何も起きない日の終わり
『赤いブレーキランプ』
第8話 何も起きない日の終わり
翌朝の堺は、薄く曇っていた。
晴れでも雨でもない、どっちつかずの空。
朝の光はあるのに輪郭がぼやけていて、町全体が少しだけ鈍く見える。こんな日は、なぜだか道路の流れまで重たく感じることがある。
佐藤家の朝は、いつものように始まっていた。
味噌汁の湯気。
トースターの音。
結菜の「陽菜、また靴下片っぽないやん」。
陽菜の「あるもん!」。
恒一のぶっきらぼうな「お母さん、弁当」。
祥子の「そこ置いてるやろ」。
幸弘の「今日はちょっと早めに出るわ」。
何ひとつ特別なことはない。
朝というのは、本来そういうものだ。
昨日と似ていて、今日しかない。
変わらないように見えて、でも少しずつ先へ進んでいる。
祥子は子どもたちの水筒を並べながら、幸弘に聞いた。
「今日、帰り遅くなる?」
「いや、そこまでやないと思う。夕方には戻れる」
「ほな、ちょっと買い物頼んでええ?」
「何?」
「牛乳と、あとトイレットペーパー」
「現実的やな」
「家庭やからな」
幸弘が小さく笑う。
そういう短い会話が、朝の空気を少しやわらげる。
恒一は食卓の端で、昨日の進路プリントをまだ気にしているようだった。
何かを書こうとして、また消している。
「まだ悩んでるん?」
祥子が聞く。
「別に悩んでへん」
「悩んどる顔や」
「……なんか、ちゃんと決めなあかんのかなって思っただけ」
幸弘が湯呑みを置いて言う。
「ちゃんと決めるのはもっと先でええ。今は、ちゃんと考えるだけで十分や」
恒一は返事をしなかったが、その言葉を聞き流してはいない顔をしていた。
失いたくない日常は、たいていこういう言葉の間にある。
⸻
同じ時間、下田家でも平日の朝が始まっていた。
恵子は堺東駅の売店へ向かう準備をし、美月はランドセルを背負い、翔太はまだ眠そうな顔で牛乳を飲んでいる。孝介はニュースのテロップを横目に、スマホで道路情報をちらりと見た。
「……朝から事故か」
小さくつぶやく。
「どこ?」
恵子が聞く。
「堺市内。阪堺電車と車、接触したらしい」
「えっ」
「それで流れ悪いかもな」
恵子は少し眉をひそめた。
阪堺電車のように町の道路と近いところを走る車両は、どうしても車との接点が多い。気をつけていても、どちらかの一瞬の判断で事故になることがある。
「気ぃつけて行きや」
「ああ」
返事は短い。
だが、孝介の頭の中ではもう別の計算が始まっていた。
ただでさえ朝は混む。
事故の影響で流れが悪くなれば、始業時間に響く。
今日は朝から会議もある。
遅れるのは面倒だ。
その“面倒だ”という感覚が、すでに苛立ちの種になっていた。
⸻
道路は予想以上に詰まっていた。
阪堺電車の車両と乗用車の接触事故。
現場周辺では規制が入り、迂回する車と様子を見る車で、幹線道路の流れがところどころ止まる。
進む。
止まる。
少し動く。
また止まる。
孝介はハンドルを握りながら、前の車のブレーキランプを何度も見ていた。
赤。
消える。
少し進む。
また赤。
「……ちっ」
舌打ちが漏れる。
腕時計を見る。
スマホの時刻を見る。
また前を見る。
この手の渋滞は、一番神経を削る。
完全に止まってしまえば諦めもつく。
だが、少しずつ動くぶん、余計に焦る。
“もう少しで抜けるかもしれない”という感覚が、かえって気持ちを荒らす。
孝介はハンズフリーで会社へ電話を入れた。
「下田です。すみません、堺のほうで事故渋滞に巻かれてまして」
声は表向き落ち着いている。
「ええ、阪堺電車と車の接触らしいです。少し遅れるかもしれません」
少し。
そう言ったものの、自分でも読めない。
流れは悪い。
イライラする。
しかも、周りの車の動きまで鈍く見える。
「はい、着き次第入ります」
通話を切ったあと、孝介は深く息を吐いた。
いや、吐いたというより、押し出した。
「……朝から最悪や」
誰に聞かせるでもない言葉が、車内に落ちる。
⸻
佐藤祥子は、その朝も堺東駅へ向かっていた。
駅前には、少しだけいつもと違うざわつきがある。
道路の流れが悪い日は、駅に集まる人の歩き方もわずかに変わる。送りの車が遅れたのか、少し急ぎ足の学生。タクシーを降りて走る会社員。ホームへ向かいながらスマホで遅刻の連絡を入れる人。
駅ナカの売店の前を通ると、恵子がレジから顔を上げた。
「あ、おはようございます」
「おはよう。今日ちょっと道路ざわついてるなあ」
「阪堺の事故のやつですかね」
「たぶんそれやろね。朝から大変やわ」
祥子は言いながら、自販機で買うつもりだったお茶を売店の棚から取った。
「今日はこっちで買います」
「ありがとう。助かる」
会計をしながら、恵子が少し首をかしげる。
「祥子さん、今日は車ちゃうんやな」
「今日は電車です。車出すのは親の送迎のときぐらいなんで」
「そうやったな」
「でも、朝からああいう事故聞くと、車ほんま気ぃつけなあかんと思います」
祥子が何気なく言う。
その言葉に、恵子は一瞬だけ表情を止めた。
「……ほんまやね」
短く返す。
その声に少しだけ重さが混じったのを、祥子は深くは拾わなかった。
「じゃあ、また」
「はい。いってらっしゃい」
祥子は改札へ向かう。
恵子はその背中を見送りながら、なぜだか胸の奥がざわついた。
⸻
渋滞は、完全には解けていなかった。
孝介の車は何度も信号で止まり、また少し進んでは止まる。
前の車が慎重にブレーキを踏くたび、その赤いランプがいちいち神経に触る。
そして、ある交差点で、それは起きた。
前方の信号が赤に変わりかけ、先頭の車が減速する。
その右側には右折レーン。
そこだけ、わずかに空いていた。
孝介の中で、一瞬の計算が走る。
このまま後ろにつけば、次の信号まで待たされる。
右折レーンに入って前へ出れば、少なくともこの列は抜けられる。
急いでいる。
会社にも連絡は入れた。
遅れは少しでも取り戻したい。
孝介はハンドルを右へ切った。
右折レーンへ入る。
だが右折するつもりではない。
あくまで前へ出るためだ。
信号はすでに切り替わり始めている。
交差する側の信号が青になる。
向こうの車が動き出す。
歩行者も横断を始める。
それでも孝介は、その右折レーンから直進気味に前へ出ようとした。
「うわっ!」
交差する側から発進した軽自動車が急ブレーキを踏む。
横断歩道へ出かけた歩行者が足を止める。
クラクションが短く鳴る。
一瞬だった。
ほんの一瞬、衝突の気配が現実になりかけた。
だが孝介は、ハンドルを戻しながら舌打ちしただけだった。
「……急いでんだよ」
誰に向けるでもなく、吐き捨てる。
自分が危なかった。
信号に従って発進した相手に、こちらが無理を押しつけた。
本来なら、そう受け取るべき場面だった。
けれど孝介の頭の中では、もう別の理屈に変わっている。
俺は急いでいる。
渋滞で遅れている。
少しぐらい仕方ない。
ちゃんと避けられたんだから問題ない。
その考えのまま、孝介はアクセルを踏み込んだ。
車は交差点を抜け、少し強めの速度で前へ出る。
今のが事故になっていてもおかしくなかったことを、
本人だけが、ちゃんと自分に引き寄せて考えていない。
⸻
その日の昼休み、佐藤家ではそれぞれがそれぞれの場所にいた。
祥子は営業所のデスクで簡単におにぎりを食べながら、午後の資料を見直している。
幸弘は乗務の合間に短い休憩を取り、次の行路を確認する。
恒一は学校で友達とパンを分け合い、結菜は図工の続きの話をし、陽菜は給食のデザートのことで頭がいっぱいだ。
何も起きていない。
少なくとも、表面上は。
そしてたぶん、人はこういう時に思っている。
明日もまた、だいたいこんな感じだろうと。
少し忙しくて、少し疲れて、でも家に帰ればごはんがあって、また次の日が来るのだと。
⸻
下田家では、その夜もいつも通りに見える夕食が並んでいた。
恵子が味噌汁をよそい、美月が学校の話を少しし、翔太が今日のテストのことを報告する。
孝介も席についている。
崩れてはいない。
まだこの家は壊れていない。
ただ、食事の途中で恵子が何気なく言った。
「今日、朝の事故の影響で道路すごかったらしいな」
「ああ」
孝介はそれだけ返す。
「大丈夫やった?」
「別に」
「別にって……」
恵子はそこで止めた。
これ以上聞いても、たぶんちゃんと返ってこない。
だが、美月は父の横顔を見ながら、なんとなく嫌な感じを覚えていた。
朝のニュース、数日前の高速、昨日の父の言葉。
何かがちゃんと終わっていないまま、次の日へ持ち越されている感じ。
翔太も、口には出さないが、父が車で出る日は少しだけ気になるようになっていた。
⸻
夜、佐藤家では明日の準備が進んでいた。
祥子は仕事のメモを整え、幸弘は制服のポケットを確認し、恒一はプリントの続きを書き、結菜は色鉛筆をしまい、陽菜は眠そうに明日の時間割を合わせている。
「お母さん、これで合ってる?」
「うん、算数と国語入れとき」
「はーい」
小さな声。
小さな動き。
小さな明日への支度。
何も起きない日の終わりには、こういう音がある。
⸻
だが本当は、
何も起きていないのではなく、
まだ“起きたと認識されていない”だけのこともある。
孝介が右折レーンから無理に前へ出たあの一瞬。
それはもう、単なる苛立ちではなかった。
他人の安全より、自分の都合を優先し、
信号に従う相手の権利より、自分の焦りを正当化し始めている。
それでも本人は言うのだろう。
急いでいたから。
仕方なかった。
大事にはならなかった。
ちゃんと避けられた。
そうやって、人は一線を越えたことを、
越えていないことにしようとする。
佐藤家にも、下田家にも、
まだ“普通の明日”があるように見える夜だった。
祥子は明日の仕事のことを考えていた。
幸弘は次の乗務のことを考えていた。
子どもたちは学校のことを考えていた。
恵子は駅で会った祥子の笑顔を、なんとなく思い出していた。
そして孝介だけが、
朝の危うい瞬間を、
“たいしたことではなかった”として胸の奥へ押し込めていた。
その押し込め方が、
数日後には取り返しのつかない形で表に出る。
何も起きない日の終わりは、
ときどき、
いちばん残酷な前触れになる。




