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赤いブレーキランプ  作者: リンダ


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すれ違う日常



『赤いブレーキランプ』


第6話 すれ違う日常


 平日の朝の堺東駅は、今日も同じように人を飲み込んでいた。


 改札へ向かう靴音。

 エスカレーターの低い駆動音。

 ホームから流れてくる発車案内。

 駅ナカコンビニの自動ドアが開くたび、外の流れが一瞬だけ店の中へ入り込む。


 下田恵子はレジ前の棚を整えながら、腕時計をちらりと見た。

 この時間なら、そろそろ祥子が通るかもしれない。


 そう思った直後、本当にその姿が見えた。


「あ、おはようございます」


 祥子が足を止める。

 肩には仕事用のバッグ。髪はきちんとまとめられていて、もう完全に仕事へ向かう顔をしている。


「おはよう。今日はちょっと早いなあ」


「朝イチで社内打ち合わせ入ってるんです」


「主任さんも大変やなあ」


「店長さんこそ。朝からずっと立ちっぱなしやないですか」


「もう慣れたわ」


 恵子は笑って、冷蔵ケースのほうを指した。


「そうや、この前のサンドどうやった?」


「おいしかったです。あれ、ほんまに当たりでした」


「やろ?」


「チキン南蛮の味しっかりしてるのに、たまごがちゃんとやわらげてて」


「感想めっちゃちゃんとしてるやん」


「営業なんで」


 二人は小さく笑った。


 それから恵子が、思い出したように言う。


「今日の昼から、抹茶の新しいデザート入るねん。吉野っぽい感じのやつ」


「え、絶対好きです」


「帰り残ってたら買い」


「買います」


 ほんの数十秒。

 それだけの会話だった。


 だが、そのやりとりには、ちゃんと生活の温度があった。

 毎日すれ違う人の中で、少しだけ顔と声が結びついている相手。

 それは友達と呼ぶほどではない。

 けれど、単なる他人とも少し違う。


「ほな、また」


「はい。また帰りにでも」


 祥子が改札へ向かって歩いていく。

 恵子はその背中を見送りながら、ふと思った。


 祥子はいつも、慌ただしそうなのにどこか落ち着いている。

 仕事を抱えて、家のことも抱えて、それでも相手の話をちゃんと聞く感じがある。

 ああいう人は、きっと家でも同じように誰かのことを気にしているのだろう。


 その想像は、まちがっていなかった。



 その週の休日。

 佐藤祥子は、自宅前に停めた自分用のコンパクトワンボックスの運転席に座っていた。


 派手さのない、実用本位の小さなワンボックス。

 仕事用ではなく、あくまで家族のための車だ。

 後部座席の乗り降りがしやすく、荷物も積みやすい。高齢の親を乗せるには、その“普通さ”がいちばんちょうどいい。


「お母さん、まだー?」


 陽菜が玄関から顔を出す。


「今日はあんたらはお留守番組や」


「えー」


「おじいちゃんたちの買い物やから。帰ったらお菓子買うてくる」


「ほんま?」


「ほんま」


 それで陽菜はあっさり引き下がった。


 祥子が車を使うのは、こういう時だった。

 両親の送迎。買い物。通院。少し遠くへの外出。

 毎日乗るわけではない。けれど必要な時には、自分が運転するのがいちばん自然だった。


 父の上田理人は、生まれつき足が悪い。

 長い距離を歩くことはできるが、速度は遅いし、階段や段差には特に気をつかう。若いころからそれで苦労してきた人だから、本人はできるだけ人の手を借りたがらない。だが年齢を重ねてからは、どうしても外出の負担が大きくなってきていた。


 母の上田恵美子もまた、最近になって免許の返納を考えるようになっている。

 まだ運転はできる。

 けれど、自分で「前ほどとっさの判断に自信がない」と言うようになった。

 その言葉を聞いたとき、祥子は無理に「まだ大丈夫やろ」とは言わなかった。


 車は便利だ。

 でも、便利だからこそ、無理をしてはいけない。

 それは、日々鉄道の安全を見ている幸弘と一緒に暮らしているうちに、ますます強く感じるようになった感覚でもある。



 上田家の前で車を停めると、恵美子が先に玄関から出てきた。


「あら、早かったね」


「道路すいてたから」


「理人さん、もうちょっと待ってな。靴がなかなかで」


 その声のあとから、理人が杖をつきながらゆっくり出てくる。

 足取りは慎重で、一歩一歩に時間がかかる。

 でも、その表情には意地のようなものがある。手伝われる前提では歩きたくない、という昔からの気持ちがまだ残っている。


「お父さん、急がんでええよ」


「急いどらん」


「知ってる」


 祥子は笑いながら、後席のドアを開けた。

 乗り込みやすいように角度を確認し、足元に物がないことを確かめる。シートベルトが引っかからないように整える。

 こういう動きも、もう慣れていた。


「ほんま助かるわ」


 恵美子が言う。


「別に、休みの日くらい」


「でもあんたも仕事で疲れとるやろ」


「家でごろごろするより、お父さんら連れて動いたほうが気ぃ楽な日もあるねん」


 その言い方に、恵美子は少し笑った。


 祥子の運転は慎重だった。

 もともと飛ばす性格ではない。

 右左折では歩行者をよく見るし、車間も広めに取る。

 父を乗せている時はなおさらだった。急ブレーキは足元に響くし、小さな揺れでも身体への負担になる。だから、先を読んで、早めにアクセルを戻し、穏やかに止まる。


「祥子の運転、安心やな」


 理人がぽつりと言った。


「ほんま?」


「変に急がんからええ」


「お父さん乗せて急ぐわけないやん」


「それもあるけど、性分やろ」


 祥子は少し照れくさくて、前を見たまま笑った。


 車を運転する以上、完全にゼロリスクなんてない。

 だからこそ、自分が握る側の時は、なるべく危険を増やさないようにしたい。

 祥子にとって運転は、速さや爽快さではなく、誰かを無事に連れて帰るための作業だった。



 そのころ、孝介は取引先から会社へ戻る途中だった。


 平日の午後。

 道路は中途半端に混んでいる。

 配送車が止まり、右折待ちが詰まり、信号のタイミングが少しずつ噛み合わない。そういう細かな引っかかりが、孝介の神経を削っていく。


 前の軽自動車が、左折する店を迷っているのか少しふらついた。

 ほんの一瞬のことだった。


「どっちやねん」


 声が低くなる。


 軽自動車はそのまま店に入った。

 道が空く。

 孝介はすぐにアクセルを踏み込み、抜けた。


 さらに先で、片側二車線の道路に出る。

 右車線は少し流れている。

 左車線には、ゆっくり走るワンボックスがいた。高齢者マークが貼られている。


 孝介は横を抜ける瞬間、ちらりと見た。


「……遅いなら出てくんなよ」


 それだけのこと。

 口に出す必要もない。

 だが、出てしまう。


 誰にも聞かれていない車内では、言葉がどんどん荒くなる。

 外回りで頭を下げ、会議で押し込まれ、部下に気を配れず、家では余裕のなさを隠せない。そうやってたまったものが、車の中でだけ少しずつ外へ漏れる。


 本人は、自分が危ういところへ近づいているとは思っていない。

 ただ、周りの運転が雑で遅くて、自分は被害を受けているだけだと思っている。


 そこが、一番危ない。



 夕方、堺東駅の売店では、恵子が冷蔵ケースの前で新しいデザートを並べていた。


「店長、それ人気出そうですね」


 アルバイトの子が言う。


「こういうのは“期間限定”ってだけで動くからな」


 恵子は手際よく値札を整える。

 抹茶のクリームに、小さなわらび餅がのったカップデザート。たしかに女性客が好きそうな見た目だ。


 そこへ、自動ドアが開いて祥子が入ってきた。


「残ってます?」


「あるある。ちゃんとある」


「よかった」


 祥子は笑ってそのデザートを手に取る。ついでにおにぎりとお茶もかごへ入れた。


「今日はお昼食べるタイミング逃して」


「主任さんも大変やなあ」


「ほんまですよ。でも今日は午前中休みで、親の買い物の送迎してたんで、ちょっと気分は違うんですけど」


「え、送迎?」


「うちの父、足悪いんで。母も免許返納そろそろ考えてるし、休みの日は私が車出すことあるんです」


 恵子は少し意外そうに目を丸くした。


「そうなんや。祥子さん、電車の人って感じやったから」


「自分でもそう思います。普段は駅ばっかりやし」


「でも、いてくれるとご両親も助かるやろ」


「まあ、そうやとええんですけど」


 祥子は少し照れくさそうに笑った。


「でも車って、乗るとやっぱり気ぃ使いますね。自分だけやないし」


 その一言に、恵子は一瞬だけ手を止めた。


「……そうやな」


 短く答えたが、その声は少しだけ沈んだ。


 祥子は気づかない。

 けれど恵子の中には、数日前の高速道路の景色がよみがえっていた。前の車に詰め寄るように近づく黒い車体。低くなる夫の声。後席で固まる子どもたち。


 車は便利だ。

 だが、握る人の気分や怒りひとつで、空気は一気に変わる。


「どうかしました?」


 祥子が首をかしげる。


「ううん、なんでもない。ほら、今日のこれ、甘すぎへんから仕事帰りでも食べやすいで」


「じゃあ楽しみにします」


 また、二人は少し笑った。



 その夜、佐藤家では上田家からもらった野菜が食卓に並んでいた。


「おじいちゃん元気やった?」


 結菜が聞く。


「元気元気。でも買い物行くだけでちょっと疲れるみたいやな」


「そらそうやろ」


 幸弘が味噌汁をすすりながら言う。


「お前も運転、気ぃつけや。お父さん乗せてるときは特にな」


「わかってる」


「祥子の運転は慎重やから大丈夫やろ」


 恒一が珍しく口を挟む。


「お、珍しく褒めたな」


「いや、ほんまに。お母さん、変に詰めたりせんし」


 祥子は少し笑って言う。


「詰める理由ないしな」


 陽菜がよくわからないまま聞く。


「つめるってなに?」


「前の車に近づきすぎること」


「なんでそんなことするん?」


 その問いに、一瞬だけ大人たちの手が止まった。


 幸弘が答える。


「急いでたり、イライラしたりして、自分のことしか見えんようになる人がおるからや」


「ふーん」


 陽菜はそれで納得したようにごはんを食べ始めたが、祥子はその言葉を少しだけ心に残した。


 自分のことしか見えなくなる。

 それは運転だけの話ではないのかもしれない。

 けれど運転中は、それがそのまま危険になる。



 一方、下田家の夕食はまた少し静かだった。


 恵子は今日、祥子と交わした会話を思い出していた。

 車は気を使う。

 自分だけじゃない。

 あたりまえの言葉だ。

 あたりまえすぎるほど、まっとうな言葉だった。


 孝介はテレビを見ながら食事をしている。

 子どもたちはそこまでしゃべらない。

 数日前の高速道路のことを、もう話題にはしない。

 だが、なかったことになったわけでもない。


「今日、駅で祥子さん来てな」


 恵子が何気なく言った。


「誰や」


 孝介は顔を上げない。


「堺東で時々しゃべる人。南海の不動産の人」


「ふーん」


「親御さんの送迎で車出してるって。足悪いお父さん乗せてるから、運転気ぃ使うて」


 そこまで言って、恵子は自分が何をしたいのか少しわからなくなった。

 誰かのまっとうな話を持ち出せば、孝介も少しは自分の運転を考えるかもしれない。そんな期待が、どこかにあったのかもしれない。


 だが孝介は箸を置きながら、ただひと言だけ言った。


「そら、乗せてるもん次第やろ」


 その言い方に、恵子はそれ以上何も返せなかった。


 “乗せてるもん次第”。

 まるで、相手が誰かによって安全への意識を変えるのが当然みたいな言い方だった。

 いや、たぶん本人はそんな深い意味で言ったわけではない。

 ただの何気ない返しだ。

 けれど、その何気なさが怖かった。



 すれ違う日常は、いつもこんなふうにして進んでいく。


 駅で少し笑い合う二人の母親。

 親を乗せるからこそ慎重にハンドルを握る女。

 日々の圧力を道路の上でこぼし始めている男。

 家の中の沈黙に気づきながらも、決定的には向き合えない家族。


 まだ、大きな事件は起きていない。

 誰も血を流していない。

 通報も、逮捕も、病院も、法廷も、まだ遠い。


 だからこそ、危うさは日常に紛れて見えにくい。


 祥子は今日も、両親を無事に送り届けた。

 恵子は今日も、駅で客に笑顔を向けた。

 孝介は今日も、何台かの車に苛立ちを向けた。


 その全部が、同じ町の中で同時に進んでいる。

 まだ交わらない。

 まだ壊れない。

 けれど、見えないところで確実につながり始めている。


 赤いブレーキランプが、

 誰かにとってはただの停止の合図で、

 誰かにとっては苛立ちのきっかけになる。


 その違いが、やがて命の違いになることを、

 この時の誰も知らない。



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