値札のない喪失
『赤いブレーキランプ』
第23話 値札のない喪失
刑事裁判に判決が出ても、人生は終わらない。
むしろ、終わらないからこそ次が始まる。
紙の上で。
法廷の机の上で。
弁護士の口から。
数字の列として。
それが、民事だった。
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幸弘の前に並べられた書類は、どれも整っていた。
きれいに印字され、項目ごとに整理され、付箋が貼られている。
読みやすい。
争点もわかりやすい。
必要なものが過不足なく揃っている。
なのに、その一枚一枚が、祥子の不在を別の形で突きつけてくる。
弁護士が静かに説明する。
「今回、佐藤家として請求する損害は、大きく分けて四つです」
机の上の資料を指す。
「まず、祥子さんご本人の逸失利益」
「定年まで勤務を継続した場合に得られたはずの所得、昇給、賞与等を基礎に算定します」
幸弘は、資料の数字を見た。
年収推計。
就労可能年数。
生活費控除。
中間利息控除。
必要な計算だ。
でも、その計算式のどこにも、祥子の声も、手も、匂いも入っていない。
「次に、幸弘さんご自身の休業損害と、就労への影響です」
「今回の件で、南海電鉄の乗務から外れ、長期間仕事へ戻れなかったことは大きい」
「さらに、精神的苦痛に対する慰謝料」
弁護士は少し間を置いてから続ける。
「そして、お子さん三人それぞれの慰謝料」
「母親を理不尽な形で失い、学校生活や発達面に現実の影響が出ている」
「これは大きな損害です」
幸弘は黙って聞いていた。
結菜と恒一は別室にいる。
陽菜はまだ内容をすべて理解しない。
でも、請求は家族全員に関わる。
「総額としては」
弁護士が資料をめくる。
「佐藤家全体で、約三億円の請求を立てる方針です」
その数字が、机の上に置かれる。
三億円。
大きい。
世間から見れば、途方もない額に見える。
だが幸弘には、やはり“祥子の代金”みたいにしか聞こえなかった。
「……三億払われたら、祥子が帰ってくるわけやないですもんね」
弁護士は、すぐには返さなかった。
数秒置いてから、静かに言う。
「はい」
「ただ、だからといって請求しないという選択は、違うと思います」
幸弘は目を上げる。
「これは、祥子さんの命に値札をつける作業ではありません」
「被告の違法行為が、これだけの現実的損害と喪失を生んだと、社会の仕組みの中で明確にする作業です」
それはたぶん、正しい。
でも正しいことは、たいてい痛い。
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佐藤家以外にも、民事の波は広がっていた。
沼田恵子、沼田美月、沼田翔太。
元・下田家の三人にも、弁護士がついていた。
彼女たちの請求額は、一億五千万円。
生活の崩壊。
社会的信用の失墜。
離婚と改姓。
転居の必要。
精神的苦痛。
子どもたちの学校生活への深刻な影響。
恵子は、その金額を見ても何も感じなかった。
もう驚くことすらできないところまで来ていた。
「お金が欲しいわけじゃないんです」
恵子は弁護士にそう言った。
「そもそも、あの人のしたことで、なんで私らが生活ごと壊されなあかんのか」
「その理不尽を、ちゃんと形にしたいだけなんです」
美月は横で黙っていた。
翔太はまだ、自分の名前の横に慰謝料という言葉が並んでいる意味を、完全には飲み込めていない。
だが三人とも、ひとつだけは共有していた。
父親の暴走の代償を、自分たちまで背負わされている
その感覚だけは、あまりにもはっきりしていた。
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さらに、ダンプの運転手・松本英二と、その所属会社からも請求が立てられた。
総額、一億円。
車両損害。
業務停止による損失。
会社の信用低下。
松本本人の精神的損害。
安全運転で評価されてきたドライバー人生への、重大な傷。
松本は、請求の話を聞いた時、しばらく無言だった。
自分もまた被害者側として立つことに、どこか後ろめたさがあったからだ。
「自分がぶつけたのに」
そう言う松本へ、弁護士ははっきり答えた。
「あなたは法定速度を守り、ブレーキも踏んでいる」
「あなたの前に、通常ではありえない危険な停止車両が作られていた」
「それがなければ、事故は起きていません」
理屈としては、わかる。
でも心は簡単に納得しない。
松本は今でも夜になると、あの左カーブを夢に見る。
目の前に突然現れる停止車両。
踏み抜くブレーキ。
止まりきれない重量。
激突音。
呼びかけ。
そして、潰れた車。
その記憶に、一億円という数字は何の意味も持たない。
それでも法廷では、それもまた損害として並べられる。
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そして、もっと大きな請求があった。
下田孝介の元勤務先。
大手化学メーカー側は、企業イメージと信用を著しく損ねたとして、五十億円の損害賠償請求を準備していた。
報道で会社名が繰り返し出た。
営業先からの問い合わせ。
取引先の反応。
株主対応。
ブランド毀損。
危機管理対応コスト。
広報費用。
営業上の不利益。
企業としては、前販売部長の極めて悪質な犯罪行為による損害を、個人へ求償するという構図になる。
数字だけ見れば、現実離れしている。
だが、この物語世界ではそれだけ会社側の怒りも大きく、また社会的損失を“最大限に請求する”という姿勢を取った、ということだった。
恵子は、その額を聞いて笑うことも泣くこともできなかった。
「五十億て」
かすれた声でそう言ったあと、続ける。
「もう、“人生終わる”とかいう次元ちゃうやん」
弁護士は否定しなかった。
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問題は、ここから先だった。
危険運転による死傷事故や、それに伴う故意・重過失性の強い損害については、この物語の世界では自動車保険の補償対象外と整理されていた。
過失ではなく、違法性の強い危険運転と判断されたからだ。
さらに、これだけの悪質性が認定された事件については、自己破産による免責も不可能と説明される。
つまり、払えないから終わり、にはならない。
支払義務だけが残る。
人生に貼りついたまま、消えない。
接見室でその説明を受けた孝介は、さすがに顔色を変えた。
「……いや、ちょっと待ってください」
弁護士が資料を見せる。
「待っても状況は変わりません」
「刑事で有罪が確定し、危険運転として認定された以上、民事の責任も極めて重い」
「保険は?」
「難しいです」
「少なくとも、このままでは期待できません」
「自己破産は」
「この件についての賠償義務からは逃れられません」
孝介はしばらく口を開いたまま、言葉を失った。
やっと出てきたのは、怒りでも反省でもなく、ただの狼狽だった。
「そんな……」
「そんな額、払えるわけ」
弁護士は冷静に返す。
「払えるかどうかと、責任があるかどうかは別です」
それが法律だった。
そして、この事件がどれほど多くのものを壊したかという事実でもあった。
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民事裁判が始まった。
法廷は刑事とはまた違う空気を持っていた。
こちらでは、有罪か無罪かではなく、
失われたものをどこまで法的損害として認めるか
が問われる。
原告側の机には、佐藤家、沼田家、松本英二とその会社、そして元勤務先企業の請求が並ぶ。
その光景だけで、孝介がどれほど広範囲に傷を残したかがわかる。
弁護側は当然、請求額の妥当性を争う。
五十億という企業請求の相当性。
各慰謝料の相場。
将来損害の評価。
重複請求の有無。
けれど、数字の争いが始まれば始まるほど、
幸弘には吐き気がした。
祥子の死。
家族の喪失。
子どもたちの傷。
それらを“相当かどうか”で争わなければならない。
民事とは、そういう場所だった。
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ある日の期日で、佐藤家側の陳述書が読み上げられた。
幸弘は、そこへ
「祥子は家族の生活そのものでした」
と書いた。
食事。
弁当。
子どもたちの学校。
両親の送迎。
家計。
会話。
朝と夜の温度。
その全部が、祥子によって回っていた。
逸失利益という言葉では、その半分も表せない。
でも、法廷ではそう書くしかない。
結菜は
「母を値段にしたくないけど、何もなかったことにもしたくない」
と書いた。
恒一は
「加害者の怒りの代償を、なぜ被害者家族が一生払い続けなければならないのか」
と書いた。
陽菜の陳述書には、たった一行、
「おかあさんに、ただいまっていいたかった」
とあった。
その一行を、法廷の誰も軽く受け取れなかった。
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沼田恵子もまた、陳述書を出した。
そこにはこうあった。
「夫の行為を止めきれなかった後悔は一生消えません」
「それでも、夫が壊したものの責任を、私と子どもたちが沈黙することで薄めたくはありません」
「私たちもまた、夫の暴走によって人生を壊された側です」
美月は、父と同じ名字で呼ばれる苦痛を書いた。
翔太は、“将来、自分も父のようになるのではないか”と一瞬でも思ってしまった恐怖を書いた。
それもまた、賠償の対象として法廷に並べられる。
数字になる。
慰謝料になる。
でも、本当は数字にしたくない傷ばかりだった。
⸻
法廷が終わったあと、幸弘は外の階段で立ち止まった。
春はもう終わりかけていた。
風はぬるく、空は高い。
裁判所の前を、人々が普通に通り過ぎていく。
普通の人たち。
普通の午後。
普通の足音。
祥子も、あの日まではその普通の中にいた。
ガソリンを入れて、家へ帰るだけだった。
それなのに、今は三億円の請求書類の中にいる。
幸弘は、どうしてもそれに慣れなかった。
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刑事裁判で一区切りがついても、
民事が始まれば、また別の形で終われなくなる。
今度は“責任”が、数字と支払いと争点の形で続いていく。
払えるかどうか。
認めるかどうか。
減額されるかどうか。
でも、本当に失ったものの大きさは、
そんなやりとりの外側にある。
最愛の妻。
母親。
娘。
日常そのもの。
安心。
信用。
未来。
名字。
誇り。
何気ない会話。
他にも失ったものは、数え切れない。
そしてそのどれもが、
法廷の机の上にはきれいに乗り切らない。




