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赤いブレーキランプ  作者: リンダ


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それでも、止まれたはずの怒りのために

終章


それでも、止まれたはずの怒りのために


 事件から、三年が過ぎていた。


 三年という時間は、短くはない。

 子どもたちの背は伸び、制服は小さくなり、駅の売店の商品も何度も入れ替わった。

 ニュース番組でこの事件を取り上げることは、もうほとんどなくなった。

 世の中は次の話題へ進み、別の事故、別の怒り、別の悲しみへと視線を移していく。


 けれど、当事者だけは知っている。

 三年経っても、終わらないものがあることを。


 母のいない朝。

 妻のいない夕方。

 父の名字を捨てたあとに残る沈黙。

 ハンドルを見るたびに思い出す左カーブ。

 法廷で聞かされた最後の悲鳴。

 そして、あの日の赤いブレーキランプ。


 それらは、三年で消えるものではなかった。



 佐藤幸弘は、その三年の休職期間を経て、ようやく乗務へ復職していた。


 最初の日、制服に袖を通す時、手が少し震えた。

 ネクタイを締めながら、鏡の中の自分の顔を見た。

 以前よりやつれた。

 目元には、明らかに前にはなかった影がある。

 それでも、その顔は確かに“戻ろうとしている人間”の顔だった。


 南海電鉄は、急がせなかった。

 段階を踏ませ、面談を重ね、健康状態も確認し、ようやく“乗客の命を預かる場所へ戻ってよい”という判断を出した。

 それは会社としての慎重さであり、同時に幸弘への信頼でもあった。


 復職初日、ホームに立った時、幸弘は一度だけ深く息を吸った。


 列車の到着音。

 ホームのざわめき。

 発車案内。

 白線の内側へ下がる乗客。

 いつかの自分には当たり前だった風景が、今は少し違って見える。


 人を無事に運ぶ。

 そのことの重さを、以前よりさらに深く知ってしまった。


 それでも幸弘は、指差喚呼をした。

 確認し、呼吸を整え、列車を送り出した。


 祥子はもういない。

 でも、だからこそ、もう一度この仕事へ戻る意味があるのだと、幸弘はようやく思えるようになっていた。



 沼田恵子もまた、仕事へ戻っていた。


 場所はもう堺東ではない。

 天下茶屋の駅ナカコンビニ。

 新しい店舗で、店長として再出発していた。


 堺東へは、どうしても戻れなかった。

 あの売店の棚、あのレジ前、あの時間帯。

 祥子と交わした会話の一つひとつが、今もその場所に残っている気がしたからだ。


 天下茶屋の店は、人の流れがまた少し違う。

 乗り換え客が多く、足も速い。

 忙しい店だった。

 だから逆によかった。

 考え込む暇が少ない日もある。


「店長、この新商品どこ置きます?」


 アルバイトの声が飛ぶ。


「レジ前やね。朝はそっちのほうが動くから」


 恵子は、以前と同じように手際よく答える。

 仕事の勘は、まだ体に残っていた。


 だが同時に、以前とは違うものもあった。


 怒った顔で店に入ってくる客。

 苛立ちながら列に割り込もうとする人。

 そういう姿を見るだけで、胸の奥が冷たくなる。

 ほんの小さなイライラが、どこまで人を壊すかを知ってしまったからだった。


 だから恵子は、仕事の外でも時々話すようになった。

 怒りを道路へ持ち込まないこと。

 急いでいる時ほど、自分を疑うこと。

 “この程度”と思った瞬間がいちばん危ないこと。


 それはもう、一人の店長の話ではなく、事件をくぐり抜けた人の言葉だった。



 そしてある時から、佐藤家と沼田家は、

共同で煽り運転防止の啓発活動に参加するようになっていた。


 最初は迷いがあった。

 被害者家族と、加害者家族。

 その二つが並ぶことに、違和感がないわけではない。

 世間から何を言われるかもわからない。


 でも、幸弘と恵子は、何度も話し合った。


 祥子の命を奪ったのは下田孝介だ。

 それは変わらない。

 許されることでもない。


 けれど、あの事件で壊れたのは佐藤家だけではなかった。

 沼田家もまた、父と夫を“家族”として失い、名字を変え、生活を壊され、子どもたちは深く傷ついた。


 その二つの家族が、同じ場所で

「煽り運転は、被害者だけでなく、加害者家族までも壊す」

と語ることには、言葉以上の重みがあった。



 最初の講演会は、小さな市民ホールだった。


 前列には交通安全協会の関係者。

 後方には高校生、企業ドライバー、教習所関係者、一般の参加者。

 壁際には報道関係者の姿も少しある。


 幸弘が最初に話した。


「私の妻は、ただ家へ帰る途中でした」

「危険な運転なんかしていません」

「それなのに、誰かの勝手な怒りで道路の上に止められ、命を奪われました」


 静かな口調だった。

 だが、会場はしんと耳を澄ませる。


「煽り運転は、車間を詰めるとか、怒鳴るとか、そういう行為だけやないです」

「“俺の前に入った”“邪魔された”という、自分勝手な解釈から始まるんです」


 その言葉には、法廷を通ってきた人だけが持てる確信があった。


 次に恵子がマイクを握った。


「私は、加害者の妻でした」

「そして、駅で毎朝少し言葉を交わしていた大切なお客さんを、自分の夫が奪いました」


 会場の空気が一段重くなる。


「煽り運転は、一瞬の怒りで終わりません」

「被害者の命を奪うだけじゃない」

「加害者家族の名字も、生活も、子どもたちの人生も壊します」


 美月も、翔太も、自分の言葉で話した。

 父が運転中にどう変わっていたか。

 子どもながらに“危ない”と感じていたこと。

 止めきれなかった後悔。

 そして、父と同じにはならないと決めたこと。


 恒一と結菜も、母を失ったあとの学校生活や、普通の朝がどれほど尊かったかを語った。

 陽菜は短い言葉で言った。


「こわい人は、ハンドルにぎらんでください」


 その一言に、会場の何人もが目を伏せた。



 この活動は、少しずつ広がっていった。


 交通安全週間の講演。

 教習所での特別講話。

 企業の安全運転研修。

 学校の命の授業。

 運転免許更新時の教材映像への協力。


 佐藤家と沼田家が、同じ壇上に立つ。

 その光景は、最初こそ見る側に戸惑いを与えた。

 だが話を聞いた人たちは、皆同じように重い顔で会場を出ていく。


 煽り運転がどれほど危険か。

 どれほど多くのものを奪い、壊していくか。

 それを、理屈ではなく実際に失った人たちが語るからだった。



 民事のほうも、長い時間をかけて決着へ向かった。


 損害賠償の支払い命令は、ほぼ満額で認められた。

 佐藤家への賠償。

 沼田恵子・美月・翔太への賠償。

 松本英二とその会社への賠償。

 元勤務先企業への請求の一部。


 当然、孝介個人の資産では到底足りない。

 そのため、下田家の親戚、兄弟姉妹にまで波及し、関係する資産の差押えが進んだ。

 支払えるものは徹底的に差し押さえられ、なお不足する分については、犯罪被害者救援制度が使われる形で整理された。


 法律上は、そこで“決着”した。


 だが、誰もそれを解決とは呼ばなかった。


 三億でも。

 一億五千万でも。

 一億でも。

 五十億でも。

 戻らないものは戻らない。


 それでも責任を形にしなければ、

 社会はすぐに「不幸な事故」へと丸め込んでしまう。

 だから、決着させるしかなかった。



 ある講演会の帰り、幸弘と恵子は駅のホームで並んで立っていた。


 会話はしばらくなかった。

 電車の風が、二人の間を抜ける。


 やがて恵子が言った。


「祥子さんやったら、こんなん望んでなかったやろな」


 幸弘は少し考えてから答えた。


「うん。でも、放っとく人でもなかったと思う」


 恵子は小さく笑った。

 泣く時とは違う、静かな笑いだった。


「そうやな」

「“ちゃんと伝えなあかん”って言いそう」


 幸弘も、ほんの少しだけ笑った。


 祥子はもういない。

 けれど、話すたびに、その気配はどこかに戻ってくる。

 まるで、今も少しだけ横に立っているみたいに。



 それでも朝は来る。


 幸弘はまた制服を着て、列車に乗る。

 恵子は天下茶屋の店で、新商品の棚を整える。

 恒一は少しずつ将来を考え始め、

 結菜はまた絵を描くようになり、

 陽菜は時々空を見て「お母さん、見とる?」とつぶやく。

 美月と翔太も、新しい名字で新しい生活を少しずつ作り始める。


 完全には癒えない。

 許せもしない。

 忘れることなんてできない。


 でも、壊れたあとの人生にも、朝は来る。

 その朝をどう生きるかだけが、残された者に託される。



 赤いブレーキランプは、今もどこかで灯っている。


 止まるための光。

 命を守るための光。

 譲るための光。


 この物語は、その赤が怒りに染まった時、どれほど多くのものを壊すかを描いてきた。

 そして最後に残るのは、

 壊れたあとでもなお、

 人が誰かのために語り続けることの意味だった。


 被害者家族と、加害者家族。

 佐藤家と沼田家。

 本来なら決して交わらなかったはずの二つの家族が、

 同じ壇上で、

 「止まれたはずの怒りだった」と伝える。


 それは和解ではない。

 許しでもない。

 ただ、もう二度と同じ悲劇を起こさせないための、痛みを引き受けた言葉だった。


 それでも朝は来る。

 だからこそ、人は語る。

 失ったものの大きさを、

 壊された日常の重さを、

 そして、ハンドルを握る前に止まれたはずの怒りを。

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