裾野
年が明けて、通常国会が始まろうとしていた。
その日、私の事務所を訪ねてきたのは、支援者の一人に連れられた初老の男性だった。
鵜飼さんという。
下町で、小さな町工場を営んでいる。溶かした樹脂を型に流し込み、自動車や家電の部品に仕上げる、プラスチック成形の工場だ。大手メーカーの下請けの、そのまた下請けにあたる。
差し出された手は、節くれだって、油が染み込んでいた。
「先生に泣きつくような話じゃ、ないんですがね」
そう言いながら、鵜飼さんは深く頭を下げた。
去年から、原料の樹脂の値段が跳ね上がっている。もとをたどればあのイランの戦争だ。原油の供給が不安定になり、原油から作られるナフサ――※プラスチックの、おおもとの原料――の仕入れも細って、値も上がった。
その分、樹脂の値段がじりじりと押し上げられていく。電気代も上がった。人件費も、上げないわけにはいかない。
「ところが、納める値段は一円も上げてもらえんのです」
大手に頼めば「では、協議しましょう」と返ってくる。
けれど、その席でこちらが強く出れば、次からの発注がぱたりと止まる。
三十年、付き合ってきた取引先だ。逆らえるはずもない。結局は涙をのんで、元の値段で引き受ける。
「うちの若い衆の給料も上げてやれん。……このままじゃ、畳むしかないんです」
そこまで話して、鵜飼さんは、ふ、と力なく笑った。
「とはいえ、正直、あんまり期待はしとらんのですよ。先生のような、若くてきれいな方が、理想を語る。それはけっこうです。けど、うちみたいな油まみれの現場は、理想じゃ回らんのです。……私はね、選挙はずっと与党に入れてきた。あの人たちは、少なくとも仕事を作り、回してくれた。あなたにそれができますかね」
その言葉には、いつか、あの重鎮が私に向けたものと、同じ匂いがした。
理想は、飯を食わせない。
私は言い返さなかった。
ただ、この人の油の染みた手を見ていた。この手が三十年、動かしてきた工場。そこで暮らす人たちがいる。それを「値段」の一語で、なかったことにさせてたまるものかと思った。
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私は、この件を桐生さんに預けた。政策担当秘書としての、初めての大きな仕事だった。
最初は、手応えがあるように見えた。桐生さんは、下請けを守る法律を洗い直し、ちょうど今年の一月、それが大きく改正されたばかりだと突き止めた。名前も「下請法」から「取適法」――※中小受託取引適正化法、という長い名前の略称だ――に改まっている。協議もせず一方的に値段を据え置くことはもう禁じられた。守る網の目は、確かに細かくなっている。
桐生さんは、その一歩先を行く条文を、書き始めた。値上げの協議を申し出た中小に、仕返しで取引を打ち切ることを禁じる。
打ち切りが仕返しでないと証す責任は、大企業の側に負わせる。申し出は匿名でもできるようにする。声を上げた者がそのことで不利に扱われない――。
けれど、桐生さんは、書きかけの紙を机に置いてこう言った。
「先生。……私は、無駄なものを書いているのかもしれません」
「え」
「報復を禁じても、立証の責任を大企業に移しても。……鵜飼さんはたぶんそれでも声を上げません」
私は、黙って、その先を待った。
「申し出るというのは、あの工場の命綱を握っている相手を、お上に訴えるということです。法律が『仕返しは禁止だ』と書いても、切られる恐怖そのものは消えない。証明できるのは切られた後です。……その頃には、工場は、もうありません」
彼は、弁護士だった頃のあの目をしていた。
「法律は席を用意できます。でも、その席に座る勇気までは守れない。いちばん弱い人は、結局その席に着けないんです」
私の中で、あの鵜飼さんの力ない笑いがよみがえった。
「それに」と、桐生さんは続けた。
「その取適法も、施行から、まだ一年も経っていません。効いているのか、いないのかの効果測定もこれからです。それを、今また書き換えろと言っても……永田町の誰も、まともに取り合わないでしょう。私が、逆の立場でもそう言います」
正しさを条文の形にする。それだけでは届かない。
桐生さんは、嘘の剣を私に握らせない人だった。それはありがたく、そして...こたえた。
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「では、どうすれば」
私は、沢井さんにすがるように聞いた。経済に明るい財務省出身の1年生議員だ。
沢井さんはしばらく黙って、それからゆっくりと、大きな絵を描き始めた。
「……鵜飼さんが、なぜあそこまで弱い立場なのか。それを、突き詰めるとこの国の稼ぎ方そのものに行き着くんです」
彼は言った。この国の経済は一つの山のような形をしている。てっぺんには、ほんの一握りの輸出で稼ぐ大企業――とりわけ、自動車メーカーがいる。その足元に幾層もの下請けが連なる。てっぺんの企業が安く、速く作れるように、下請けがコストを削って支える。
「長いことこの国は円安に頼ってきました」と、沢井さんは言った。
「円が安ければ、輸出は、海の向こうで儲かる。だから、円安を良しとしてきた」
けれどと彼は続ける。円安は諸刃の剣だ。輸出組の儲けを太らせる一方で、外から買うもの――ナフサも、エネルギーも、原料もみんな高くする。
そしてその値上がりを、てっぺんの大企業は、下へ、下へと押しつける。いちばん下でそれをまるごとかぶるのが――。
「山の、裾野です」沢井さんは言った。「鵜飼さんは、その裾野にいる」
「……でも」私は、ためらいながら聞いた。「その稼ぎ方で、この国は豊かになってきたんじゃ」
「ええ。それは否定しません」沢井さんは、正直だった。
「輸出と、円安と、我慢強い下請け。この形で、戦後この国は伸びた。何百万人もの働き口を生んできた。……ばかげた仕組みだったわけじゃ、ないんです。ただ、それは裾野をショックを吸い取る緩衝材にしてきた形でもある」
そして、と沢井さんの声が低くなった。
「そのてっぺんの方が、いま崩れ始めています」
彼は、一つの例を挙げた。
日産が、追浜の工場での車づくりを、二〇二七年度の末で終えると決めた。かつて、この国の輸出を支えた城の一つが畳まれる。
「城が一つ畳まれれば、その足元の裾野――何百という、鵜飼さんたちが、地面ごと、消えます。少数の、昔ながらの巨大企業に、極振りしてきた。その形がいま...軋んでいる。そして軋みのしわ寄せはまた裾野に来る」
私は、言葉を失った。
鵜飼さんの苦しみの根本にあるものは、下請法の抜け穴の話ではなかった。この国の稼ぎ方のその形そのものが生み出した歪みだった。
「……正直に言います」沢井さんは、まっすぐに私を見た。
「これは、僕のような一年生が法律を一つ二ついじってどうにかなる話じゃない。国の稼ぎ方そのものを作り替えるしかない。何十年もかけて、積み上げた歪みです。……気の、遠くなる話ですよ」
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それでも、何かをしたかった。せめてあの報復禁止の一案だけでも対処療法で世に問えないか。
けれど、私は無所属だ。法案を一本出すだけで、二十人の賛成者と、会派の承認が要る。私一人では、その入口にすら立てない。誰かに賛成者として名前を連ねてもらうしかない。
その話をしたとき、沢井さんは静かに言った。
「……僕が、名前を乗せますよ」
私は、はっとした。
「沢井さん。それは造反ですよ」
「わかっています」
沢井さんは、少し笑った。けれど、その目は笑っていなかった。
「僕は、比例で通った身です。党の名簿に、載せてもらって議席をいただいた。……その僕が、党に弓を引けば。除名されて名簿からは外される。政治家としては、それで議員資格は終わりです」
「なら、なぜ」
「それでも、筋の通らないものは、通らないからです。財務省を飛び出したときと、同じですよ」
その覚悟は、まっすぐで、美しかった。
だからこそ、私は首を横に振った。
「……だめです」
「先生」
「あなたの、政治家としての一生を賭けさせて。それで、やっと通るのが、鵜飼さんを救えもしない、身振りだけの法案だなんて。……そんなことのために、あなたを使い捨てにはできません」
沢井さんは、しばらく私を見て、それから、ふ、と息をついた。
「……あなたは、そう言う人だ。だから、僕は、あなたのところに来たんですが」
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その夜、私は、大河内先生に、洗いざらい話した。桐生さんの見立て。沢井さんの、あの構造の話。そして、私の無力さを。
先生は、静かに聞いていた。そして言った。
「造反した一年生を、守れる者。会派を、丸ごと動かせる者。……この国の、稼ぎ方にまで、手を突っ込める者。そんな力を持っているのは、この永田町に、ただ一人よ」
「……誰、ですか」
「権藤」
その名に、私は息を止めた。
権藤。あの切り抜き事件の裏で、戯れに歩を一つ動かし、私を窮地に陥れた重鎮。私の敵ともいえる。
「あの人に、この国の稼ぎ方を変える力が?」
「あるでしょうね。良くも悪くも。数と力で、四十年この国の背骨を、握ってきた男だもの」
大河内先生は、うっすらと笑った。
「おかしなものね。あなたと権藤さんは、皇国会議のときも、同じものを苦々しく見ていた。そして今度は、この国の稼ぎ方の歪みまで。……正反対の二人が見ているものだけはなぜか重なる」
私は、あの冷たい水のような横顔を思い出していた。
理想では動かない男。けれど歪みは理想ではない。現実だ。もしかしたらあの人こそがいちばん冷たくその歪みを見ているのかもしれなかった。
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私に、残された手はたった一つだった。
私が所属しているのは外務委員会。外交や条約をあつかう場だ。
下請けや、中小企業の話には手が出せない。それは、経済産業や、公正取引委員会の畑だ。
けれど――鵜飼さんの苦しみの大もと。あのイランの戦争と、ナフサの高騰。あれはまぎれもなく、外交と資源の話であり、近ごろ言う経済安全保障――暮らしや産業を、外からの危機から守る考え方――の話でもある。
その一点でなら、外務委員会の私にも正面から、問える。
私は、質問に立った。
法案は、出さなかった。出せないこともそれが今、パフォーマンスにしかならないこともわかっていたからだ。
代わりに、私は、問いを、記録に刻んだ。
外から来た値上がりの波を、この国は、いちばん高いてっぺんではなく、いちばん低い裾野に、押しつけてはいないか。
輸出のてっぺんが、追浜のように、一つ、また一つと崩れていくとき、その足元の裾野を、誰が守るのか。
経済安全保障とは、山のてっぺんだけでなく、それを支える裾野のその一人ひとりの暮らしを守ることではないのかと。
外務大臣の答えは、予想のとおりだった。
「原料の安定供給には、努めてまいります。……ただ、個別の産業政策は、経済産業省の所管でございまして」
木で鼻をくくったような答えだった。縦割りの壁は厚い。
それでも、私の言葉は議事録に残った。外交という遠い話と油まみれの町工場の現実とがその日はじめて、一続きのものとして語られた。
それが、いまの私にできる精一杯だった。
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後日、私は鵜飼さんにもう一度事務所へ来てもらった。今度は、沢井さんにも同席してもらった。
まず、私は正直に打ち明けた。
「鵜飼さん。……嘘は、つきたくありません。私には、あなたの工場を、明日救う法律を、作る力は、ありません。この問題の根は、あまりに深くて、私一人ではとても届かない」
鵜飼さんは、しばらく黙ってそれから、ふ、と力なく笑った。
「……でしょうな。まあそんなもんです」
「でも」と、私は続けた。「今日、来てもらったのは、それを言うためじゃ、ないんです。……沢井さん」
沢井さんが、身を乗り出した。
「鵜飼さん。一つ聞かせてください。あなたの工場の、あの樹脂を成形する腕。あれは、あの大手さんのためだけにしか使えないものですか」
「……は?」
鵜飼さんが、きょとんとした。
沢井さんは、静かな熱を込めて語り始めた。
下請けが、なぜあそこまで弱いのか。たった一つの取引先に命綱を握られているからだ。 だから、逆らえない。声を上げられない。ならば――その命綱を、一本から何本かに増やしていくしかない。ほかの取引先を探す。あるいは、言われたとおりの部品ではなく、自分の腕で自分の製品を作って売る。
「下請けから、抜け出すんです」沢井さんは言った。「簡単じゃありません。たぶんいちばんしんどい道です。……でも、それだけが、あの大手さんに頭を下げ続けなくて済む、唯一の道でもある」
「その挑戦を、国が後押しする仕組みも、あります」と、沢井さんは続けた。
「かつて、事業再構築補助金という、有名な制度がありました。コロナのあと、業種を変える中小企業を支えた補助金です。あれは、去年の春に、役目を終えました。……ですが、その後を継ぐ、新事業進出補助金という制度が、いま、あります。新しい分野へ踏み出す中小企業に、国が資金を出す。……鵜飼さんのような人のための、制度ですよ」
鵜飼さんは、しばらく言葉を失っていた。
三十年、彼は言われたとおりの部品を寸分たがわず作り続けてきた。その腕は確かだ。けれど、その腕で自分の製品を作る。そんなことは考えたこともなかったのだろう。
「……この歳で今さら、そんな大それたことを」
そう言いながらも、鵜飼さんの目の奥で、消えかけていた小さな火が、もう一度ちろりと灯ったように見えた。
「あなたの工場の値打ちは」と、私は言った。「あの大手さんがつける値段が、決めるものじゃありません。あなたのその手が決めるものです」
鵜飼さんは、深く頭を下げた。来たときのような、力ない礼ではなかった。
帰りがけ、彼は照れくさそうにぽつりと言った。
「……なんで、ですかね。うちらみたいなのは、票にもならんでしょうに」
私は、いつかカメラの前で言ったことを、もう一度口にした。
「票にならないことを大事にする。それができない政治に、私は、意味を感じないんです」
「……次は、あんたに、入れてみようかな」
その声には、来たときにはなかった熱がこもっていた。
見捨てられていない。
たぶん、人が政治にいちばん求めているのは、立派な理想でも、大きな数でもなくただその一つの実感なのだ。強い言葉を掲げる勢力に票が集まるのも、根は同じ渇きなのかもしれない。私は、その渇きに別の形で応えたい。
けれどと私は思う。
鵜飼さん、ただ一人をその谷から引き上げることは、できるかもしれない。でも同じ場所で、声も上げられずにいる、何万という裾野の人たち。その人たちを緩衝材にしてきたこの国の稼ぎ方の、大きな歪みそのものはびくともしていない。
それを動かすには。
私は、いつかあの男と――数と力を握るあの権藤という男と、正面から向き合わねばならない。ふいに、そんな予感がした。
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その頃。
権藤堅一郎は、屋敷の奥座敷で報告を聞いていた。
あの九条絵里香が、委員会で、国の稼ぎ方の歪みだの、産業の裾野だのと口にし始めたらしい。
「……ほう」
権藤は、湯呑みに手を伸ばした。その手が途中で止まる。
湯呑みの隣に、そっと置かれた皿の上の、どら焼き。それへ伸びかけたまさにその瞬間だった。
「あなた」
襖の向こうから、妻の、静かな声が飛んだ。「お医者様に、なんと言われましたか」
権藤の、節くれだった手がぴたりと止まる。この永田町を、四十年数と力で締め上げてきた、その手が。
「……一つだけ」
「だめです」
天下の権藤堅一郎が、どら焼き一つにあえなく敗れた。
彼は、恨めしそうに皿を見やり、それから、ふ、と鼻を鳴らした。
理念だけの小娘。そう思っていた。だがあの娘は、いつのまにか法律家の秘書まで抱えこの国の稼ぎ方の、いちばん痛いところに、指を突っ込み始めた。
皇国会議のときも、そうだった。あの娘だけが、あの熱に、浮かれなかった。そして今度は、円安と輸出に極振りしてきたこの国の歪み。……あれは理想ではない。現実だ。俺の庭の話だ。
「……妙な小娘だ」
敵のはずのその娘と、見ているものだけが、なぜか、二度までも重なる。
権藤は、もう一度どら焼きに、ちらりと目をやり――結局、ぐっと我慢した。
その夜の権藤を打ちのめしたのは、政敵でも、あの小娘でもなく、一つのどら焼きだった。




