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赤いブレーキランプ  作者: リンダ


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それでも朝は来る

 第25話 それでも朝は来る


 朝が来ることを、残酷だと思う日がある。


 目を閉じたままなら、

 まだ昨日の続きにいられる気がする。

 夢の中なら、

 失ったものがそのまま残っていることがある。


 けれど朝は来る。

 どれだけ拒んでも、同じように窓を白くし、同じように時計を進める。

 人が悲しみの途中にいようと、世界は止まってはくれない。


 その朝、幸弘は夢を見ていた。


 南海電車に乗っていた。

 家族みんなで。

 いや、少し違う。


 自分は車掌だった。

 観光列車の制服を着て、車内を回っている。

 乗客として座っているのは、祥子と、恒一と、結菜と、陽菜。

 四人とも楽しそうで、窓の外を見たり、車内の飾りを見たり、写真を撮ったりしている。


 列車は高野線を山へ向かって走っていた。


 橋本を過ぎる。

 そこから先、線路は少しずつ表情を変えていく。

 平地の町が遠ざかり、山の影が近づく。

 急峻な山道を縫うように、列車が登っていく。

 カーブ。

 谷。

 斜面に張りつく線路。

 窓の外の景色が、日常から少しずつ離れていく。


 祥子が笑っていた。


「やっぱりこのへん来ると、空気違うなあ」


 その声は、あまりにもいつも通りだった。

 幸弘は車掌として通路に立ちながら、ついその顔を見てしまう。


 あの顔。

 あの声。

 あの笑い方。

 子どもたちに何か言う時、少しだけ首をかしげる癖。

 立ち上がる時の手の動き。

 全部、そのままだった。


 陽菜が窓に顔を近づけて叫ぶ。


「お父さん、見て! 山!」


 結菜が「近い近い」と笑いながら引っ張る。

 恒一は中学生らしく少し気だるそうにしているが、でも口元はちゃんとゆるんでいる。


 祥子が、幸弘に向かって言う。


「車掌さん、家族写真撮ってくれます?」


 その言い方に、幸弘も笑った。


「なんやそれ」


「ほら、今日は観光列車の車掌さんやろ」


 極楽橋に着く。

 山の空気はひんやりしていて、でも優しい。

 四人が並ぶ。

 祥子が真ん中で、子どもたちがその両側にいて、少し離れて幸弘も入る。


「はい、撮るでー」


 誰が言ったのか、夢の中ではよくわからなかった。

 でも、家族全員がそろっていた。

 ちゃんと五人で、そこにいた。


 シャッターが切られる、その瞬間。


 幸弘は目を覚ました。


 真っ暗ではない。

 朝の薄い光が、カーテンの隙間から部屋へ入っている。


 夢だった。


 わかった瞬間、胸の奥が乱暴にひきちぎられるようだった。


「祥子……」


 声が出る。

 それは自分でも抑えられなかった。


「祥子!」


 もう一度。

 そして、もう一度。


 名前を呼べばまだいる気がした。

 あの顔が、あの声が、あの笑顔が、すぐ隣へ戻ってくる気がした。


 でも、返事はない。


 幸弘は布団の上で身体を折るようにして、しばらく動けなかった。

 泣いているのか、呼吸が乱れているだけなのか、自分でもわからない。

 ただ、夢の中にいた祥子が、目を覚ました瞬間にまた遠くへ行ってしまったことだけははっきりしていた。


 その日は、幸弘の両親が泊まりがけで来ていた。


 事件のあと、何度も手伝いに来てくれている。

 食事のこと。

 子どもたちのこと。

 家の中のこと。

 全部を幸弘一人では抱えきれない日が、まだまだ多かった。


 台所からは、朝食の匂いがしていた。

 焼き魚。

 味噌汁。

 炊きたてのごはん。

 本当なら、祥子が立っていたはずの台所に、今日は幸弘の母が立っている。


 そのことにも、まだ少し胸が痛む。


 居間へ行くと、子どもたちも起きてきていた。

 恒一はまだ眠たそうな顔で、水を飲んでいる。

 結菜は髪をひとつにまとめながら座り、陽菜は祖母に寄りかかっていた。


「おはよう」


 幸弘が言うと、

「おはよう」と返ってくる。

 それだけのことなのに、家の中に声があることが少しありがたかった。


 朝食が並ぶ。


 誰かが「いただきます」と言う。

 それぞれが箸を取る。

 何も特別ではない光景。

 でも、この家にとってはもう、“何も特別ではない”こと自体が難しくなっていた。


 幸弘の母は、味噌汁をよそいながら、ふと手を止めた。


「祥子さん……」


 その名前が出た瞬間、食卓の空気が静かに揺れる。


「祥子さん、孫を抱きたかったやろうな……」


 その先を、母は言い切れなかった。


「あんな若くして……」

「暴力に巻き込まれて……」


 そこで、声が崩れた。


 箸を置き、両手で顔を覆って、泣き崩れる。

 静かに、ではなく、もう抑えようのない嗚咽だった。


「なんであの子が……」

「なんで、あんなことに……」


 幸弘の父も、ただ黙ってうつむく。

 恒一が箸を握ったまま固まる。

 結菜の目にも、また涙が浮かぶ。

 陽菜は祖母の背中を見て、どうしていいかわからず、小さく「おばあちゃん」と呼ぶ。


 幸弘は、その光景を見ていた。


 時間が経てば、少しずつ薄れていくものもあるのかもしれない。

 でも、薄れないものもある。

 いや、薄れてはいけないものもある。


 祥子がどんな顔で笑っていたか。

 どんな声で子どもを呼んでいたか。

 どうやって弁当を詰めていたか。

 どうやって車を運転していたか。

 どうやって最後まで家族のことを気にしていたか。


 それらは、時間で消えていくようなものではない。


 食卓の涙が少し落ち着いたあと、幸弘は夢の話をした。


「さっき、夢見たんや」


 子どもたちが顔を上げる。


「みんなで南海電車乗って、高野山行く夢やった」

「俺が車掌で、お前らは乗客で」

「極楽橋で、家族そろって写真撮ろうとして……」


 そこまで言って、幸弘は少し笑った。

 泣きながら出る笑いに近かった。


「そこで目ぇ覚めた」


 結菜が泣きながら笑う。


「お母さん、そういう言い方しそう」


「するやろ」


 幸弘も笑った。

 恒一は目を伏せたまま、少しだけ口元をゆるめる。

 陽菜は聞いた。


「お母さん、夢の中で元気やった?」


「うん」


 幸弘ははっきり答えた。


「めっちゃいつも通りやった」


 それで、陽菜も少しだけ笑った。


 それでも朝は来る。


 完全には癒えないまま。

 何も戻らないまま。

 裁判が終わっても、賠償が続いても、ネットの言葉が刺さっても、

 台所の空席はそのままで、

 母のいない学校もそのままで、

 祥子のいない人生が、そのまま続いていく。


 でも、その“続いてしまう”時間の中に、少しずつ触れ直していくしかない。


 朝食を食べること。

 学校へ行くこと。

 買い物へ行くこと。

 高野山の夢を語ること。

 泣きながら笑うこと。

 そういう小さなことを、一つずつ。


 一方で、沼田家もまた、別の朝を迎えていた。


 恵子はもう堺東の売店には戻っていない。

 美月も翔太も、名字の変わった名札にまだ少しだけ違和感を覚えている。

 でも、それでも、生きていくしかない。


 恵子は、時々思う。

 もしあの日、もっと強く止めていたら。

 もっと早く、運転そのものをやめさせていたら。

 その問いに答えはない。


 だからせめて、子どもたちには言い続ける。


「怒りを、人にぶつけたらあかん」

「ハンドル握る時は、なおさらや」


 それはもう、父親から受け継ぐものではなく、

 父親の失敗を断ち切るための言葉になっていた。


 松本英二もまた、トラックへ戻るまでに長い時間がかかった。


 ハンドルを握る手が震え、

 カーブに入るたびに、あの日の左カーブがよみがえった。

 それでも会社は待ってくれた。

 ゆっくりでいいと、何度も言ってくれた。

 事故のあと、人を責める言葉ばかりではなく、支える言葉も確かにあった。


 それもまた、壊れたあとを生きるためには必要なことだった。


 赤いブレーキランプは、今も毎日どこかで灯っている。


 止まるための光。

 譲るための光。

 命を守るための光。


 この物語は、その赤が怒りに染まった時、どれほど多くのものが壊れるかを描いた。

 でも最後に残るのは、壊れたあとの人生だ。


 祥子は戻らない。

 それは変わらない。


 けれど、夢の中ではまだ笑っている。

 高野山へ向かう列車の中で、

 家族と並び、

 極楽橋で写真を撮ろうとしている。


 その夢が、慰めになるのか、

 逆に痛みになるのかは、まだわからない。


 ただひとつ言えるのは、

 それでも朝は来るということだった。


 残酷なくらい普通に。

 でも、ときどき、

 その普通の朝の中にだけ、

 生きていた人の気配が確かに戻ることがある。


 その気配を失わないまま、

 人はその後を生きていく。

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