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赤いブレーキランプ  作者: リンダ


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判決までの時間

第21話 判決までの時間


 裁判が始まると、時間の流れ方が変わる。


 日付は進む。

 電車は走る。

 学校では新しい単元が始まる。

 店の棚は入れ替わる。

 ニュースは別の事件を追い始める。


 けれど当事者だけは、同じ場所へ何度も引き戻される。


 事故の日。

 左カーブ。

 赤いブレーキランプ。

 怒鳴り声。

 激突音。


 法廷へ通うたび、それをまた見せられる。

 また聞かされる。

 また言葉にしなければならない。


 それが、判決までの時間だった。



 世間の関心は、少しずつ薄れていた。


 最初のころは、ニュース番組でも大きく扱われた。

 煽り運転。

 危険運転致死。

 ドラレコ映像。

 公道上の暴力。


 だが、世の中には次の事件が来る。

 次の話題が来る。

 次の怒りが来る。


 テレビは別のニュースを流し、

 ネットの話題も別の方向へ移る。

 人は少しずつ忘れる。


 でも、佐藤家には何ひとつ薄れていくものがなかった。


 朝起きて、母がいない。

 学校へ行っても、帰っても、母がいない。

 幸弘はまだ乗務へ戻れない。

 結菜は学校で笑うことに罪悪感を覚え、

 恒一は部活へ出ても集中が途切れ、

 陽菜は今でも時々、「お母さん、お空から見えてる?」と聞く。


 世間の時間と、自分たちの時間が、もう噛み合わない。



 下田家もまた、別の意味で時間からはみ出していた。


 恵子は店長職を退き、しばらく現場から外されていた。

 表向きは体調不良。

 だが本当は、あの駅に立てる状態ではなかった。


 堺東駅の売店の前を通るたび、祥子の顔が浮かぶ。

 新商品のサンドイッチ。

 抹茶のデザート。

 「また帰りにでも」。

 その一つひとつが、今は刃物みたいだった。


 美月も翔太も、学校へ行っては帰ってくるだけで精一杯だった。

 父の名前をニュースで見た友達。

 気を遣って話しかけてくる先生。

 何も聞かないことが逆につらい空気。


 下田家は、世間の中にいながら、世間から切り離されていた。



 法廷では、証人尋問と被告人質問が続いていた。


 その日は裁判員も出席し、法廷の空気はいつも以上に張っていた。

 専門家ではない人たちが、この事件を“人としてどう見るか”を背負わされる日でもある。


 裁判員の一人が、被告人質問の場で立ち上がった。


 中年の女性だった。

 声は落ち着いていた。

 だが、問いは鋭かった。


「あなたは、被害者の車が前へ入ってきたことで強い怒りを覚えたと述べていますが」


 孝介はうなずく。


「はい……自分の前に急に入られた感覚があって」


 裁判員は手元の資料から目を上げた。


「映像では、十分な車間がありました」

「それでもあなたは“割り込まれた”と感じた」

「では逆にお聞きします」


 法廷がしんと静まる。


「あなたが同じことをされたら、どう思いますか」


 孝介の表情が止まった。


「……同じこと、というのは」


「十分な車間があったにもかかわらず、“自分の前に入られた”と思い込まれ」

「執拗に追われ」

「前を塞がれ」

「怒鳴られ」

「逃げ場のない場所で止められることです」


 孝介はすぐには答えられなかった。


「……怖いとは、思います」


 その答えに、傍聴席の空気がわずかに動く。


 裁判員はさらに問う。


「では、あなたは相手にその恐怖を与えたことを、今どう考えていますか」


 孝介は唇を動かしたが、また止まった。


「……そこまで、相手が怖がるとは」


 その瞬間、幸弘の肩がびくりと動いた。

 結菜が唇を噛む。

 “そこまで”という言葉が、何度聞いても軽すぎる。



 別の裁判員は、若い男性だった。


「ここで止めたら、事故が起きると思わなかったんですか」


 直球の問いだった。


 孝介は少し顔をしかめる。


「ダンプが来るとは……思っていませんでした」


「来るか来ないかではなく」

「見通しの悪い左カーブの途中に、車を止めたら危険だとは思わなかったんですか」


「……冷静ではなかったので」


「冷静でなければ、何をしてもいいんですか」


 その問いに、孝介は答えに詰まった。


 弁護人が少し身じろぎする。

 だが裁判長は制止しない。

 裁判員裁判である以上、その問いもまた重要な現実感の一部だった。



 三人目の裁判員は、年配の男性だった。


「被害者にも家庭があり、子どもがいるということは、考えなかったのですか」


 孝介の視線が下がる。


「……その時は」


「考えなかった?」


「はい……」


 男性はしばらく黙ってから、ゆっくり言った。


「では、今はどうですか」


 法廷の空気が、少しだけ重くなる。


「今は」

「今は、その結果についてどう感じているんですか」


 その質問は、法律ではなく人間に向けたものだった。


 孝介は長く黙っていた。

 やがて、絞り出すように言う。


「……取り返しがつかないことをしたと」


 その言葉自体は、謝罪の形をしていた。

 だが、幸弘たちにはどこか遠く聞こえた。

 本当にそこへ届いている人間の声には、まだ思えなかった。


 なぜなら、彼はその前までずっと“割り込まれた”“話し合うつもりだった”“ダンプが来るとは思わなかった”と言い続けていたからだ。

 結果だけを認めて、途中の自分をまだ切り離している。

 そう見えてしまう。



 そして、その日の法廷では、事故当時の写真が証拠として示された。


 裁判所内のモニターに映し出される。


 左カーブの現場。

 斜めに停止した黒いセダン。

 その前後に散乱する破片。

 ダンプのフロント。

 そして、真ん中で押し潰された祥子のコンパクトミニワゴン。


 幸弘は、一瞬目を閉じた。

 だが閉じても映像は消えない。

 結菜は思わず顔を背けた。

 恒一は見続けた。

 見なければならない気がした。

 母がどんな理不尽の中で死んだのか、目をそらしてはいけない気がした。


 車両の写真は、見た者の呼吸を止めた。


 もともと四メートル近くあった車長。

 それが、ダンプと孝介の車に挟まれて、およそ一メートルほどにまで圧縮されている。

 ほとんど原型を留めていない。

 運転席側の空間は押し潰され、

 車というより、金属の塊にしか見えなかった。


 裁判員の何人かも、明らかに表情を変えた。

 それまでは“事故の結果”として頭で理解していたものが、

 写真によって一気に身体へ入ってきたのだ。


 この中に、人がいた。

 家へ帰る途中の母親がいた。

 それが、誰かの怒りの数秒でこうなった。


 その現実は、どんな説明よりも重かった。



 続いて、法廷内のモニターにはドラレコ映像が映し出された。


 裁判所の記録として、必要な証拠だった。

 だが遺族にとっては、必要かどうかではなく、また母の最後を見せられる時間だった。


 祥子の車が、穏やかに本線へ合流する。

 後方から、黒いセダンが近づく。

 詰める。

 離れる。

 また詰める。

 執拗に追う。


 前を塞ぎ、急停止。

 怒鳴り声。

 窓を叩く音。


 法廷の中は、完全に静まり返っていた。

 誰も咳一つしない。


 そして、あの瞬間が来る。


 長いブレーキ音。

 大型ダンプの接近。

 激突。

 映像の揺れ。

 轟音。


 音声には、祥子の短い悲鳴が残っていた。


 それはテレビの再現映像ではない。

 編集された報道でもない。

 法廷のモニターの中で、

 実際に生きていた人の最後の恐怖として、

 否定できないままそこにある。


 結菜が口元を押さえた。

 陽菜はもう映像を見ていなかった。

 幸弘は目を閉じたまま、でも耳は塞げない。

 恒一はうつむいた。

 法廷にいる誰もが、それを“証拠”として見なければならない。


 それが刑事裁判の現実だった。



 映像が終わったあともしばらく、法廷には何も戻ってこなかった。


 裁判長が次の手続きへ進めようとするまで、

 全員がどこか一瞬、言葉を失っていた。


 裁判員の一人が、小さく息を吐く音が聞こえた。

 書記官がペンを持ち直す。

 検察官が視線を落とし、弁護人は資料をめくる。


 でも、もう誰も、事件の輪郭を抽象的には見られなかった。


 これは、ストレスや事情を背景にした交通トラブルではない。

 恐怖を与え、逃げ場を奪い、道路上で人を死なせた事件だ。

 その実感が、法廷の隅々まで行き渡っていた。



 裁判のあと、法廷の外へ出ても、佐藤家の中では時間が進まなかった。


「また聞かされたな」


 幸弘が小さく言う。


 結菜はうなずくこともできず、ただ目を伏せる。

 恒一は「……うん」とだけ返した。

 陽菜は父の手を握ったまま離さない。


 世間では、もうこの裁判のニュースも長くは続かないだろう。

 報道は要点だけを伝え、視聴者は別の話題へ移っていく。

 でも、当事者だけは終われない。


 判決までの時間とは、

 事件が社会から少しずつ過去になっていく一方で、

 当事者だけが、何度も同じ瞬間へ呼び戻され続ける時間だった。



 失われたものは、まだ少しも整理されていない。


 祥子の不在。

 幸弘の仕事。

 子どもたちの学校。

 恵子と子どもたちの生活。

 松本英二の罪悪感。

 そして、孝介が何をどこまで理解しているのかという、最後まで曖昧なままの問い。


 裁かれるのはこれからだ。

 でも、裁かれる前に壊れたものは、もう戻らない。

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