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赤いブレーキランプ  作者: リンダ


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裁かれる前に壊れるもの

『赤いブレーキランプ』

 第18話 裁かれる前に壊れるもの


 人がひとり死ぬと、世界は二つに割れる。


 その人がいた側と、

 もういない側だ。


 そして残された者は、

 泣きながら、怒りながら、何度もその境界を踏まされる。


 佐藤家にとって、それは葬儀が終わっても変わらなかった。

 むしろ、葬儀が終わったあとからのほうが、現実は容赦なく重くなっていった。


 家の中から、祥子の気配が少しずつ薄れていく。


 最初は、誰も台所へ立てなかった。

 冷蔵庫を開ければ、祥子が買ってきた牛乳の場所を思い出す。

 食器棚を開ければ、いつも使っていたマグカップが見える。

 洗濯機の上には、祥子が買い置きしていた洗剤がそのまま残っている。


 何も片づいていないのに、

 片づかないままでいること自体が苦しい。


 幸弘は、何度か朝に起きて、無意識に台所へ向かった。

 そして、そこでようやく思い出す。

 味噌汁はもうできていない。

 弁当も詰められていない。

「早よ起きや」と言う声もない。


 毎朝当たり前のようにあったものが消えた時、人はそれがどれほど大きかったかを、嫌でも知る。


 子どもたちも、学校へ戻るまでに時間がかかった。


 恒一は制服を着ても玄関まで行けず、

 結菜は教科書を開いたまま涙が落ちて前へ進めず、

 陽菜は「みんなのお母さんはおるのに、なんでうちだけおらんの」と言って泣き疲れた。


 学校側は配慮してくれた。

 担任も、学年主任も、スクールカウンセラーも、できる限りの言葉をかけてくれた。


 それでも、教室という場所はあまりに“普通”すぎる。

 朝の会があって、授業が始まって、給食が出て、友達が笑っている。

 その普通の中へ、自分だけ母を失った体で戻ることは、子どもたちにとってあまりに過酷だった。


 結菜は一度、登校途中で立ち止まって動けなくなった。

 恒一は部活のバッグを持ったまま学校の門の前で引き返した。

 陽菜は教室の席に座った瞬間、「お母さんに見せる絵、もう描いても意味ない」と言って泣いた。


 再建なんて言葉は、まだ遠い。

 日常へ戻る、という表現すら、どこか暴力的に思えるほどだった。


 幸弘もまた、乗務へ復帰する目途は立たなかった。


 鉄道会社は、優しさと責任の両方で彼を止めていた。

 多くの乗客の命を預かる仕事に、今の心身では戻せない。

 それは当然の判断であり、本人も頭では理解していた。


 だが理解できることと、受け入れられることは違う。


 幸弘はこれまで、

 列車を安全に走らせることで家庭を守ってきたつもりだった。

 朝早くても、夜遅くても、

 きちんと乗務し、無事に終えることが、家族の生活につながっていると信じてきた。


 その自分が今、運転席に座れない。

 給与も通常通りではなくなる。

 休職扱いに近い形で、収入も落ちる。

 仕事の誇りと家計の現実が、同時に崩れる。


 それは単に“悲しい”では済まなかった。


 現実は、やがて数字の形でも押し寄せてくる。


 警察、弁護士、保険会社。

 言葉の中に、少しずつ“損害”という概念が入り始める。


 祥子が定年まで働いていれば得られたはずの所得。

 会社員として積み上げるはずだった昇給。

 家計を支え続けるはずだった収入。

 幸弘が休まざるを得なくなった期間の経済的損失。

 医療費。

 搬送費。

 葬儀費用。

 子どもたちと幸弘、そして両親が負った精神的苦痛に対する慰謝料。


 どれも必要な話だ。

 必要だから、進めなければならない。

 だが、必要であればあるほど、残酷だった。


「お母さんの値段みたいで嫌や」


 結菜が、一度そう言った。

 誰も否定できなかった。


 値段ではない。

 そんなことは全員わかっている。

 わかっていても、失われた人生を社会の仕組みの中で扱うには、数字にせざるを得ない。


 定年まで働いたら得られた所得。

 逸失利益。

 慰謝料。

 扶養への影響。

 将来の教育費への不安。


 それらを一つひとつ並べるたび、

 祥子という存在の大きさが、逆に突き刺さるようにはっきりしていく。


 妻として。

 母として。

 娘として。

 働く一人の人間として。

 失ったものは、数字に置き換えても到底足りない。


 一方、下田家でも、失ったものは日ごとに現実の形を取り始めていた。


 まず、孝介は起訴へ向かう流れに入った。

 危険運転致死。

 暴行・恐喝。

 安全運転義務違反。

 逮捕だけで終わる話ではない。

 社会はもう、“事故を起こした人”ではなく、“煽り運転で命を奪った人”として彼を見るようになっていた。


 勤務先からは懲戒解雇。

 退職金も危うい。

 近隣にはニュースが知れ渡り、マンションの住人たちも視線を変えた。

 子どもたちは学校で名前を知られ、噂され、同情と好奇の混ざった目で見られるようになる。


 美月は、「あのニュースの家の子」と陰で言われた。

 翔太は友達の親が急によそよそしくなるのを感じた。

 恵子は駅の売店の店長として立っていても、何人かの客が自分に気づいて顔色を変えるのを見た。


 壊れたのは、家庭だけではない。

 社会の中での立場も、信用も、未来の見通しも、一気に崩れた。


 経済的な現実も重かった。


 佐藤家への賠償。

 慰謝料。

 弁護士費用。

 場合によっては、幸弘の休業損害も争点になる。

 子どもたちの精神的苦痛に対する補償。

 両親の慰謝。

 医療費や葬儀関連の費用。


 さらに下田家の側でも、

 恵子と子どもたちが受ける生活上の打撃がある。

 離婚となれば、家計は完全に分かれる。

 夫のいない生活。

 失職。

 社会的信用の失墜。

 会社からの損害賠償請求が現実になる可能性もある。

 報道で社名が出たことで、企業イメージを傷つけたとして、法的責任が問われる余地も出てくる。


 他にも失ったものは、数え切れない。


 朝、家族がそろって食卓につくこと。

 何も考えずに学校へ行けること。

 駅で気軽に笑うこと。

「ただいま」と言った時に台所から返事があること。

 “お父さん”という呼び方。

 “お母さん”という存在。

 仕事への誇り。

 家庭の安心。

 明日も同じように続くと思える感覚。


 どこまで数えても、終わらなかった。


 世論の怒りも強まっていた。


 ニュース番組は繰り返し特集を組み、

 コメンテーターは「これは交通トラブルではなく公道上の暴力だ」と言い、

 ネット上ではドラレコ映像を見た人々が次々に怒りを書き込んでいく。


「合流は普通にしか見えない」

「これを割り込みと言うなら誰も運転できない」

「止めた時点で殺意に近い」

「二度とハンドルを握らせるな」

「被害者家族が気の毒すぎる」


 怒りは正しい。

 だが、その正しさが佐藤家を救うわけではない。

 夜になれば、家の中は相変わらず空っぽのままだった。


 ある日、幸弘は台所で一人、祥子の残したメモ帳を開いた。


 買い物リスト。

 学校行事の予定。

 両親の通院日。

「ガソリン」

 そう書かれた一行も、まだ残っていた。


 その文字を見た瞬間、幸弘は初めて台所で声をあげて泣いた。


 事件の大きさも、裁判の行方も、賠償の額も、

 そんなものより先に、

 ただその文字が、

 “帰るつもりでいた人”の存在を何より正確に示していたからだった。


 下田恵子は、離婚の意思を固めたあと、必要な書類の準備を始めていた。


 もう夫婦としてではなく、

 子どもを守るために現実を処理する側へ回るしかなかった。


 それでも、判子一つ、住民票一枚、銀行口座の確認一つ取っても、

 全部に「本当にここまで壊れたのだ」という実感がついてくる。


 美月は父の姓を名乗ることすら苦痛になり始め、

 翔太は「僕もあんなふうになるんかな」と泣きながら言った。

 恵子はそのたびに、「ならへん。絶対ならへん」と抱きしめるしかなかった。


 裁かれる前に壊れるものは、

 法律では救いきれない部分ばかりだった。


 公判が始まる前から、

 もう十分に人生は終わっている。


 祥子は命を奪われた。

 幸弘は妻と仕事の軸を同時に失いかけている。

 子どもたちは、母と安心を失った。

 恵子と子どもたちは、父親と家庭の形を失った。

 ダンプの運転手もまた、一生この事故を背負って生きる。


 起訴はそのあとに来る。

 裁判もそのあとに始まる。

 だが、人が本当に壊れるのは、判決文が出るずっと前だ。


 そのことを、この事件はあまりにもはっきり示していた。

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