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赤いブレーキランプ  作者: リンダ


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 法廷へ向かう前



『赤いブレーキランプ』


第19話 法廷へ向かう前


 法廷という場所は、事件のあとに現れる。

 けれど、本当に争いが始まるのは、そのずっと前だ。


 死んだ人の名前を、

 書類の上で何度も書くようになった時。

 事故の映像を“証拠”という言葉で呼ぶようになった時。

 そして、失ったものを説明するために、数字と文章へ変えなければならなくなった時。


 その時点で、もう人は十分に削られている。



 佐藤家では、弁護士との最初の本格的な相談が始まっていた。


 応接室の机の上には、整然と並んだ資料。

 事故の概要。

 警察の見解。

 損害賠償請求の流れ。

 加害者側の刑事責任と民事責任。

 今後の見通し。


 資料は冷静で、無駄がなく、読みやすく作られていた。

 それが逆に苦しかった。

 この人は、こういう事件を何件も扱ってきたのだろう。

 でも、こちらにとっては人生でたった一度の、壊れた現実だった。


 弁護士は、できる限り丁寧に言葉を選んでいた。


「まず、刑事事件のほうは警察・検察が進めます」

「こちらとしては、被害者参加制度の利用も含めて検討できます」

「そのうえで、民事では損害賠償請求の準備を進めることになります」


 幸弘は黙って聞いていた。

 結菜と恒一は今日は同席していない。

 まだそこまでの場へ出せる状態ではなかった。

 だが、話の内容は最終的に家族全員へ関わる。


「損害としては……」


 弁護士が資料をめくる。


「逸失利益。これは、祥子さんが本来定年まで働いて得られたはずの収入を基礎に考えます」

「それから、葬儀関連費用、医療費」

「さらに、ご家族それぞれの精神的苦痛に対する慰謝料」

「幸弘さんについては、今回の件で就労に支障が出ている期間の休業損害も、事情によっては整理して主張すべきです」


 幸弘は、机の上の文字を見た。


逸失利益

慰謝料

休業損害


 必要な言葉だ。

 必要だから、今ここに並んでいる。

 でも、そのどれもが、祥子という人をきれいに説明できているようには思えなかった。


「数字には、なります」


 弁護士が静かに言う。


「ですが、それは祥子さんの価値そのものではありません」

「法的に主張するための形だと思ってください」


 幸弘はうなずいた。

 うなずくしかなかった。


 もしも祥子が定年まで働いていたら。

 もしも事故がなければ。

 もしもあの日、ただ家へ帰れていたら。


 その“もしも”を一つひとつ金額へ置き換える作業は、

 理屈では必要でも、感情ではどうしても拒否感があった。


「……子どもらの分も、ですよね」


「はい」


 弁護士ははっきり答えた。


「お子さん方は、お母さまを理不尽な形で失っています」

「精神的苦痛の程度は大きく、今後の生活や学校生活への影響も含めて整理すべきです」


 理不尽。

 その言葉だけは、少しだけ現実に近かった。



 家へ戻ると、結菜は学校のプリントを前に止まっていた。


 復帰のための面談日程。

 時間割の調整。

 スクールカウンセラーとの連携。

 担任からのメッセージ。


 紙の上では、学校側はできる限り丁寧に配慮してくれている。

 それはわかる。

 でも、“では月曜から少しずつ戻りましょう”という言葉が、あまりにも遠い世界の話に見えた。


「お父さん」


 結菜が小さく呼ぶ。


「私、学校行ったら、みんな普通におるんやろ?」


「……うん」


「先生も、友達も、いつもみたいにしゃべるんやろ?」


 幸弘は返事に詰まる。

 学校が悪いわけではない。

 みんな普通にいるのが当たり前だ。

 なのに、自分たちだけがその“普通”へ戻れない。


「お母さんおらんのに、どうやって普通にしたらええん」


 結菜は泣かなかった。

 泣く元気すらないような顔だった。


 恒一も別の部屋で、学校から来た連絡を見ていた。

 部活の顧問、担任、友人。

 誰も悪くない。

 みんな心配してくれている。

 でも、その優しさが今は重い。


 スマホを伏せて、恒一は壁に頭をつけた。

 学校へ戻るということは、事故の前まで続いていた生活へ戻ることではない。

 母がいない状態で、新しい日常を始めろと言われることだった。



 一方で、下田孝介のもとにも弁護士がついていた。


 接見室。

 透明な仕切り。

 資料の束。

 弁護士は中年の男で、まずは感情を交えずに事実確認から入った。


「下田さん、あなたの言い分としては」

「被害車両が危険な割り込みをしてきた」

「それで話をしようとした」

「そういう理解でいいですか」


「そうです」


 孝介は即答した。


「いきなり前に入ってきたんですよ」

「危なかったし、ああいう運転されたら一言言わなあかんやろって」


 弁護士は何も言わず、手元のタブレットを開いた。


「まず、映像を見ましょう」


 前方ドラレコ。

 ガソリンスタンド出口。

 祥子の車が左折で本線へ入る。

 十分な車間。

 後続車に急制動なし。


 弁護士はそこで一度映像を止めた。


「……危険な合流ではないですね」


 孝介が眉をひそめる。


「いや、でも俺の感覚では――」


「感覚ではなく、映像の話をしています」


 淡々とした言い方だった。

 責めるためではなく、弁護の出発点として、まず通らない主張を切り分けている。


「見たところ、後続車との距離はかなりあります」

「少なく見積もっても、100メートル前後は離れているように見えます」


 孝介の喉が動く。


「100メートルも……」


「少なくとも、“急な飛び出しで危険回避が必要だった”という説明は、この映像とは整合しません」


 接見室が静かになる。


 孝介は、そこで初めて少し言葉を失った。

 自分の中では、“前に入られた”感覚が絶対だった。

 だが、映像はその感覚を裏切る。

 十分に空いていた。

 危険ではなかった。

 そう見える。


 弁護士はさらに後方映像も再生する。

 黒いセダンが執拗に接近し、追い越し、前を塞ぎ、急停止するまで。


 そこまで見て、弁護士はタブレットを閉じた。


「下田さん」


「……はい」


「あなたがこのような運転をするきっかけ、怒りを感じたきっかけは、本当に“相手の合流”だけですか」


 孝介は即答できなかった。


「映像上、相手の合流は危険ではありません」

「それなのに、あなたは極端に反応している」

「だとすれば、引き金は別のところにあったと考えるほうが自然です」


 孝介は視線を落とした。


「……別に」


「会社で何かありましたか」


 そこで、初めて沈黙の質が変わった。


「……」


「下から突き上げられていたとか、上から抑えられていたとか」

「数字のことで追い詰められていたとか」


 孝介の指が、膝の上で動く。

 それは否定の動きではなかった。


「……あった、ですよ」


 ようやく出た声は、今までよりずっと小さかった。


「会社で、ずっと」

「上は数字のことしか言わんし」

「下は使えへんし」

「客には頭下げっぱなしで」

「毎日、なんで俺ばっかりって……」


 言葉が、少しずつ溢れ出す。


「家帰っても、なんかずっとイライラしてて」

「運転してる時だけ、余計に……」

「前が遅いとか、入ってくるとか、それだけで腹立って……」


 弁護士は黙って聞いていた。

 同情しているわけではない。

 ただ、怒りの本当の出どころを把握しなければ、この事件の構造を整理できないからだ。


「つまり」


 弁護士が静かに言う。


「祥子さんの車の合流そのものが危険だったのではなく、あなた自身が、会社での不満やストレスを抱えたまま運転していて、その怒りを相手に向けた可能性が高いということですね」


 孝介はすぐにはうなずかなかった。

 だが、否定もできなかった。


 それが、この事件の核だった。



 同じ頃、世間では事件への関心がさらに高まっていた。


 煽り運転による死亡事故。

 危険運転致死の適用。

 被害者は、家へ帰る途中の会社員の母親。

 加害者は、会社員の四十七歳の男。

 ドラレコ映像の存在。


 報道番組では、“日常の怒りが道路で凶器になる”という切り口で特集が組まれる。

 ネット上では、厳罰を求める声が一層強まった。


 だが、社会がいくら怒っても、

 佐藤家の空っぽの台所は埋まらない。

 下田家の壊れた食卓も戻らない。



 夜、幸弘は子どもたちが寝たあと、一人で居間に座っていた。


 弁護士から受け取った資料。

 損害の整理。

 今後の流れ。

 裁判までの時間。


 そこには“準備”と書かれている。

 だが本当は、準備という言葉では軽すぎる。

 それは、祥子の死を他人へ説明できる形へ整えていく作業だった。


 定年までの所得。

 休業損害。

 慰謝料。

 精神的苦痛。


 そのすべてを、いつか法廷で言葉にしなければならない。


 幸弘は、机の上のメモへ視線を落とした。

 書かれているのは、

 事件の経過ではなく、

 失った日常の断片ばかりだった。


 朝食

 弁当

 買い物

送迎

学校の話

牛乳

ガソリン


 どれも、裁判では“損害”として整理されるかもしれない。

 でも自分にとっては、ただ祥子が生きていた証だった。



 法廷へ向かう前に、

 人はもう十分に壊れている。


 佐藤家は、母を失った日常をまだ受け止めきれない。

 下田家は、父と夫を社会的にも家庭的にも失った現実に押し潰されている。

 学校へ戻れない子どもたち。

 乗務へ戻れない幸弘。

 離婚と絶縁へ進む恵子と子どもたち。

 そして、なお自分の怒りを“仕方なかった”の延長で捉えようとする孝介。


 裁判は、そのあとに始まる。

 でも、裁かれる前に壊れるもののほうが、ずっと大きい

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