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赤いブレーキランプ  作者: リンダ


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事故前日

 第9話 事故前日


 その日の夜は、妙に静かだった。


 雨が降るわけでもなく、風が強いわけでもない。

 ただ、春の終わりに近い湿り気を少しだけ含んだ空気が、堺の町をゆっくり包んでいた。駅から帰る人の足音も、幹線道路を流れる車の音も、どこか少し遠く聞こえる。


 佐藤家では、夕食のあとにそれぞれが明日の支度をしていた。


 恒一は学校のプリントを中学生らしく黒い通学バッグへしまい、結菜は宿題の最後の一行を雑に書き終え、陽菜は眠そうな顔で時間割を合わせている。幸弘は制服のシャツをハンガーにかけ、乗務用のかばんの中身を確認していた。


 祥子はキッチンで食器を拭きながら、ふと冷蔵庫の横にかけた車のキーへ目をやった。


「……あ、明日ガソリン入れとかなあかんな」


 ぽつりとこぼれたその言葉に、幸弘が振り返る。


「減ってるん?」


「うん。今週、お父さんらの買い物連れてったやろ。あれで思ったより減ってる」


「明日、仕事帰り?」


「たぶんそのつもり。ちょうど帰り道のスタンド寄ればええし」


 祥子は何気なく言う。

 それは本当に、何気ない予定だった。


 コンパクトワンボックスは、祥子にとって毎日使う車ではない。

 けれど両親の送迎や買い物の手伝い、ちょっとした外出に使うにはちょうどいい。

 だから、空いた時間にガソリンを入れる。

 それだけの話だ。


 誰も、その一言を特別には受け取らない。


「お母さん、またおじいちゃん家行くん?」


 陽菜が聞く。


「明日は行かへんよ。次の休みかな」


「じゃあガソリンだけ?」


「そう、ガソリンだけ」


「なんかおもしろくない」


「車は遊び道具ちゃうねん」


 祥子が笑うと、結菜が横から言う。


「陽菜は“ガソリンスタンド”って響きが好きなんやろ」


「なんかかっこいいやん」


「わからんでもない」


 幸弘が少し笑った。


 家の中には、いつものように笑いがあった。

 なんでもない会話。

 小さな予定。

 明日も普通に続くと思っている夜の音。


 そのころ、下田家ではテレビの代わりに、スマホの画面が小さく光っていた。


 孝介はソファに深く腰を沈めたまま、動画サイトを流し見していた。

 仕事帰りで頭は重い。会議は長引き、部下の報告は要領を得ず、取引先からは面倒な条件変更を持ち込まれた。疲れているのに、頭の中だけがまだ止まっていない。


 指先で画面を送っていくうちに、ひとつの動画が目に留まった。


「右折レーンから無理やり直進割り込み その先で大事故」


 ドライブレコーダー映像だった。


 交差点。

 右折レーンに入った車。

 そこから無理やり直進側へねじ込み、発進してきた別の車と接触。

 大きく車体が跳ね、衝撃音。

 あわや歩行者まで巻き込んでいてもおかしくない映像だった。


 動画の下には、すでに大量のコメントがついている。


「なんで交通ルール守らんの?」

「こういうやつがいるから事故がなくならない」

「急いでるを免罪符にするな」

「免許取り上げてほしい」

「自分だけは大丈夫と思ってる典型」


 孝介はしばらくその文字列を眺めていた。

 だが、心の中で起きた反応は、普通の視聴者のそれとは違っていた。


「……事故になってなけりゃ、別にええやん」


 小さくつぶやく。


 画面の中の運転手を本気で非難する気にはなれなかった。

 むしろ、急いでいたのだろうと思った。

 多少無理をしても、抜けられればそれでいいじゃないか。

 ぶつからなかったなら、結果としてセーフだろう。

 そういう理屈が、もう自然に浮かんでくる。


「俺は急いでたんだし」


 続けてつぶやいた言葉は、動画の中の誰かに向けたようでいて、実際には自分自身へ向けた言い訳だった。


 数日前、右折レーンから無理に前へ出た朝のことが、一瞬だけ頭をかすめる。

 だがその記憶はすぐに、“大したことではなかった”というラベルの下へ押し戻される。


 ぶつかっていない。

 事故になっていない。

 だったら問題ない。


 その思考の癖が、もう孝介の中でかなり深く根を張っていた。


 美月が部屋を通りかかって、父のスマホ画面をちらりと見た。


「また車の動画?」


「ああ」


「事故のやつ?」


「別に」


 美月はそれ以上聞かなかった。

 でも、父がそういう動画を見ながら何を考えているのか、なんとなく嫌な感じだけは残った。


 佐藤家では、夜が静かにほどけていく。


 幸弘は明日の乗務表をざっと頭に入れ、祥子は営業用の資料に付箋を貼り直す。

 結菜は明日の図工の準備を終え、陽菜は半分寝たまま歯を磨いている。


 恒一がふと、ダイニングの端で言った。


「明日、部活ちょっと遅くなるかも」


「何時ぐらい?」


 祥子が聞く。


「七時前には帰ると思う」


「わかった。連絡だけしといてな」


「うん」


 それもまた、何気ない確認だった。

 誰が何時に帰る。

 誰が何を持って行く。

 明日は牛乳を買う。

 ガソリンを入れる。

 そういう、暮らしの細かな段取り。


 人は、こういう段取りが続くことを前提に眠る。


 祥子は寝る前に、車のキーを見ながらもう一度思った。


 明日、帰りにガソリン。

 忘れんようにせな。


 ただそれだけだった。


 翌朝は、よく晴れていた。


 あまりにもよく晴れていて、空の青さが少しだけ嘘みたいに見えるほどだった。

 朝の光は、昨日までの湿り気をどこかへ追いやって、住宅街の窓や車の屋根に白く反射している。


 佐藤家の朝は、いつも通りだった。


 味噌汁の匂い。

 パンを焼く音。

 制服のしわを直す手。

 陽菜の「ハンカチどこー」。

 結菜の「昨日入れたって」。

 恒一の「もう行く」。


 幸弘は先に家を出る準備をしていた。

 ネクタイを締め、乗務用のかばんを持ち、玄関で靴を履く。


「ほな、行ってくる」


「行ってらっしゃい」


 祥子が答える。

 その声はいつもと何も変わらない。


 結菜も陽菜も「行ってらっしゃい」と声を重ねる。

 恒一はぶっきらぼうに「いってら」と言った。


 幸弘が出ていく背中を見送りながら、祥子は思う。

 今日も一日、無事に終わればええ。

 それだけだ。


 次は子どもたちの番だった。


「恒一、部活のタオル持った?」


「持った」


「結菜、絵の具」


「ある」


「陽菜、連絡帳」


「……あっ」


「ほらな」


 いつものやりとり。

 いつもの笑い。

 いつもの玄関。


 子どもたちは順番に家を出る。

 恒一、結菜、陽菜。

 それぞれが、それぞれの学校へ向かう。


 祥子は玄関先で、いつものように声をかけた。


「ほな、気をつけてな」


 何気なく。

 本当に何気なく。

 毎日のように口にしてきた言葉として。


 子どもたちも振り返って手を振る。

 幸弘はすでに駅へ向かっている。

 家の中には、ついさっきまで人の声が満ちていた名残だけが残る。


 これが最後になるなんて、

 佐藤家の誰一人、思っていなかった。


 永遠の別れは、

 いつももっと劇的な形で近づいてくるものだと、人はどこかで思っている。


 だが実際には、

 こんなふうに、

 いつもと同じ朝の中に紛れてやってくる。


 その頃、下田孝介もまた、家を出ていた。


 疲れは抜けていない。

 昨日見た動画のことも、腹の底ではまだ自分の都合のいい理屈で整理したままだ。

 道路の流れが少しでも悪ければ、また苛立つだろう。

 本人は、まだそれが危険だと認めない。


 恵子は玄関で夫を見送ったが、どこか胸の奥に重さがあった。

 理由はうまく言えない。

 ただ、ここ数日の夫の顔つきや言い方が、少しずつ別の場所へ行っているような気がしてならない。


「気ぃつけてな」


 そう言ったとき、孝介は「ああ」とだけ返した。


 その短い返事に、何かを言い足すことはもうできなかった。


 町は、何も知らないまま朝を進めていく。


 駅では列車が動き、

 学校では朝の会が始まり、

 営業所では電話が鳴り、

 道路では車が流れていく。


 祥子は、今日のどこかでガソリンを入れるつもりでいた。

 幸弘は、今日も安全に乗務を終えて帰るつもりでいた。

 子どもたちは、今日も学校から「ただいま」と帰ってくるつもりでいた。


 そのどれもが、

 ほんの数時間後には、

 取り返しのつかない「最後の普通」だったと知ることになる。


 けれど、まだその朝には、

 誰の上にも同じように明るい光が降っていた。


 それがいちばん残酷だった。

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