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赤いブレーキランプ  作者: リンダ


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最後のお別れ

 第16話 最後のお別れ


 葬儀の日の朝は、信じられないほど静かだった。


 空は晴れていた。

 雲は薄く、風も強くない。

 それが余計につらかった。

 こんなに穏やかな朝なのに、佐藤家の中には、もう“いつもの朝”の音がひとつもなかった。


 味噌汁の匂いも、トースターの音も、

「ハンカチ入れた?」も、

「気をつけてな」もない。


 ただ、喪服の布が擦れる音と、

 押し殺した咳払いと、

 誰かがティッシュを引き抜く音だけがあった。


 幸弘は、黒い礼服に袖を通していた。

 顔色は悪く、頬は少し落ちて見える。

 ここ数日でまともに眠れていないことは、誰の目にもわかった。

 それでも立っている。

 立って、子どもたちの前にいる。

 それだけで、もう限界に近かった。


 恒一はネクタイを締めたまま、鏡も見ずに立っていた。

 結菜は髪を整えてもらったあと、何も言わずに椅子へ座っている。

 陽菜だけは、まだ喪服というものに馴染めず、時々袖口を見つめていた。


 理不尽に奪われた平穏な日常。

 その言葉を、誰も口にはしなかった。

 けれど家の中の空気そのものが、それを知っていた。


 斎場には、朝早くから多くの人が集まり始めていた。


 幸弘の両親も、遠方から駆けつけていた。

 父は無言で、母は何度も目頭を押さえながら、祭壇の遺影を見上げる。


「祥子さんが……」

「こんなことってあるんか……」


 短い言葉しか出てこない。

 それでも、その短さの中に、怒りと悲しみが濃く詰まっていた。


 祥子の両親、理人と恵美子は、もう昨日までの姿ではなかった。

 理人は杖をつく手に力が入らず、恵美子は人に声をかけられるたび、小さく頭を下げては涙をこらえきれなくなる。

 娘の葬儀で親が頭を下げる。

 その光景そのものが、すでにあまりに残酷だった。


 祭壇の中央には、祥子の遺影がある。

 優しく、少しだけ照れたような笑顔。

 その笑顔が、今日という日にまるで似合わないくらい、生きていた。


 葬儀と告別式には、職場の同僚、友人、親戚が次々と訪れた。


 南海電鉄不動産営業部の同僚たちは、焼香のあともすぐには立ち去れず、幸弘に何度も言葉をかけた。


「祥子主任、最後までお客さんのこと考える人でした」

「無理な営業せんと、ちゃんと生活見る人やったんです」

「なんであんな人が、こんな目に……」


 その“なんで”は、悲しみの言葉であると同時に、怒りでもあった。


 ある先輩社員は、声を震わせながら言った。


「相手、ようそんなことできましたよね」

「普通に帰る途中の人を止めて、怒鳴って……」

「それ、もう事故ちゃうやろ」


 幸弘は何も言い返せなかった。

 同じ思いだったからだ。


 近所の友人も、親戚も、同じように言う。


「理不尽すぎる」

「こんなん、ただの事故やない」

「人の家庭をなんやと思ってるんや」

「許される話やない」


 怒りの言葉は多かった。

 けれど、その怒りは決して荒れてはいなかった。

 むしろ静かだった。

 静かだからこそ、深かった。


 警察からは、葬儀の前にあらためて事故の進捗が伝えられていた。


 下田孝介の供述。

 ドラレコ映像。

 目撃証言。

 停止位置。

 追い越しの状況。


 幸弘は、その一部を親族へも伝えなければならなかった。


「相手は……」

「“俺の前に入りやがって”と思ったらしいです」


 それを聞いた時、場の空気が凍った。


「は?」


 幸弘の父が、思わず低い声を漏らす。


「そんな理由で……?」

「そんな理由で、祥子さんを……?」


 理人は目を閉じたまま、唇を震わせていた。

 恵美子は、聞いた瞬間にまた涙があふれた。


 幸弘は続ける。

 続けるしかない。

 これもまた、悲しみが“説明”に変わる痛みだった。


「向こうは、“話そうとしただけ”とか、“まさか死ぬとは思わなかった”とか……」

「……そういう供述をしてるそうです」


 そこで結菜が顔を上げた。

 泣き疲れて、もう涙の残りも少ない顔だった。


「話そうとしただけって……何」

「お母さん、怖かったに決まってるやん」


 その声に、また誰も何も言えなくなる。


 恒一は拳を膝の上で握りしめていた。

 怒っている。

 でも怒鳴ることすらできない。

 怒りをぶつける先が、その場にはないからだ。


 葬儀の途中、受付が少しざわついた。


 黒いスーツ姿の男が、深く頭を下げながら入ってくる。

 その後ろには、同じく喪服姿の中年男性。

 二人の顔は、会場の空気の中で明らかに異質だった。


 大型ダンプの運転手、松本英二だった。

 後ろに立つのは、勤務先の社長だった。


 松本は、やつれ切った顔をしていた。

 目の下には深い影があり、数日でひどく痩せたのがわかる。

 社長も表情を硬くし、受付で名乗ったあと、遺族のもとへ案内される。


 松本は、幸弘の前まで来ると、その場で深く頭を下げた。

 社長も一緒に頭を下げる。


「この度は……」


 松本の声は、最初から震えていた。


「取り返しのつかないことを起こしてしまい、誠に申し訳ございません」


 社長も続ける。


「会社としても、深くお詫び申し上げます。本当に申し訳ございませんでした」


 その謝罪に、会場の空気がさらに張る。


 松本は、悪質な運転手ではなかった。

 むしろ安全運転で知られた、優良ドライバーだった。

 それは警察も、会社も、同業者も認めている。

 だが、現実として追突したのは彼のダンプだった。

 その事実だけで、彼自身がどれほど自分を責めているかは、その顔を見ればわかった。


「私は……」

「速度も守っていて……」

「でも……止まりきれませんでした……」


 言葉がそこで詰まる。


 幸弘はしばらく黙っていた。

 この人を責めれば、少しは気が済むのか。

 そういう単純な話ではないことを、もう知ってしまっている。


 警察の見解も、ドラレコも、証言も、全部が示している。

 祥子の車を止めたのは、松本ではない。

 逃げ場のない場所を作ったのは、別の怒りだった。


 それでも松本は、追突した事実を背負ってここへ来た。


 幸弘は、絞るように言った。


「……うちの妻は、何も悪くなかったんです」


 松本は頭を下げたまま、声を震わせる。


「わかっています……」

「本当に、申し訳ありません……」


 その謝罪は、許しを求めるものではなかった。

 自分が一生背負うものを、ただ相手の前で言葉にしただけだった。


 そしてさらにそのあと、もう一人、会場に入ってきた人がいた。


 下田恵子だった。


 喪服姿。

 顔は憔悴しきっていて、立っているだけでやっとに見えた。

 目は真っ赤に腫れ、化粧では隠しようのない疲れが全身ににじんでいる。


 その姿を見た瞬間、会場の空気が変わる。

 誰もが、この人が誰かを知っているわけではない。

 けれど、遺族席に近づくまでの重さで、ただ事ではないことは伝わる。


 恵子は幸弘たちの前まで来ると、深く、深く頭を下げた。


 長い時間、そのままだった。


 顔を上げた時、声はかすれていた。


「私の主人が起こしたこの事件の妻として……謝罪に来ました」


 その場にいた誰もが息を止める。


「本当に申し訳ございません」


 結菜が、反射的に父の袖をつかんだ。

 恒一の目が鋭くなる。

 陽菜は状況がわからないまま、ただその人を見ている。


 恵子は続ける。


「祥子さんには、堺東の売店で……いつもよくしてもらっていました」

「新商品の話をしたり、感想を聞いたり……」

「それなのに……」


 そこで声が崩れた。


「それなのに、私の主人が……」


 言葉にならない。

 涙が落ちる。

 それでも、もう一度頭を下げる。


「本当に、申し訳ございません」


 会場には、怒りもあった。

 当然だった。

 だが、その場で恵子に怒鳴る者はいなかった。

 あまりにも、彼女自身がすでに壊れていたからだ。


 幸弘はしばらく黙っていた。

 そして、ようやく低く言った。


「……祥子は、あんたに何もしてへん」


 恵子は泣きながらうなずく。


「わかっています」


「ただ家に帰る途中やったんです」


「……はい」


「子どもらが待っとったんです」


 恵子はもう、立っていられないほど震えていた。


「わかっています……」


 その“わかっています”が、あまりにも遅かった。

 でも、それしか言えなかった。


 結菜は涙も枯れ果てたような顔で、そのやりとりを見ていた。

 恒一は母の遺影と恵子の顔を交互に見て、何も言わない。

 陽菜は、父の足元にぴたりとくっついている。


 幸弘もまた、顔色が悪かった。

 喪服の襟元から見える首筋が、今にも折れてしまいそうなくらい細く見える。

 立っているだけで限界なのは、誰の目にも明らかだった。


 葬儀と告別式は、終わりのための儀式だ。

 けれどその日、佐藤家にとっては、終わりを受け入れる儀式というより、

 理不尽に奪われた現実を、何度も確認させられる場だった。


 祥子はもういない。

 それを知人の言葉で知り、

 遺影で知り、

 棺で知り、

 謝罪で知り、

 加害者の供述で知る。


 どの形でも、痛みは少しも薄まらない。


 そして裏側では、下田孝介に対する正式な逮捕と立件の動きが、確実に進んでいた。


 危険運転致死の適用。

 進路妨害。

 本線上での停止。

 怒鳴りながらの威嚇。

 ドラレコ映像。

 目撃証言。

 供述の矛盾。


 警察は、もはや“事故の当事者”ではなく、

 危険行為を行った被疑者として孝介を見始めている。


 その報告は、葬儀の最中にも幸弘の耳へ届いていた。

 だが今は、まだ怒る力すら残っていない。

 怒りより先に、喪失が大きすぎる。


 最後のお別れの時、

 花を手向ける手が震えていた。


 幸弘は、白い花を一本ずつ棺へ置いた。

 結菜も、恒一も、陽菜も、それぞれの手で花を置く。

 理人と恵美子も、幸弘の両親も、親族も、同僚も、友人も。


 花が増えるほど、祥子が遠くなる気がした。


 何度も、誰かが言う。


「まだ信じられへん」


 その言葉だけが、本当に正しかった。


 信じられないまま、

 人は火葬場へ向かい、

 信じられないまま、

 人は手続きを進め、

 信じられないまま、

 日常を失った後の生活へ押し出されていく。


 それが、遺された者の現実だった。


 葬儀の日の空は、最後まで穏やかだった。


 あまりにも穏やかで、

 あまりにも普通で、

 だからこそ、この数日の出来事だけが悪夢みたいに浮いて見えた。


 でも悪夢ではない。

 祥子は戻らない。

 下田家も、もう元には戻らない。

 ダンプの運転手も、一生この日を背負う。


 たった数秒の怒りが、

 どれだけ多くの人の平穏な日常を奪ったのか。


 葬儀の日は、その重さを、

 誰もが自分の身体で知る日だった。

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