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赤いブレーキランプ  作者: リンダ


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赤いブレーキランプ(後編)

 第10話 赤いブレーキランプ(後編)


 祥子は、もうはっきりとわかっていた。


 後ろの黒いセダンは、ただ急いでいるだけではない。


 近い。

 離れない。

 前の流れに合わせて減速するたび、ぴたりと詰めてくる。

 速度が戻れば、また張りつく。

 偶然ではない。

 明らかに、自分だけを見ている。


「……なんなん、ほんまに」


 ハンドルを握る指先に力がこもる。


 逃げたほうがいい。

 でもどうやって。

 車線は片側一車線。

 右へも左へも、そう簡単には動けない。

 道路は帰宅ラッシュで流れている。

 前も後ろも車がいる。

 自分だけが道路の上で急に浮いたような感覚になる。


 次の先は、ゆるい左カーブだった。

 見通しはいいとは言えない。

 流れも少し詰まっている。


 その時だった。


 後ろの黒いセダンが、急にセンターライン寄りへふくらんだ。


「えっ――」


 祥子が息を飲む。


 対向車線側へ半ばはみ出すような勢いで、黒いセダンが前へ出る。

 無理やりだ。

 前方の流れも、対向の気配も、まともに見ているようには思えない。

 ただ“前へ出る”ことだけしか頭にない追い越しだった。


 黒いセダンは祥子の車を抜きざまに、ほとんど鼻先をこするような距離で前へ割り込み、そのまま――


 急ブレーキを踏んだ。


 赤いブレーキランプが、目の前で一気に灯る。


「っ!」


 祥子は反射的にブレーキを踏み込んだ。

 タイヤが鳴る。

 シートベルトが胸に食い込む。

 車体が左カーブの途中で、ほとんど停止に近い形で止まる。


 視界の先で、黒いセダンが道路を塞ぐように斜めに止まっている。

 逃げ道はない。


 一瞬、何が起きたのかわからなかった。


 心臓だけが、異様な速さで打っている。


 その車の運転席のドアが開いた。


 下田孝介が降りてくる。


 スーツ姿のまま、怒りで肩をいからせ、こちらへ向かってくる。

 歩き方に理性がない。

 顔つきが、もう“話し合い”のものではない。


「おい!」


 怒鳴り声が、閉じた車内まで響いた。


 祥子の全身が凍る。


「ふざけんなよ、お前!」


 孝介は運転席側へ詰め寄り、窓越しに怒鳴る。


「どんな入り方してんねん!」

「俺の前に割り込みやがって!」

「ドア開けろ!」


 拳で窓を叩く。

 どん、どん、と鈍い音が鳴る。


 祥子は声が出なかった。

 違う。

 割り込んでなんかいない。

 十分空いていた。

 ちゃんと見て入った。

 そう言い返したかった。

 だが、口を開いても喉がひきつるだけだった。


 孝介はさらに怒鳴る。


「開けろって言うてるやろ!」


 ドアハンドルを引く。

 もちろんロックされている。

 それでもガチャガチャと乱暴に引き、窓をまた叩く。


「逃げんな!」

「出てこい!」


 祥子は震える手でスマートフォンをつかんだ。

 警察。

 通報。

 それしか頭になかった。


 画面を開く。

 指がうまく動かない。

 それでも、必死に操作する。


 孝介が窓の向こうで何か怒鳴っている。

 言葉の形がもう耳に入らない。


 その時だった。


 後方から、重く、長い、嫌な音が近づいた。


 急ブレーキの悲鳴。

 大型車特有の、空気を裂くような制動音。


 祥子がはっとしてミラーを見た瞬間、

 後ろから迫る巨大なダンプのフロントが見えた。


 近い。

 ありえないほど近い。


 避けられない。


 次の瞬間、轟音が世界を破った。


 ダンプが祥子の車に追突する。

 コンパクトミニワゴンの後部が一気に押し潰され、そのまま前方へ押し出される。

 前に止まっていた孝介の車へ激突。

 二台の間に、祥子の車体が挟まれる。


 金属の潰れる音。

 ガラスの砕け散る音。

 何かが裂ける音。

 シートベルトが胸に食い込み、身体が潰される。

 運転席側が、ぐしゃりと音を立てて押し潰れる。


 カーブの途中に、ありえない形で三台の車が重なった。


 周囲が一瞬、何も聞こえなくなる。


 次いで、あちこちから悲鳴が上がった。


「うわあっ!」

「事故や!」

「誰か救急!」

「危ない、下がって!」


 車列がざわめき、後続車が次々に止まる。

 クラクション。

 叫び声。

 タイヤの軋み。

 騒然という言葉では足りないほどの混乱が、左カーブの途中に広がった。


 大型ダンプを運転していた男は、名の知れた優良ドライバーだった。


 速度は守る。

 無茶はしない。

 積載も確認し、休憩もきちんと取る。

 会社でも「安全運転ならあの人」と言われるほどの運転手だった。


 その日も、制限速度を守っていた。

 車間も取っていた。

 前方への注意も怠っていなかった。


 だが、見通しの悪い左カーブの途中に、車が止まっているとは思わなかった。

 しかも、前方を塞ぐように一台、さらにその後ろにもう一台。

 そんな止まり方を、通常の道路上で想定すること自体が難しかった。


 異常に気づいた瞬間には、もう全力でブレーキを踏んでいた。

 だが、ダンプの重量と制動距離は、一瞬で消えるものではない。


「くそっ……!」


 それでも、衝突のあと男はすぐにシートベルトを外し、運転席から飛び降りた。


「大丈夫か!」

「誰かおるか!」


 顔色を変え、すぐにスマートフォンを取り出す。


「事故です! 大きい事故です!」

「場所は――堺の――カーブの途中で、車三台!」

「一台、完全に潰れてる! 救急と消防、すぐお願いします!」


 通報しながら、男の目は祥子の車に釘づけだった。

 後部も前部も潰れ、中央だけがかろうじて形を残しているような状態。

 運転席側はひどく押し込まれ、まともな空間がほとんど見えない。


 通報を終えると、男は必死に祥子の車へ駆け寄った。


「聞こえますか!」

「大丈夫ですか!」

「もうすぐ来ますから!」


 返事はない。

 だが、呼びかけるしかなかった。

 何度も。

 何度も。


 下田孝介は、衝突の反動で道路脇に倒れていた。


 前方で怒鳴っていた身体が、激突の衝撃で弾き飛ばされた形だった。

 両足に激痛が走る。

 骨が折れていると、素人でもわかる痛みだった。


「っ……あああっ!」


 呻き声が漏れる。

 立ち上がれない。

 何が起きたのか、一瞬では理解できない。

 理解したくない、と言ったほうが近かった。


 さっきまで怒鳴っていた相手の車が、目の前でぐしゃりと潰れている。

 自分の車も前方で大破している。

 後ろにはダンプ。

 道路には破片。

 周囲は悲鳴と怒号。


 全部が現実なのに、脳が受け止めるのを拒んでいた。


「うそやろ……」


 かすれた声が出る。


 だが、もう遅かった。


 現場には、すぐに人が集まり始めた。


「車、動かしたらあかん!」

「消防来るまで待って!」

「警察呼んだ?」

「呼んだ!」

「中に人おるぞ!」


 誰かが誘導し、誰かが後続車へ手を振り、誰かがスマホで追加の通報を入れる。

 カーブの途中は完全に止まり、夕方の帰宅ラッシュは一瞬で“現場”に変わった。


 潰れたコンパクトミニワゴンの中には、つい数分前まで、

 牛乳と、お菓子と、営業用のバッグがあった。

 ただ家へ帰る途中だった。

 ガソリンを入れて、

 家族の待つ家へ戻る途中だった。


 それだけだった。


 何ひとつ悪いことはしていない。

 危険な合流も、無謀な追い越しも、交通ルール違反もしていない。

 ただ、十分空いた車間を見て、普通に本線へ入っただけだった。


 なのに、その数分後には、左カーブの途中で車を止められ、

 逃げ場を失い、

 大型ダンプと前方の車に挟まれて、

 運転席側を潰された。


 理不尽という言葉が、あまりに軽すぎるほどの現実だった。


 サイレンの音が遠くで上がる。


 救急。

 消防。

 警察。


 誰かが「来た!」と叫ぶ。


 だが、その音が届くまでの時間は、現場にいた者には恐ろしく長かった。


 ダンプの運転手は、なおも祥子の車へ向かって声をかけ続けていた。


「もうすぐです!」

「しっかりしてください!」

「聞こえますか!」


 その声には、必死さと、祈るような響きが混じっていた。

 自分が追突した。

 だが、自分は速度を守っていた。

 慎重に運転していた。

 それでも、防げなかった。

 その現実が、男の声をますます震わせていた。


 その頃、佐藤家ではまだ、誰も何も知らなかった。


 幸弘は乗務を終えて戻る途中だった。

 恒一は部活帰りの道を歩き、結菜は委員会を終えて友達と別れ、陽菜は家で「お母さんまだかな」と思い始めていた頃だった。


 家の中には、まだ“帰ってくる人を待つ形”が残っている。

 玄関。

 ダイニング。

 冷蔵庫。

 牛乳を入れるはずの空きスペース。


 それが、この事故の数分後には、

 もう元には戻れない“待ち方”へ変わってしまう。


 夕方の道路に灯っていた赤いブレーキランプは、

 本来なら、止まるための光だった。


 危険を知らせるための光。

 追突を防ぐための光。

 流れを守るための光。


 けれどその日、その左カーブの途中で灯った赤は、

 ひとりの男の怒りに利用され、

 ひとりの女の帰り道を断ち切る色になった。


 事故は、一瞬だった。


 だが、その一瞬に至るまでには、

 見過ごされた棘があり、

 正当化された苛立ちがあり、

「この程度なら」という思い込みが積もっていた。


 その全部の先に、

 この潰れた車があった。

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