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赤いブレーキランプ  作者: リンダ


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払えない責任

『赤いブレーキランプ』

 第24話 支払えない責任


 責任という言葉は、紙の上では整って見える。


 判決。

 請求額。

 認容額。

 支払い義務。

 差押え。

 求償。

 履行不能。

 免責不可。


 どれも法律としては正しい。

 必要な言葉でもある。


 けれど、人が本当に潰れていく時の音は、そんなに整っていない。


 下田孝介は、拘置の中で初めて、自分の人生が数字として終わり始めていることを知った。


 三億。

 一億五千万円。

 一億。

 五十億。


 それぞれの請求書面に書かれた金額は、もはや現実感を失うほど大きかった。

 だが、現実感がないからといって消えるわけではない。


 佐藤家への賠償。

 沼田恵子と、美月、翔太への賠償。

 松本英二とその会社への賠償。

 元勤務先企業からの巨額請求。


 足してどうこうという話ではない。

 すでに“払える人生”の枠を超えている。


「……こんなん、もう無理や」


 孝介は何度目かの面会で、弁護士にそう言った。


 弁護士は感情を交えなかった。


「無理かどうかと、責任が消えるかどうかは別です」


「保険も使われへん。自己破産もあかん。そんなん……」


「だからこそ、あなたが起こしたことの重さを理解してもらうしかありません」


 理解。

 その言葉だけが、孝介にはひどく遠かった。


 最初は“事故になってなけりゃ”と思っていた。

 次に“まさか死ぬとは”と思った。

 今はようやく、死んだあとにも責任は終わらないのだと知り始めている。


 だが、知ることと背負えることは違う。


 夜になると、拘置の中で数字だけが頭に浮かぶ。

 三億。

 一億五千。

 一億。

 五十億。

 それはもはや金額というより、自分が壊した人生の数に見えた。


 けれど、その数を見たところで、祥子の顔まではまだ届かない。

 そこに届かない限り、反省はどこか空洞のままだった。


 佐藤家では、民事の資料が増えるたびに、居間の空気が重くなった。


 賠償が認められること自体は、必要なことだった。

 事故ではない。

 理不尽な暴力によって、祥子の命と家族の生活が壊された。

 そのことに法的な責任を負わせるのは当然だ。


 でも、書類が届くたびに、結菜は顔を曇らせた。


「またお金の話……」


 そう言って、机の上の封筒を見たまま動けなくなる。


 恒一も、感情の整理が追いつかない時ほど口数が減る。

 幸弘は、必要だからとわかっていながら、印鑑を押す手が時々止まる。


 陽菜はまだ、賠償という言葉の意味をほとんど知らない。

 でも“お母さんのことを大人がずっと話してる”ことだけはわかる。

 そしてそのたび、家の中が暗くなることも。


「お父さん」


 ある晩、結菜が言った。


「もしお金もろても、お母さん帰ってこんやろ」


 幸弘はしばらく黙っていた。

 それから、正直に答えた。


「帰ってこん」


「じゃあ、なんのためなん」


「……それでも、なかったことにさせへんためや」


 自分で言いながら、その言葉がどれほど不完全かもわかっていた。


 お金がほしいわけではない。

 遊んで暮らしたいわけでもない。

 得をしたいわけでもない。

 最愛の妻であり、母親であり、娘である祥子を失い、家庭が壊れ、心も壊れ、その結果として生活まで揺らいでいる。

 その穴に対して、社会の仕組みの中で責任を問うには、賠償という形しかない。


 でも、その説明はいつだって足りない。


 沼田家でも同じだった。


 恵子は一億五千万円という数字を見ても、少しも救われなかった。

 むしろ、金額が大きければ大きいほど、壊れた生活の範囲の広さだけが際立った。


 店長の仕事を手放したこと。

 転居の準備。

 名字を変えたこと。

 子どもたちの学校での視線。

 父親という存在の断絶。


 それら全部をお金に換算すると一億五千万円だというのなら、

 逆に、人の人生はそんな額で説明されてしまうのかと思ってしまう。


 美月はきっぱり言った。


「別に欲しいわけちゃう」

「でも、なかったことにはさせたくない」


 翔太も、小さくうなずいた。


「お父さんがしたことのせいで、僕らも壊れたってことやろ」


 恵子は二人を見て、

 ああ、この子たちはもう子どものままではいられなくなったのだと思った。

 本来なら守られる側だったのに、父親の暴走で、自分たちの壊れ方まで説明しなければならなくなっている。


 松本英二もまた、一億円という請求の紙を前にして苦い顔をしていた。


 自分の会社が請求することは理解できる。

 車両損害も、信用の失墜も、業務上の損失も現実にある。

 自分自身も事故後に仕事へ戻れず、夜に眠れない日が続いている。


 それでも、金額を見るたびに思う。


 この数字を受け取っても、自分があの左カーブで聞いた音は消えない。

 潰れた車の中へ必死に声をかけた感覚も消えない。

 “もしあと数メートル手前で異常に気づけていたら”という思いも、消えない。


 金は必要だ。

 責任も問わなければならない。

 でも、金で埋まる穴ではない。


 そんな中で、別の地獄が始まっていた。


 ネットだった。


 ニュース記事のコメント欄。

 動画サイトの関連投稿。

 匿名掲示板。

 SNS。


 最初は加害者への怒りがほとんどだった。

 だが時間が経つにつれ、どこからか、別の種類の言葉が混じり始める。


「結局、金が欲しいだけじゃね?」

「三億とか一億五千万とか、もらったら遊んで暮らせるじゃん」

「被害者ビジネスかよ」

「そこまで請求するのはさすがにやりすぎ」

「家族まで賠償とか、便乗じゃないの?」


 その文字列を最初に見つけたのは、恒一だった。


 スマホを閉じることもできず、しばらくその画面を見つめていた。

 怒りというより、あまりの浅さに頭が真っ白になる。


 結菜も別の日に同じような投稿を見た。

 祥子の遺影写真を載せた記事の下に、そんな言葉が並んでいた。


「……なんなん、これ」


 声が震えた。


 お金が欲しい?

 遊んで暮らせる?

 何を見てそう言えるのか。


 最愛の家族を失った。

 家が壊れた。

 学校へ行けない。

 仕事へ戻れない。

 夜眠れない。

 母の最後の声が証拠として残っている。

 その苦しみを、金目当てのように言われる。


 それは二次被害ですらなく、

 死者と遺族への新しい暴力だった。


 幸弘は、そのスクリーンショットを見た時、静かに言った。


「全部残しとけ」


 結菜が顔を上げる。


「え」


「スクショして、日付もURLも全部残す」

「もう弁護士に回そう」


 その声には、もう迷いがなかった。


「私たちはお金が欲しいわけやない」

「最愛の家族を失って、家庭を壊されて、心も壊されて、何もかも失った」

「それを、金目当てみたいに言うやつは許したらあかん」


 恒一もうなずいた。


「刑事告訴、できるんやろ」


「できるように動く」


 幸弘ははっきり言った。


「これは意見ちゃう」

「侮辱であり、名誉毀損であり、遺族への加害や」


 その夜から、佐藤家ではネット上の悪質な書き込みを、感情で見ないようにしながら、一つずつ証拠化していった。

 スクリーンショット。

 投稿日時。

 投稿者ID。

 URL。

 スレッドの流れ。

 前後の文脈。


 弁護士に回され、警察への相談が始まる。

 発信者情報開示の準備。

 悪質性の高い投稿については、刑事告訴も視野に入れる。


 数人は、本当に発信者が特定された。

 軽い気持ちで書いたつもりだったのかもしれない。

 だが、現実には刑事責任が問われる位置まで引きずり出される。


 “匿名だから大丈夫”

 “どうせ遺族には届かない”

 そう思った言葉が、現実の名前と住所へ結びつく。


 その過程でようやく、いくつかの投稿は削除され、謝罪文が送られた。

 だが、削除されたところで、読んだ傷は消えない。


 恵子もまた、その種の書き込みを目にしていた。


 中には、

「加害者家族まで被害者ぶるな」

「名前変えて逃げただけ」

 といったものもあった。


 それを見た美月は、スマホを壁に投げつけそうになった。


「逃げてへんやん」

「逃げられるわけないやん」


 恵子は娘の肩を抱いた。


「残しとこ」

「これも全部、証拠にする」


 言い返したい。

 叫びたい。

 でも今は、感情より証拠が強い。


 そうやって、被害者家族も加害者家族も、

 ネットという別の法廷で、また傷を負わされていた。


 支払えない責任、というのは、

 単に金額が大きいという意味ではない。


 どれだけ払っても足りない。

 どれだけ請求しても埋まらない。

 そして金額が並ぶたびに、

 “この人の死を社会はこう扱うのか”と突きつけられる。


 祥子の命。

 家族の壊れた生活。

 沼田家の断絶。

 松本英二の後悔。

 会社の信用。

 子どもたちの未来。


 全部に数字がつく。

 でも、そのどれにも本当の値札はない。


 夜、幸弘はまた、祥子のメモ帳を開いた。


 そこには小さな字で、生活の断片が並んでいる。

 買い物。

 学校。

 送迎。

 ガソリン。


 その一行一行が、今ではどんな億の数字より重い。


 民事裁判は続く。

 支払いの話も続く。

 ネットの暴力への対応も続く。

 刑事が終わっても、終わらない。


 それでも、祥子のいない朝は明日も来る。


 そのことだけが、最後まで変わらなかった。

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