陽だまり
その日、私は義父の家にいた。
久しぶりの穏やかな午後だった。
九条匡義――私の義父はめっきり弱っていたが、それでも背筋だけは伸ばして縁側の陽だまりに座っていた。
玄関の呼び鈴が鳴ったのは、義母の聡子がお茶を淹れてくれた、ちょうどそのときだった。
取り次ぎに立った聡子が告げた来客の名に、私は思わず湯呑みを取り落としそうになった。
権藤堅一郎。
あの切り抜き事件の裏で戯れに私を窮地に追い詰めた人。
永田町を、四十年数と力で締め上げてきた、私の――敵と言ってもよい人。その人がなぜこの家に。
座敷に通されてきた権藤は、いつも国会で見るよりも小柄な老人だった。
仕立てのいい私服に身を包んでいる。
けれどその眼だけは、底の知れない冷たい光をたたえていた。
「どういう風の吹き回しだ」
九条が、口の端で笑った。
旧知の相手にだけ見せる皮肉な笑みだった。
権藤はゆっくりと腰を下ろし、それからちらりと私の方を見た。
「なに。……おてんば娘の親の顔が見たくてな」
その視線に私の背がこわばった。
値踏みするような、それでいてどこか面白がるような奇妙な目だった。
****
九条と権藤。かつての仇敵と言ってもよい間柄だ。
二人はしばらく、探るように当たり障りのない言葉を交わしていた。
昔の誰それがどうした。あの選挙がこうだった。
けれど、その一言一言の底に、四十年分の火花の記憶が沈んでいることは、聞いている私にもはっきりと伝わってきた。
「あのときは、あんたにしてやられたな」ふと、権藤が言った。
「どのときだ。貴様に出し抜かれたことなら両手の指でも足りん」九条が応じる。
二人は声を立てて笑った。
聞くともなしに、私はその昔語りに耳を傾けていた。
若き日の九条は正論の人だったという。
筋を通し、理想を語りそして幾度も権藤の「数」の前に敗れてきた。
「あんたはいつも正しかった」権藤が、茶をすすった。
「正しくて、そして負けた。……正しさは、票を数えてはくれんからな」
「そう言いながらこっそり手を貸してくれたこともあったろう」九条が言った。
「……はて。知らんな」
権藤はとぼけて横を向いた。
敵として四十年。
けれど、この二人のあいだにあるものは憎しみとは少し違うようだった。
理想を掲げて現実とすり合わせてきた男と、現実から逆算して勝ち続けた男。
互いの生き方を、心のどこかで認め合ってきたのかもしれない。
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そこへ、聡子が盆を手に入ってきた。
「権藤先生。ようこそ。何もございませんけれど」
そう言って彼女がそれぞれの前に置いたのは、茶と――どら焼きだった。
権藤の視線が、その餡の艶に吸い寄せられるのがわかった。伸びかけた手がふと止まる。その顔にありありと逡巡が浮かんだ。かかりつけの医者の顔か、あるいは家の奥方の顔でも思い浮かべているのだろう。
九条が、意地悪く口を挟んだ。
「どうした。天下の権藤が、どら焼き一つになにを震えておる」
「……うるさい」
権藤は観念したようにそれを手に取った。そして一口。
老獪な政治家の顔がその瞬間だけどこか子どものようにほどけた。
「……うまい」
四十年この国を数で締め上げてきた男が餡子一つにあっさりと陥落していた。私は、吹き出しそうになるのを懸命にこらえた。
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どら焼きを半分ほど食べ終えたころ。
権藤の顔から、ふと笑みが消えた。
「……九条。あんたに、一つ聞かせたいことがあって来たのかもしれんな」
その声は、急に老いて聞こえた。
「皇国会議のことだ」
私は息を詰めた。
「あんたも知ってのとおりだ」
権藤は、湯呑みを両手で包んだ。
「わしはあの手の理屈が嫌いだ。陛下のお考えを無視して皇室がどうの。家族のかたちがどうの。憲法をどう書き換えるるべきだだの。……正直、わしにはどうでもいい。あってもなくても、いい話だ。国がまわりさえすればな」
「本来は貴様の敵ではなかっただろう」
九条が静かに言った。
「そうだ」権藤が頷いた。
「便利な道具だった。固定票――※動員をかければまとまって動くあの確かな票だ。あれを束ねてくれる。選挙のいちばんの土台よ。……わしは、それを使ってきた。四十年な」
彼はそこで言葉を切った。
「だがいつのまにか、あの連中が手綱を握る政治家が国の顔になりおった。……そうなると、話が違ってくる」
権藤の目が細くなった。
「いちばん大事な席で、あいつらは皇室だの夫婦同姓だの同性婚禁止の話ばかりを進めようとする……いま、この国が本当に、額を突き合わせて決めねばならんことは、ほかに山ほどあるというのにだ」
その言葉は奇妙なことに私の胸へまっすぐ届いた。
あの鵜飼さんの裾野の話。この国の稼ぎ方の歪み。時計の針を戦前に戻す話にうつつを抜かしているあいだに置き去りにされていく無数の暮らし。
敵のはずのこの老人と、私はまた同じものを見ていた。
「……票は力だ」
権藤は独り言のように続けた。
「それは今も変わらん。……だが、その力だけでは、もう思うようには動かせん。そういう世の中になった」
彼は皺だらけの手で宙をなぞるような仕草をした。
「昔は義理と線香で票が動いた。地元に道路を一本通してやれば、村ごとこちらを向いた。……だが今はどうだ。手のひらの小さな板――※スマートフォンのことだろう――の中で、風向きが一晩でひっくり返る。わしのような古い人間の、数の読み方が通じん時代になった」
「弱気なことだな」九条が言った。
「歳だ」権藤は、あっさりと認めた。
「……そろそろ潮時かもしれん。わしも、引き際を考えておる」
私は驚いてその小柄な老人を見つめた。
永田町を震え上がらせてきた男。その口からこぼれた思いがけない弱音。
それは一人の疲れた老人の声だった。
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二人の老人の昔語りと弱音を聞きながら。
私の頭の中に、ふいに一枚の絵図が浮かび上がった。
新党。
固定票という古い土台が崩れかけている。時計の針を戻す話に政治のいちばん高い席が、占領されている。そして置き去りにされた無数の暮らしが、行き場を失っている。……ならば。その行き場のない思いを、丸ごと受け止める新しい器が要るのではないか。古い政治のその外側に。
心臓が静かに速く打ち始めた。
けれど――と、私はすぐに思い直した。
目の前の、この権藤という男。
この人が恐ろしいのは、この人が与党の内側にいるからだ。数と実行力。それを握っているからこそその一言に天下を動かす重みがある。
……もし、この人が与党を離れたら。あの票がそっくりついてくるとは限らない。それどころか、力の源泉を手放した、ただの老人になりかねない。新党という器だけでは、足りないのだ。
権藤をただ引き抜いてくればいい、という話ではない。もう一歩その先を――。
私がそこまで考えたときだった。
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遠く地の底から、低い、唸るような音が這い上がってきた。
地鳴りだった。
「……地震か」
九条が呟いた、その声をかき消すように、ぐらりと家が傾いだ。
私の携帯電話がけたたましく鳴る。あの耳障りな音とともに「地震に備えてください」とのアナウンスが鳴る。
最初に下から突き上げるような衝撃が来た。
続いて大きな横揺れ。障子が鳴り茶棚の湯呑みが床へ滑り落ちて砕けた。
「あなたっ」
聡子の叫ぶ声。
私はとっさに弱った義父の体へ覆いかぶさった。
揺れは、収まる気配がなかった。
それどころかどんどん大きくなっていく。畳が、生き物のように波打つ。天井から、埃が雨のように降ってくる。柱が悲鳴のような軋みを上げた。
これは――ただの地震では、ない。
理念も、数も、固定票も、いま浮かんだばかりの新党の絵図も。そのすべてをあざ笑うように、大地そのものが牙を剥いていた。




