赤いブレーキランプ
『赤いブレーキランプ』
第10話 赤いブレーキランプ
夕方の道路は、いつも少し息苦しい。
昼の仕事を終えた車。
学校から戻る車。
買い物へ向かう車。
配送を急ぐトラック。
帰宅を急ぐ営業車。
それぞれがそれぞれの事情を抱えたまま、同じ道へ流れ込んでくる。
クラクションが鳴るほどではない。
完全に渋滞しているわけでもない。
だが、誰も少しずつ余裕を失っている。
夕方の道路というのは、そういう場所だった。
佐藤祥子は、堺東での最後の打ち合わせを終えてから、自宅へ向かう途中だった。
助手席には営業用のバッグ。
後部座席には、途中で買った牛乳と、ついでに家族向けのお菓子が入った小さな袋。
そして、燃料計の針がそろそろ気になる位置まで下がっていた。
「……先に入れとこか」
祥子はそうつぶやいて、帰り道にあるガソリンスタンドへ入った。
空はまだ明るい。
日が長くなったぶん、夕方と言っても見た目だけなら穏やかだった。
スタンドの照明も、まだ必要ないくらいだ。
給油口を開け、スタッフの声に軽く会釈し、カードを出す。
何度も使っている、いつもの流れ。
仕事帰りの、ほんの数分の寄り道だった。
給油を待つあいだ、祥子はスマートフォンを見た。
結菜からメッセージが一件。
「お母さん、今日ちょっとだけ帰り遅いかも。委員会ある」
祥子は短く返す。
「わかった。気をつけて帰り」
続けて、恒一にも送ろうかと思ったが、たぶん部活中だろうとやめた。
陽菜はたぶん、もうとっくに帰っていて、お腹すいたと言っているころかもしれない。
幸弘はまだ乗務中か、そろそろ上がる時間か。
そういうふうに、家族の現在地をぼんやり思い浮かべる。
帰ったら、今日は何を作ろう。
牛乳は冷蔵庫へ入れて、陽菜がお菓子を見つけたらたぶん騒いで、幸弘には買い物頼んだぶんをあとで聞いて。
そんな小さな段取りが頭の中を流れていく。
「ありがとうございましたー」
給油が終わり、祥子は軽く会釈して車へ戻った。
エンジンをかける。
ウインカー。
左折で本線へ出るため、スタンドの出口で一度止まる。
夕方の車列は続いている。
だが、十分な間隔はある。
一台、二台。
その先に、入れるだけの車間が見える。
祥子は焦らない。
運転するときはいつもそうだった。
とくに仕事帰りや、誰かを乗せる日の運転は、余計に慎重になる。
急ぐ理由はあっても、急がなければならない理由にはしない。
ミラーを確認する。
右を見る。
もう一度見る。
十分に空いている。
祥子はアクセルをやわらかく踏み、左折で本線へ合流した。
それは、普通の合流だった。
無理な割り込みではない。
急な飛び出しでもない。
後続車が危険回避を強いられるような入り方ではまったくなかった。
ただ、そこに一台、黒いセダンがいた。
⸻
下田孝介は、その少し前まで会社で会議室にいた。
午後の終わりぎわに持ち込まれた数字の確認。
未回収案件の詰め。
部下の報告不足。
上からの圧力。
下からの突き上げ。
今日一日で、何度「すみません」と言ったかわからない。
何度「いや、それは現場では」と飲み込んだかもわからない。
部下は部下で頼りない。
上は上で結果しか見ていない。
自分だけが板挟みになって、全部を処理しているような気がした。
会社を出るころには、頭の芯がじんじんしていた。
黒いセダンのドアを閉めた瞬間から、孝介の中では一日の最後の“防波堤”みたいなものがなくなる。
職場では抑えていた苛立ちが、車内では行き場を失って浮いてくる。
ハンドルを握る。
前を走る車。
赤になる信号。
発進の遅い車列。
いちいち全部が神経に触る。
「……なんやねん、ほんま」
低い声が漏れる。
自分が疲れていることはわかっている。
でも、それは周りへの免罪符にはならない。
ならないはずなのに、孝介の中ではもう、疲れと苛立ちは周囲の運転への敵意に変わり始めていた。
その時だった。
道路左側のガソリンスタンドの出口から、一台のコンパクトミニワゴンが出てきた。
シルバー系の、どこにでもある小型のワゴン。
特別に遅いわけでもない。
危険な飛び出しでもない。
客観的に見れば、十分な車間を見て、ごく普通に左折合流してきただけだった。
だが孝介には、そうは見えなかった。
「……俺の前に入りやがって」
その瞬間、頭の中で何かが切り替わる。
“十分空いていた”は消える。
“普通の合流”も消える。
残るのはただ、自分の前へ入ってきた、という感覚だけだった。
俺の流れを切った。
俺の前へ入った。
邪魔をした。
それだけで十分だった。
⸻
祥子は、合流したあとも特に何も考えていなかった。
前の流れに合わせて速度を整える。
車間を確認する。
次の信号までは少しある。
後ろに車はいるが、特に近すぎる感じでも――
そこで、バックミラーの中の黒いセダンが、思ったより速く近づいてくるのが見えた。
祥子は一瞬だけ目を細める。
近い。
だが、まだ「怖い」と断言するほどではない。
たまたまかもしれない。
後続車の速度感は、ミラー越しだと実際より近く見えることもある。
祥子はそのまま前を向いた。
前方の車列は少し詰まり気味だ。
夕方だから、流れは一定ではない。
急に踏み込んだり、乱暴に車線変更したりする必要はない。
むしろ合わせて走るしかない。
だが、後ろの黒いセダンは、合わせる気配がなかった。
ぐっと近づく。
一度少し離れる。
また近づく。
祥子の指先が、ハンドルを持つ力をほんの少しだけ強めた。
あれ、なんやろ。
急いでるんかな。
それとも、今の合流、気に障ったんやろか。
そう思った瞬間、胸の奥にいやな冷たさが生まれる。
十分空いていた。
ちゃんと見た。
無理な入り方なんてしていない。
そう自分に言い聞かせる。
だが、相手がどう受け取ったかまではわからない。
ミラーの中で、黒いセダンのフロントがさらに大きくなる。
⸻
孝介はもう、そのミニワゴンしか見ていなかった。
前の前にいる車も、流れ全体も、道路状況も、視界から少しずつ消えていく。
意識の中心にはただ一台、自分の前へ入ってきた車だけがある。
コンパクトミニワゴン。
女か。
たぶん買い物帰りか何かやろ。
こっちが走ってるのに、のうのうと入ってきて。
根拠の薄い想像が、どんどん相手への勝手な輪郭を作っていく。
そしてその輪郭に、勝手に苛立つ。
「ふざけんなよ……」
ハンドルを握る手に力が入る。
アクセルを少し踏む。
距離を詰める。
前方の流れに合わせて、相手の車が少し減速する。
その赤いブレーキランプが光る。
孝介の目が、その赤に吸い寄せられる。
止まる。
減速する。
前を見て流れに従っているだけの合図。
だが孝介には、それが自分の進行を妨げる赤にしか見えなかった。
⸻
祥子は、さっきよりもはっきりと後ろの圧を感じていた。
近い。
これは気のせいではない。
前の車に合わせて少し速度を落とすたび、後ろもぴたりと詰めてくる。
一定の距離を保つという感じではない。
明らかに“寄せてきている”動きだ。
「……なんなん」
小さくつぶやく。
もちろん相手には聞こえない。
でも言葉にしないと、自分の中の不安が形にならなかった。
怖い。
でも、まだ何かされたわけではない。
車線を変えるほどでもない。
いや、変えたほうがいいんやろか。
祥子は迷う。
こういう時の判断は難しい。
自分が神経質すぎるだけかもしれない。
相手は単に急いでいるだけかもしれない。
でも、車の後ろにぴたりと張りつかれる感覚は、身体が先に危険として受け取る。
祥子は前方を見た。
次の信号は、まだ青だ。
少し先で流れがまた鈍くなる。
左には店舗の出入り口。
右車線はやや詰まり気味。
逃げ場を探すような目つきになっている自分に、祥子は気づいた。
⸻
孝介は、相手の車が少しでも迷うような動きを見せるたび、余計に腹が立った。
車線を保っているだけなのに、
前の流れを見ているだけなのに、
孝介には“おどおどしている”ように見える。
「入ってくるなら、もっとちゃんと走れや」
誰もいない車内で吐き捨てる。
自分が詰めているから相手が萎縮している。
その当たり前の因果に、まるで気づいていない。
むしろ、相手の動きがぎこちないこと自体を、さらに責める理由にしている。
流れは少しずつ詰まる。
赤信号が近い。
前のコンパクトミニワゴンのブレーキランプが、また赤く灯る。
夕方の道路には、あちこちに赤いランプが並んでいた。
みんなが止まり、みんなが待ち、みんなが前の流れに合わせている。
本来なら、それはごく普通のことだ。
だがその赤の列の中で、孝介の視界には一台分の赤だけが、異様にくっきり見えていた。
⸻
そのころ佐藤家では、まだ誰も帰ってきていない家の中に、夕方の光だけが差していた。
リビングのテーブル。
朝、急いで置かれたままのプリント。
陽菜の水筒を置くための空いた場所。
結菜が昨日使った色鉛筆。
恒一の部活バッグを置く予定の床。
家は、帰ってくる人を待つ形のまま静かに息をしている。
幸弘はまだ乗務中だった。
恒一は部活帰り。
結菜は委員会が終わるころ。
陽菜はきっと先に帰ってくる。
そして祥子は、ガソリンを入れて、あと少しでこの家へ戻るはずだった。
みんな、そう思っていた。
⸻
道路の上では、まだ致命的なことは起きていない。
追突もない。
接触もない。
怒鳴り声も、クラクションも、まだない。
ただ一台の車が、一台の車に執着している。
ただそれだけだ。
だからこそ、外から見ればまだ“事件”ではない。
けれど、当事者の身体はすでに知っている。
これは普通ではない、と。
祥子はバックミラーを見た。
黒いセダンが、また近づいてくる。
孝介は前を見た。
コンパクトミニワゴンの後ろ姿が、ますます気に入らない。
夕方の道路に、赤いブレーキランプが灯る。
それは本来、
危険を避けるための光だ。
けれどこの時、
一人の男の中ではもう、
怒りを増幅させる色に変わっていた。




