初公判
第20話 初公判
法廷は、思っていたよりも静かだった。
木の机。
硬い椅子。
高い位置にある裁判官の席。
傍聴席のざわめき。
書記官の整った動き。
誰かの咳払い。
空調の音。
ここでは、人が一人死んだことも、
家族が壊れたことも、
まずは“事件番号”と“起訴内容”として扱われる。
その冷たさに、幸弘は法廷へ入った瞬間、軽く吐き気を覚えた。
佐藤家は、被害者参加制度を利用して、この刑事裁判に参加していた。
幸弘。
恒一。
結菜。
陽菜。
四人とも、喪服ではない。
けれど黒や紺に近い落ち着いた服を選んでいた。
明るい色を着ることが、まだ裏切りのように感じられる時期だった。
幸弘は席へ座る前、一度だけ被告人席を見た。
下田孝介がいた。
やせたようにも見える。
顔色も悪い。
だが、生きてそこに座っている。
その事実だけで、胸の奥に鈍い怒りがわく。
祥子はもういない。
なのに、止めた男は生きて、自分の名前で呼ばれ、自分の席に座っている。
恒一もまた、父の視線の先を追って孝介を見た。
想像していたより普通の男に見えた。
それが逆に許せなかった。
怪物みたいな顔ならまだよかった。
だが実際には、どこにでもいそうな中年の男だった。
そんな男の怒りで、母は殺された。
結菜は被告人席を見た瞬間、視線を落とした。
見続けることができなかった。
陽菜はまだ裁判というものを完全には理解していない。
でも、あの人が“お母さんを帰れなくした人”だということだけはわかっていた。
裁判長が入廷し、全員が起立する。
着席。
人定質問。
形式的な確認が続く。
そして、起訴状の朗読が始まった。
検察官の声は平坦だった。
そこに怒りはない。
悲しみもない。
ただ、事実を法の言葉に乗せて読み上げるだけだ。
被告人は、令和○年○月○日夕刻、堺市内の道路上において――
普通に合流した車両を執拗に追走。
危険な追い越し。
前方への割り込み。
片側一車線の左カーブ途中での停止。
威迫行為。
怒号。
その結果として後続大型ダンプが追突し、被害者・佐藤祥子を死亡させた。
それが、法廷の言葉になる。
幸弘は、その一語一句が刃物みたいに聞こえた。
“普通に帰る途中の祥子”が、
“被害者・佐藤祥子”へ変換される。
必要なことだ。
でも、その必要さが冷たい。
検察側の冒頭陳述では、事件の全体像が示された。
ガソリンスタンドからの合流は危険ではなかったこと。
前後ドラレコ映像。
目撃証言。
停止位置の異常性。
被告人の怒鳴り声。
ダンプ運転手が制限速度を守り、十分な制動を試みたこと。
そして、被害者が警察へ通報しようとした直後に衝突したこと。
「本件は、単なる交通事故ではありません」
検察官が言う。
「被告人の強い怒りと執着が、公道上で危険な妨害行為として具体化し、その結果として一名を死亡させた事案です」
法廷は静かだった。
だが、その静けさの中で、佐藤家の胸の内だけがざわついていた。
一方、弁護側の冒頭陳述は、まったく別の角度から始まった。
被告人・下田孝介は、長期間にわたり会社で過大なストレスにさらされていた。
上司からの圧力。
部下との軋轢。
営業成績への重圧。
慢性的な精神的疲弊。
「被告人の行為が許されるものではないことは前提です」
弁護人はそう置いたうえで続ける。
「しかし、その背景には、強いストレス状態と精神的な追い詰められがあり、怒りや衝動を適切に制御できなくなっていた事情があります」
「量刑を判断するにあたり、そうした事情は十分考慮されるべきです」
その言葉を聞いた瞬間、幸弘の中で何かがはっきり切れた。
ストレス。
追い詰められ。
事情。
そんな言葉で、祥子の死を薄めるのか。
隣で恒一が、机の下で拳を握りしめているのがわかった。
結菜は肩を震わせていた。
陽菜は話の半分もわからないまま、でも“なんかお母さんが軽くされている”感じだけは察していた。
傍聴席のどこかで、小さく舌打ちのような音がした。
裁判長がすぐに「静粛に」と告げる。
怒号まではいかない。
でも、怒りはもう法廷のあちこちに満ちていた。
その日の証人尋問には、ダンプを運転していた松本英二も出廷していた。
証言台に立った松本は、以前よりさらにやつれて見えた。
背筋は伸ばしている。
だが、その目にはずっと消えない疲労があった。
検察官が質問する。
「事故当時、あなたはどのような速度で走行していましたか」
「制限速度内です。普段から、急ぐ運転はしません」
「前方の異変には、いつ気づきましたか」
「カーブへ入る手前です。前方に車が……止まっているのが見えて」
「最初、目を疑いました。あの場所で止まるなんて普通は考えられないので」
「その後、どうしましたか」
「すぐにフルブレーキをかけました」
「でも、ダンプの重量があって……」
「止まりきれませんでした」
そこで、松本の声がわずかに揺れた。
「私は、ずっと安全運転だけは守ってきたつもりでした」
「でも、防げなかった」
幸弘は、その言葉を聞きながら目を閉じた。
この人もまた、別の意味で壊された側なのだとわかっていた。
だが、わかることと、許せることは違う。
その複雑さが、この裁判を余計につらくする。
弁護側の反対尋問では、停止位置の視認性やダンプの回避可能性についても問われた。
松本は誠実に答えた。
だが最後に言った。
「前方で車を止める行為さえなければ、私はあの人にぶつかっていません」
法廷が、また静かに張りつめた。
そして、被害者参加人としての意見陳述の時間が来た。
最初に立ったのは、幸弘だった。
紙を持っていた。
だが途中から、紙を見ているのか、自分の中の記憶を見ているのかわからない声になった。
「妻は、ただ家へ帰る途中でした」
「朝、いつも通りに家を出て」
「子どもたちに“気をつけてな”と言って」
「帰りにガソリンを入れて、それで帰ってくるだけのはずでした」
法廷の中が、少しずつ佐藤家の朝へ近づいていく。
「妻は、何も悪いことをしていません」
「危険な運転もしていません」
「なのに、被告人は自分の勝手な怒りで妻を止め、怒鳴り、逃げ場をなくし、結果的に殺しました」
ここで、幸弘は初めて被告人席を見た。
「あなたは、今も“話し合うつもりだった”と言っています」
「でも、妻の最後にあったのは話し合いではなく、恐怖だったはずです」
声は荒げていない。
なのに、法廷のどの怒号よりも重かった。
「私は鉄道の仕事をしています」
「人を安全に運ぶ仕事です」
「だからこそ、道路の上で怒りをぶつけて人を止めるということが、どれだけ異常で危険か、はっきりわかります」
一拍置く。
「妻を返してください」
「返せないなら、せめて“まさか”や“ストレス”で薄めないでください」
そこで、幸弘はもう続けられなくなった。
声が震え、紙を持つ手が揺れる。
裁判長が少し待ち、幸弘はなんとか席へ戻った。
次に立ったのは、結菜だった。
まだ子どもだ。
それでも、自分の言葉で言いたいと望んだ。
「私は、お母さんともっと話したかったです」
「学校のことも、絵のことも、どうでもいい話も」
「でも、もうできません」
声は細い。
けれど途切れない。
「被告人は、お母さんがどんな気持ちで最後に車の中にいたか、考えたことあるんですか」
「逃げられなくて、怒鳴られて、怖くて、それで……」
「それを、“ストレスがあった”って言うんですか」
ここで、弁護人が少し顔をしかめる。
だが、結菜は止まらない。
「うちのお母さんだって、毎日忙しかったです」
「仕事もして、家のこともして、私らのこともして」
「でも、お母さんは人を怒鳴って止めたりしませんでした」
法廷の空気が動く。
傍聴席から、低いすすり泣きが聞こえる。
「私、お母さんの値段とか、慰謝料とか、そういう言葉ほんまに嫌です」
「でも、何もせんよりましやから、今ここにいます」
結菜は涙を拭かなかった。
拭くより先に、言い切りたかった。
「お母さんがどれだけ大切だったか、忘れんといてください」
恒一は、最初の一言が出るまで時間がかかった。
「……僕は、中一です」
それは陳述というより、今の自分の立ち位置を確かめるような言葉だった。
「まだ、進路とか、将来とか、ちゃんと決めてなかったです」
「でも、お母さんは“今すぐ決めんでもええ。ちゃんと考えたらええ”って言ってくれてました」
そこまで言って、喉が詰まる。
「その話の続き、もうできません」
拳を握りしめる。
「お母さんが最後、怖かったやろなって思うと、ずっとしんどいです」
「僕は、被告人の顔を見ても、特別な怪物には見えません」
「でも、普通に見える人が、こんなことをするんやって思うと、もっと怖いです」
その言葉は、事件そのものの本質を突いていた。
「僕は、被告人を許しません」
「でも、それ以上に、こういう怒りを“ちょっとしたこと”で済ませる大人が、ほんまに怖いです」
法廷の空気が、さらに冷える。
最後に、陽菜の言葉が代読された。
年齢的に、本人が法廷で直接すべてを話すには負担が大きいと判断されたからだった。
だが、その内容はあまりにまっすぐだった。
「おかあさんに、ただいまっていいたかった」
「なんでおかあさんがかえってこないのか、いまでもわかりません」
「こわいことをするひとは、くるまにのらないでください」
その短い文を聞いたとき、傍聴席のあちこちで押し殺した泣き声が漏れた。
被告人席の孝介は、ずっと前を向いていた。
ときどき目を伏せる。
ときどき顎を強く引く。
だが、心から崩れているようには見えなかった。
少なくとも、佐藤家にはそう見えた。
弁護人は、なおも量刑の判断において、
被告人の会社での強いストレスや精神的な追い詰められを考慮すべきだと主張した。
その瞬間、傍聴席のどこかで、低い怒声に近いものが漏れた。
「ふざけるな……」
すぐに裁判長が制止する。
「静粛に」
だが、その一声で十分だった。
法廷の中にある怒りは、もう誰にも隠せていなかった。
ストレス。
不満。
会社での圧力。
それらが存在したとして、
それがなぜ、ただ帰る途中の母親を道路上で止める理由になるのか。
誰も納得していなかった。
被告人本人を除いては。
初公判が終わり、法廷から出る時、幸弘は一度だけ後ろを振り返った。
孝介はまだそこにいた。
弁護人と小声で何か話している。
生きている。
歩けないかもしれない。
起訴されている。
社会的にも壊れている。
それでも、生きてそこにいる。
祥子はいない。
その差だけが、どうしても埋まらなかった。
法廷で言葉を尽くしても、
証拠を並べても、
怒りを抑えて話しても、
最後に残るのは、あまりにも単純な現実だった。
母はもう帰らない。
妻はもう帰らない。
そしてそのきっかけは、誰かの「俺の前に入りやがって」だった。
裁判が始まったからといって、
失ったものが整理されるわけではない。
むしろ、法廷ではそれが何度も言葉にされ、証拠にされ、供述と照らし合わされる。
それに耐えること自体が、遺族にとっては新しい苦しみになる。
初公判とは、
裁きの始まりであると同時に、
失われたものを他人の前で説明し続ける地獄の始まりでもあった。




