通夜の灯り
『赤いブレーキランプ』
第15話 通夜の灯り
通夜の夜は、静かに人を集めていった。
斎場の外はもう暗く、駐車場へ入ってくる車のライトが、途切れずに地面を照らしては消えていく。受付には白い花が置かれ、会場の中には線香の匂いと、抑えた話し声が漂っていた。
佐藤祥子は、祭壇の中央で遺影になっていた。
穏やかに笑っている写真だった。
結菜が何枚もある中から選べずに泣き崩れ、最後は幸弘と恒一が「これが一番、祥子さんらしい」と決めた一枚だった。
その笑顔は、今にも「何してるん」と声をかけてきそうなくらい日常の延長にあるのに、もう二度とその声は返ってこない。
会場には、親族だけではなく、祥子の勤め先の同僚、幸弘の職場関係者、近所の人、子どもたちの学校関係者、祥子の両親の知人たちまで、想像していた以上の人が来ていた。
受付で名前を書きながら、誰もが口をそろえる。
「まさか」
「信じられない」
「なんで祥子さんが」
その“なんで”に、誰も答えは持っていない。
答えがないまま、ただ現実だけがある。
⸻
佐藤家の四人は、喪服のまま並んで立っていた。
幸弘は、何度も頭を下げていた。
「このたびは」「ありがとうございます」「わざわざ」
口から出る言葉は、儀礼として正しい。
だが、そのたびに自分が自分ではないみたいだった。
まだ昨日のように思い出せる。
朝、祥子が台所に立っていた。
牛乳とトイレットペーパーを頼んだ。
「気をつけてな」と言われた。
その人が、今は祭壇の上にいる。
礼を言うたび、現実が深く刺さる。
結菜は、母の写真を見ないようにしていた。
見ると泣くからではない。
見たら、また朝のままの母がそこに立っているような気がしてしまうからだった。
恒一は受付の流れを何とか保とうとしていた。
何かしていないと壊れそうだった。
陽菜は親族席でじっと座っていたが、ときどき祭壇を見ては、小さく首をかしげていた。
まだ、全部が理解できているわけではない。
でも、お母さんがここにいて、なのに喋らないことだけは、幼いなりにわかっている。
⸻
焼香が始まる。
祥子の勤め先から来た同僚の女性が、涙をこらえながら幸弘に言った。
「主任、本当に優しかったんです」
「数字のことも厳しい時はあったけど、絶対に“人”を先に見てくれる人で……」
「お客さんに対しても、部下に対しても、あんなふうにちゃんと向き合う人、なかなかいなくて……」
その言葉に、幸弘はただ頭を下げるしかなかった。
祥子が職場でどういうふうに見られていたのか、自分は全部を知っていたわけではない。
でも、今こうして他人の口から語られる“祥子らしさ”が、どれも驚くほど自然に胸へ入ってくる。
別の同僚は、結菜に向かって言った。
「お母さんね、よく子どもの話してたよ」
「結菜ちゃん、絵が上手やって」
「陽菜ちゃんは元気すぎるって笑ってて、恒一くんは最近あんまりしゃべってくれへんって、ちょっと寂しそうにしてた」
結菜はそこで顔を伏せた。
母がそんなふうに自分たちのことを話していた、その当たり前がもう増えないことに、急に息が苦しくなる。
近所の女性も泣きながら言う。
「祥子さん、誰か困ってたら絶対に放っとかへん人やった」
「うちの母がちょっと転んだ時も、真っ先に駆け寄ってくれて」
「自分も忙しいやろに、“大丈夫ですか”って」
幸弘の職場の先輩は、幸弘の肩に手を置いた。
「祥子さん、あんたのことよう支えとったな」
「“乗務の日は朝の顔でわかる”って、前に笑うてたで」
「ちゃんと見てくれてた人やった」
そうやって集まった人たちの言葉で、
祥子は“死亡事故の被害者”ではなく、
家でも職場でも、ちゃんと誰かを支え、誰かに覚えられていた一人の人として立ち上がっていく。
それがかえって、痛かった。
こんなにちゃんと生きていた人が、
あんな終わり方をしなければならなかったのか。
その理不尽が、焼香の列が進むほど濃くなる。
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通夜の会場の外では、記者の姿もあった。
大きな動きはない。
だが、ニュースで名前が出た以上、完全に世間の外ではいられない。
煽り運転による死亡事故。
危険運転の可能性。
社会が反応する題材だった。
幸弘の職場である南海電鉄からは、正式に連絡が入っていた。
「しばらく休んでください」
それは配慮だった。
同時に、はっきりした現実でもあった。
列車の乗務は、多くの乗客の命を預かる仕事だ。
信号、速度、確認、判断。
今の幸弘の精神状態で運転席に座らせることはできない。
本人が望んでも、会社としてはそう判断するしかなかった。
その連絡を受けた時、幸弘はようやく、
自分が“仕事へ戻る以前の場所”に落とされたのだと知った。
人を安全に運ぶ仕事をしてきた自分が、
最も大切な人を、道路の上の暴力から守れなかった。
その思いは、誰に言われるより先に自分自身を深く刺していた。
⸻
一方で、下田孝介の勤務先にも、事故の詳細が届いていた。
最初は「社員が重大事故に巻き込まれた」という扱いだった。
だが警察の見解が報じられ、ドラレコ映像と目撃証言がそろい始めると、会社の空気は一変した。
販売部長・下田孝介。
煽り運転による危険運転の疑い。
死亡事故。
会社名が報じられるのは時間の問題だった。
結果は早かった。
懲戒解雇。
正式通知は病院宛てと自宅宛ての双方へ送られた。
会社としては当然の判断だった。
数字を背負い、外部と接する立場の人間が、社会的に最悪の形で命を奪った可能性が高い。
しかも公道上での激しい妨害行為。
残す余地はなかった。
その知らせを受けた時、恵子はもう驚かなかった。
悲鳴を上げる気力もなかった。
ただ、ああ、もう本当に全部終わったのだと思った。
家も。
仕事も。
父親としての立場も。
夫としての形も。
⸻
下田家は、その夜、完全に崩れていた。
恵子は病院から一度帰宅し、必要な物を取るために部屋へ入った。
だが、そこにあるもの全部が別の意味に見えた。
孝介のスーツ。
ネクタイ。
営業カバン。
車のキー。
ダイニングテーブル。
いつも座っていた椅子。
全部が、あの怒りとつながっているように感じられる。
美月は自室の前で立ち尽くしていた。
翔太はリビングの隅で、膝を抱えている。
「お母さん」
美月が先に口を開く。
「もう……無理や」
その“無理”の意味は、説明しなくてもわかった。
「私、あの人の娘って思われるのも嫌や」
恵子は目を閉じた。
責めることはできない。
自分だって同じだった。
翔太が小さな声で言う。
「僕も……もう、お父さんって言いたくない」
その言葉が、家の最後の柱を折った気がした。
恵子はゆっくりとうなずいた。
「……うん」
それは子どもを止める母の返事ではなかった。
同じ場所へ落ちた一人の人間としての返事だった。
「離婚する」
恵子が静かに言う。
その声には迷いがなかった。
「もう、あの人とは終わり」
「二度と、関わらん」
美月は涙を流しながらうなずいた。
翔太も唇を噛んでいたが、やがて小さくうなずいた。
それは家族の話し合いというより、
壊れたあとに残った者たちが、生き延びるために線を引く瞬間だった。
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通夜の会場では、夜が更けても人が途切れなかった。
祥子の人となりを知る人たちが、
「優しかった」
「しっかりしていた」
「明るかった」
「子どもの話をうれしそうにしていた」
と口々に語る。
そのたびに、佐藤家の家族は、
“自分たちだけの母、妻”だった人が、
外の世界でもちゃんと誰かに必要とされ、愛されていたことを知る。
それは誇らしいことのはずだった。
でも今は、その誇らしさがそのまま苦しみになる。
こんなに大事にされていた人を、
こんなふうに奪われた。
その事実だけが、何度も胸を裂く。
陽菜は通夜の途中で、幸弘に小さく聞いた。
「お母さん、みんなにいっぱい好きやったん?」
幸弘は、しばらく声が出なかった。
「……うん」
やっとそれだけ答える。
「じゃあ、なんで死んだん」
幸弘は答えられなかった。
理屈ではない。
怒りでもない。
その問いに対して、この世界はあまりにも薄すぎた。
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夜の終わり頃、幸弘のもとへ職場からもう一度連絡が入った。
「無理に連絡を返さなくていい」
「乗務については当面考えなくていい」
「今は家族のそばにいてほしい」
優しい文面だった。
だが、それを読んだ幸弘はしばらくスマートフォンを見つめたまま動けなかった。
鉄道の仕事は、自分の軸でもあった。
正確に走ること。
安全に止まること。
誰かを無事に送り届けること。
それを誇りにしてきた。
なのに、今はそのハンドルもブレーキも、自分から取り上げられている。
当然だ。
今の自分が冷静に運転できるわけがない。
頭ではわかる。
でも、その“当然”がまた自分を空っぽにした。
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通夜の灯りは、人を慰めるためにあるのかもしれない。
けれどその夜、その灯りはただ、
もう戻らない人の不在を静かに照らしていただけだった。
祥子は帰らない。
その事実は変わらない。
そしてもう一方では、
怒りを正当化し続けた男の人生が、
仕事も、家庭も、父親としての立場も含めて、
一気に崩れ去っていた。
それでもなお、その崩壊は祥子の命とは釣り合わない。
どれだけ失っても、
祥子は戻らない。
通夜の夜とは、
その取り返しのつかなさを、
人の言葉と灯りの中で、
じわじわと知っていく夜だった。
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続けるなら次は、第16話として
葬儀の日、佐藤家の“最後のお別れ”と、下田孝介に正式な逮捕・立件の動きが始まる場面を並べると、物語がさらに締まります。




