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赤いブレーキランプ  作者: リンダ


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崩れないまま軋む

 第7話 崩れないまま軋む


 四月の終わりが近づくにつれて、夕方の光は少しずつ長くなっていた。


 日が落ちる前の町には、昼と夜の境目みたいな時間がある。

 駅へ向かう人。

 学校から帰る子ども。

 買い物袋を提げた人。

 道路を流れる車のヘッドライトはまだ薄く、窓の向こうには夕飯の匂いが立ち始めている。


 何も壊れていない町の顔だった。


 佐藤家でも、その日はいつも通りの夕方が流れていた。


 祥子が仕事から戻ると、ダイニングには恒一の学校のプリントが広げられていた。

 結菜は宿題の途中でノートを開き、陽菜はなぜかランドセルの中身を全部床に出している。


「ちょっと待って、なんで全部出してるん」


「宝探し」


「ランドセルで宝探しすな」


「プリントがどっかいった」


「それは宝やなくて行方不明や」


 祥子がしゃがみ込むと、陽菜が笑う。

 結菜が「それ、連絡帳の間ちゃう」と呆れた声で言い、恒一は横で進路関係の紙を見ながら「ほら言うたやろ」とつぶやく。


 幸弘もその日は少し早く帰ってきていた。

 ネクタイをゆるめ、麦茶を飲みながら、息子の前に広がるプリントへ目を落とす。


「中一でも、もうこういうのあるんやな」


「学校の先生が“今から考えとけ”って」


 恒一は少し面倒そうに言う。


「まだ全然わからんけど」


 祥子はプリントをのぞき込んだ。

 将来の希望、興味のある教科、部活と勉強の両立、働くことについて思うこと。そんな項目が並んでいる。


「別に今すぐ決める必要はないやろ」


 幸弘が言う。


「せやけど、何が好きかとか、何が向いてるかは考えといて損ないで」


「お父さんは最初から電車やったん?」


 結菜が聞いた。


 幸弘は少し笑う。


「最初から、ってほどでもない。でも乗り物好きやったし、“人をちゃんと運ぶ仕事”ってええなとは思ってた」


「お母さんは家の仕事好きやったん?」


「家の仕事って言い方やめて。不動産な」


 祥子が軽く笑ってから答える。


「でも、まあ好きやったで。家って、その人の人生の土台やん。どこで暮らすかって、思ってる以上に大事やから」


 恒一は黙ってそれを聞いていた。

 結菜も陽菜も、なんとなく耳を傾けている。

 こういう会話は、誰かが「さあ話そう」と言って始めるものではない。

 夕飯前の、少し手の空いた時間に、自然にこぼれる。

 それが家族の会話だった。


 失いたくないものは、たいていこういう時間の中にある。


 そのころ、下田家でも夕食の支度が進んでいた。


 恵子は駅ナカコンビニの勤務を終えて帰宅し、急いで味噌汁を温め直し、焼き魚を皿に移し、サラダを盛っていた。美月は自分の宿題を早めに片づけ、翔太はリビングで算数のドリルを広げている。


 孝介はソファでネクタイをゆるめたまま、ニュース番組をぼんやり見ていた。

 疲れているのはわかる。

 けれど、以前より家の中で言葉を交わすまでに時間がかかるようになっているのも、家族は感じていた。


「ごはん、もうすぐやで」


 恵子が声をかける。


「ああ」


 返事はある。

 だが、その「ああ」の中に、会話を広げる余白はない。


 美月が一瞬だけ父の横顔を見る。

 翔太も鉛筆を持ったまま、テレビへ目を向けた。

 ニュース番組では、ちょうど特集コーナーが始まるところだった。


 画面のテロップに大きく出る。


「相次ぐ“煽り運転”被害 怒声・追突・死亡事故も」


 その瞬間、恵子の手がほんの少し止まった。


 画面には、ドライブレコーダーの映像が映る。

 後方から異様な近さで迫る車。

 パッシング。

 クラクション。

 幅寄せ。

 窓を開けて怒鳴る男の声。

 前に回り込んで急ブレーキをかける車。

 停止を余儀なくされ、恐怖で泣き出す子どもの声。

 インタビューに答える被害者の、まだ震えの残る表情。


「後ろからずっと車間を詰められて、本当に殺されるかと思いました」

「子どもが“なんで怒ってるん”って泣き出して……」

「車を蹴られて、ミラーを壊されて……」


 次に映ったのは、煽り運転の末に死亡事故へ至った事例だった。

 高速道路。

 停車。

 後続車の追突。

 命を落とした人。

 遺族の声。


 部屋の空気が、じわりと変わる。


 翔太が小さく言った。


「……こわ」


 美月も黙って画面を見ている。

 恵子は鍋の火を止めたまま、しばらく動けなかった。


 だが、次の瞬間、孝介が鼻で笑うように言った。


「ちんたら走るやつも悪いねん」


 しん、と部屋が静まり返った。


 孝介はテレビから目を離さず、続けた。


「後ろ見てへんやつ多すぎるやろ。流れ悪くするほうにも問題あるわ」


 美月がゆっくり顔を上げた。

 恵子も、何か言いかけて言葉を飲み込む。

 翔太だけが、父の横顔をまっすぐ見ていた。


「でも、煽るほうが悪いって言うてるやん」


 美月が低い声で言う。


「そら、やりすぎたらな」


「やりすぎたら、って……」


「前がちゃんと走っとけば、そんなことならん場合もあるやろ」


 その言い方は、まるで自分が正しい側にいるとでも言いたげだった。


 恵子の背筋がすっと冷える。

 ニュースの中で流れていた怒声や、しつこく迫る車の映像が、数日前の高速道路と重なった。

 あの時の夫の声。

 前の車に詰め寄るような距離。

 子どもたちの「怖い」という声。


「……あんた、それ本気で言うてるん」


 恵子が静かに言った。


 孝介はようやく少しだけ顔を向ける。


「何が」


「“前が悪い”って。今のニュース見て、ようそんなこと言えるなって言うてるん」


「全部が全部、後ろだけ悪いとは限らんやろ」


 言い返しは早かった。

 まるで、ずっとそう思っていたかのように。


 美月の顔から表情が消えていく。

 翔太はドリルの上に手を置いたまま、父を見ている。


「お父さん」


 美月が言った。声は震えていない。

 むしろ、変に落ち着いていた。


「この前も、あれ普通ちゃうかったで」


 孝介の眉が少し動く。


「……何が」


「吉野の帰り。前の車にめっちゃ近づいてたやん」


「それは――」


「こっち、怖かったもん」


 翔太が重ねるように言った。


「ほんまに怖かった。お父さん、顔も声も、いつもと全然違った」


 孝介は口を開きかけて、閉じた。

 自分では“その程度”のつもりだった。

 ちょっとイラついただけ。

 ちゃんと見ていたし、事故にはなっていない。

 なのに、子どもたちはそこまで言うのか。

 その反応に、どこか苛立ちにも似たものが湧く。


「大げさやな」


 そう吐き出した瞬間、恵子がはっきり言った。


「大げさちゃう」


 その声は、普段の恵子よりずっと低かった。


「子どもらが“怖かった”言うてるんやで。それで十分やろ」


 食卓の準備が止まったまま、部屋の空気だけが張りつめていく。


 美月は父を見たまま言った。


「お父さん、いつかそんなこと言ってたら、事故起こすよ」


 その言葉は、子どもの口から出たにしては重すぎた。

 だが、あまりにもまっすぐだった。


 翔太も続ける。


「ほんまに。あんなふうに運転してたら、いつか絶対あかんことになる」


 恵子は何も足さなかった。

 足さなくても、子どもたちの言葉で十分だった。


 孝介だけが、その重さを受け止めきれない顔をしていた。


「……俺が事故起こすって言いたいんか」


 少し間を置いて出た言葉は、防御の形をしていた。

 責められている、という受け取り方しかできていない。


 美月は目をそらさなかった。


「起こしてほしくないから言うてる」


 それ以上、誰も何も言えなかった。


 テレビの中ではまだ、被害者へのインタビューが続いていた。

 だが、下田家の中では、もう誰も画面を見ていなかった。


 佐藤家では、その頃ちょうど夕飯が始まっていた。


 陽菜が学校で描いた絵を見せ、結菜が「それ、空の色ちょっと濃すぎん?」と笑い、恒一は進路プリントの“将来やってみたい仕事”の欄をなかなか埋められずにいた。


「そんな簡単に決まらんよな」


 祥子が言う。


「でも、なんか一個でも“これ好きやな”って思うもんがあったら、それ大事にしといたらええんちゃう」


 幸弘も頷く。


「最初から一本道に決めんでもええ。ちゃんと考えて、ちゃんと選んだらええ」


 恒一は少しだけ考えてから、ぽつりと言った。


「……人の役に立つ仕事がええかなとは思う」


 その一言に、祥子も幸弘も少し目を合わせた。

 うれしい、というより、ちゃんと聞きたいと思った。


「例えば?」


 幸弘が聞く。


「まだわからん。けど、なんか……ちゃんと人が助かるやつ」


 ぶっきらぼうな言い方だった。

 でも、その中に中一なりの真剣さがあった。


「それで十分やろ」


 祥子がやわらかく言う。


「“人の役に立つ”って思えるなら、そこから考えたらええ」


 結菜が笑って言う。


「恒一、お父さんみたいやな」


「いや、そこまで電車ちゃうし」


「電車じゃなくてもええやん」


 また食卓に笑いが戻る。

 こういう話は、未来を決めるというより、未来をこわがらなくするためのものなのかもしれない。


 下田家の重い沈黙とは、まるで別の時間がそこには流れていた。


 食後、下田家では誰もさっきの話を蒸し返さなかった。


 美月は自室へ戻り、翔太もドリルを片づけて黙って風呂へ向かった。

 恵子は皿を洗いながら、胸の奥に重たいものを抱えたままだった。


 孝介はリビングに残り、テレビの音を少しだけ上げた。

 まるで何もなかったみたいに振る舞おうとしているのがわかる。

 だが、さっき子どもたちに言われた言葉は、確実にどこかに引っかかっているはずだった。


 事故を起こす。

 そんなこと、自分だって望んでいない。

 でも、だからといって、自分が危ない側に立っているとも思えない。

 そのずれが、余計に厄介だった。


 恵子は、洗い物の水を止めたあとも、しばらく動けなかった。


 崩れてはいない。

 まだこの家は壊れていない。

 夫婦も、子どもも、同じ食卓についている。


 けれど、どこかが確かに軋んでいる。

 音を立てず、見た目にもわからないまま。


 崩れないまま軋むものは、案外いちばん危ない。


 家族もそうだ。

 感情もそうだ。

 運転もそうだ。


 急に大きく壊れるわけではない。

 小さな棘を見過ごし、少しの苛立ちを“よくあること”にして、

 言われても「大げさだ」と流しているうちに、

 気づいたときにはもう止めにくくなっている。


 この夜、テレビの中では、煽り運転の恐怖が全国へ向けて流れていた。

 被害者の震える声も、遺族の悲しみも、

 “車が凶器になる現実”としてちゃんと映っていた。


 それなのに、

 同じ画面を見ながら、

 それを自分のこととして受け止められない人間がいる。


 それが、いちばん怖い。


 佐藤家では、未来の話が食卓にのぼっていた。

 下田家では、未来への警告が食卓に落ちた。

 どちらも同じ夕方の、同じ町の中で起きている。


 まだ壊れていない。

 まだ間に合うようにも見える。

 だからこそ、この段階の危うさは見過ごされやすい。


 けれど、

 子どもたちが口にした言葉は、

 たぶんこの物語の中で、いちばんまっすぐな警告だった。


「お父さん、いつかそんなこと言ってたら、事故を起こすよ」


 その言葉が現実になるまで、

 もう、そう遠くはなかった。

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