、祈るようにそう念じた。
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ふと気づくと、権藤が、テレビの津波の映像を、食い入るように見つめていた。
「……固定票が、なんだ」
彼は、誰にともなく呟いた。
「道路を通してやった、儂の地元が。……根こそぎ、だ」
四十年、彼が数と面倒見で束ねてきた、その人々の暮らし。それがいま彼の目の前で水に呑まれていた。数ではどうにもならない。力でも、金でも、票でも。
この圧倒的な現実の前では。
権藤の拳が、震えていた。怒りでも、恐怖でもない。
もっと深い無力さに、その老いた体が震えていた。
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私は立ち上がった。
新党だの、権藤だの、皇国会議だの。ついさっきまで頭の中を占めていた、あの絵図。それが、いまはひどく遠くちっぽけなものに思えた。
いま、目の前にあるのは、ただ一つ。呑まれ、潰され、凍え、怯えている、生身の一人ひとりだ。
政治がなんのためにあるのか。
それを問う必要すらなかった。答えは、この瓦礫の中に、転がっていた。
私は、無所属の一年生議員だ。持っている力は、ほんのわずかだ。それでも――動かなければ。私にできることがたとえどんなに小さくとも。
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テレビのテロップが、変わった。
『浜岡原発 外部電源の一部喪失 中部電力が確認急ぐ』
私の背筋が、凍った。
あの原発は、もう何年も止まっているはずだった。動いてはいない。
それでも――止まった炉の中にも、冷やし続けねばならない燃料がある。その冷却が止まれば。津波が、あのかさ上げした防潮堤を越えていたら。
止まっているはずの原発すら、まだ、終わってはいなかった。
そして。
九条がゆっくりと窓の外の西の空を見た。
その視線の先を、私も追った。
晴れた冬の空に、あの白い山がいつもと変わらず、静かにそびえていた。
富士山。
「……絵里香」
九条の声は、低く、乾いていた。敬虔なクリスチャンであるこの人が、まるで古い預言でも口にするように。
「三百年あまり前だ。宝永の年。この国を、同じように、南海の大地震が襲った。……そして、その四十九日の後に」
彼は、そこで言葉を切った。
「あの山が、火を噴いた」
座敷に、冷たい沈黙が落ちた。
権藤も、聡子も、そして私も。誰も、何も言わなかった。ただ四人でその静かすぎる白い山を、見つめていた。
まだ、何も始まってはいないのかもしれなかった。この奔流は、ほんの序章に過ぎないのかもしれなかった。




