言い訳の残響
『赤いブレーキランプ』
第14話 言い訳の残響
夜が明けても、何も戻らなかった。
病院の白い廊下も、警察の聞き取り室も、佐藤家の居間も、同じ朝を迎えているはずなのに、それぞれの場所に流れている時間は、もうまるで別のものになっていた。
佐藤家では、悲しみがまだ悲しみの形をしている暇さえなかった。
親族への連絡。
勤務先への報告。
学校への連絡。
葬儀社との打ち合わせ。
遺体の搬送。
通夜と葬儀の日程。
どの服を着せるか。
誰に何を伝えるか。
どこまで子どもたちに説明するか。
人が亡くなると、悲しむ前に決めなければならないことが、あまりにも多い。
幸弘は居間のテーブルに座ったまま、何枚目かわからないメモ用紙へ名前を書き続けていた。
「……理人さんと恵美子さんには、もう連絡した」
「会社には朝いちで伝えた」
「学校も……」
声は低く、かすれていた。
眠っていないのに、頭の中だけが妙に白い。
言葉を並べているのは自分なのに、どこか遠くから見ているような感覚がある。
祥子の両親、上田理人と恵美子は、夜のうちに一度病院へ来て、その後ほとんど眠れないまま朝を迎えていた。
理人は足が悪いにもかかわらず、杖を握る手を震わせながら娘のもとへ向かった。
恵美子は何度も「なんで祥子が」と繰り返して、そのたび声が崩れた。
結菜は、台所の椅子に座っていた。
泣き疲れているのに、目は少しも休んでいない。
陽菜は事情がまだ全部わからないまま、姉の隣で黙っている。
恒一は壁際に立ち、スマートフォンに入ってくる連絡を、ほとんど反射だけで見ていた。
「部活の先生から?」
幸弘が聞く。
「……うん」
「なんて」
「今日は来なくていいって」
その返事だけで、また部屋が静かになる。
来なくていい。
休んでいい。
無理しなくていい。
周りの人間は、優しさとしてそう言う。
けれど本人たちはもう、“普通に学校へ行く朝”が存在しない場所へ来てしまっている。
優しさの言葉でさえ、現実を濃くするだけだった。
通夜の準備は、あまりにも事務的に進んだ。
葬儀社の担当者は丁寧だった。
それが余計につらかった。
「お写真はこちらでよろしいでしょうか」
「お花のお色味、ご希望ありますか」
「お通夜は明日の夕方で調整可能です」
「ご親族の人数はおおよそで結構ですので」
悪い人ではない。
むしろ、できる限り傷つけないように話してくれている。
だが、その言葉の一つひとつが、祥子が“もう帰ってこない人”として扱われ始めている現実を、否応なく突きつけてくる。
幸弘は何度か返事に詰まり、そのたび結菜が顔を伏せた。
恒一は黙ったまま、必要な時だけ小さく「はい」と言った。
陽菜だけが途中で聞いた。
「お通夜ってなに」
誰もすぐには答えられなかった。
恵美子が涙をこらえながら、かすれた声で言う。
「お母さんに……みんなで、ちゃんとお別れするんよ」
「お別れって」
陽菜はそこまで聞いて、また黙った。
まだ、言葉が意味になり切っていない顔だった。
悲しみが“手続き”に変わっていく。
その痛みは、泣くこととは別の場所を深く削る。
一方、病院の別の病棟では、下田孝介がようやく意識をはっきり取り戻しつつあった。
両足には固定。
鈍い痛み。
頭も重い。
目を開けると、病室の天井が白くぼやけて見える。
何が起きたのか。
事故。
ダンプ。
衝撃。
そこまでは、断片的に思い出せる。
だが、自分がその前に何をしたかについては、頭の中で都合の悪い部分だけが曇っていた。
病室のドアが開き、恵子が入ってきた。
顔色はひどく悪かった。
一晩で何年も老けたように見えた。
その後ろには、美月と翔太もいた。
だが二人とも、父のベッドへ近づこうとはしない。
「……恵子」
孝介が呼ぶ。
その声を聞いた瞬間、恵子の中で、何かがはっきり切れた。
「あんた」
声は低かった。
昨日までの“様子を見ながら言葉を選ぶ妻”の声ではない。
「あんた、自分が何やったかわかってる?」
孝介が一瞬、目を逸らす。
「……事故やろ」
その答えに、恵子の顔が歪んだ。
「事故?」
一歩、ベッドへ近づく。
「大切な私のお客さん殺して、なんなん」
「なんであんたが助かってんのよ」
孝介の表情が固まる。
「……何言うて」
「佐藤祥子さんやで!」
病室に響く声だった。
でも恵子はもう抑えなかった。
「毎朝、堺東で会うてたんや!」
「新商品の話して、サンドイッチ買うてくれて、笑うてくれる、私の大切なお客さんやったんや!」
美月が唇をきつく噛む。
翔太は、父ではなく母の背中だけを見ている。
「祥子さんの家庭をめちゃくちゃにして」
「ダンプのドライバーの家庭もめちゃくちゃにして」
「うちらにもこんな目に遭わせて」
恵子の声は、途中から涙で震え始めていた。
それでも止まらない。
「あれは事故やない」
「あんたが引き起こした、殺人事件や」
孝介の喉が動く。
だが、出てきた言葉は謝罪ではなかった。
「……そこまで言わんでも」
その一言で、美月の表情が完全に変わった。
「そこまで?」
美月が、初めて父のほうへまっすぐ向いた。
「お父さん、まだそんなこと言うん?」
孝介は娘を見る。
その目の中に、もう自分へ向けられる尊敬も信頼も残っていないことに、やっと少しだけ気づく。
「お前ら……」
翔太が、かすれた声で言った。
「前にも言うたやん」
「そんな運転してたら、いつか事故起こすって」
病室の空気が止まる。
「なのに、お父さん、やめへんかった」
その声は怒鳴りではなかった。
だからこそ重かった。
恵子は、泣きながらも言い切った。
「子どもたちも、もう、あんたを父親なんて思わへん」
「二度と関わらんで」
その言葉は、勢いで出たものではない。
一晩のあいだに、何度も何度も胸の中で固まった言葉だった。
孝介は何か言おうとした。
だが、返す言葉が見つからない。
見つからないまま、やっと出てきたのは、またしても自分を守るための言葉だった。
「……俺だって、こんなことになるとは思ってへんかった」
恵子が、ゆっくり首を振る。
「そうやって、また自分のことばっかりや」
それは、夫婦として最後に近い言葉だった。
その後、警察官が病室へ入った。
まずは体調の確認。
医師から、短時間なら聴取可能という判断が出ている。
孝介の両足は骨折。
逃げられない。
だが、言葉だけはまだ自由だった。
「下田孝介さん」
警察官が落ち着いた声で言う。
「事故当時の状況について、確認させてください」
孝介はわずかに顔をしかめる。
「……俺も被害受けてるんですけど」
警察官は反応しない。
「あなたの車が、被害者車両の前方へ回り込み、道路上で停止していたことが、目撃証言とドライブレコーダー映像で確認されています」
「停止したんやなくて、話そうとしただけです」
「片側一車線の左カーブ途中でですか」
「向こうが危ない入り方したから……」
「被害者の合流は、現時点で通常の範囲内と判断されています」
そこで初めて、孝介の表情に苛立ちが浮く。
「いや、でも俺の前に入ってきたんですよ」
「十分な車間があったという証言と映像があります」
「急いでたんです、こっちも」
「急いでいたから、追い越して停止させたんですか」
言葉が詰まる。
警察官は、感情を交えずに続ける。
「あなたが降車し、運転席側のドアを叩き、開けろと怒鳴っていたことも確認されています」
「……話を」
「通報しようとした被害者の車に、後方から大型ダンプが追突しました」
孝介は顔を逸らした。
「……ダンプが悪いやろ、あれは」
病室の空気が、一瞬で冷えた。
恵子が目を閉じる。
美月はもう父の顔を見ていない。
翔太は唇を震わせた。
警察官は、低く、しかしはっきり言った。
「ダンプ運転手は制限速度内で走行し、長い制動痕も残っています。見通しの悪いカーブの途中に停止車両があったことが、重大な要因です」
その言葉は、言い逃れの余地を一つずつ潰していく。
孝介はそれでもなお、言った。
「……でも、まさか死ぬとは」
恵子が、そこで静かに笑った。
笑いではなく、壊れた息だった。
「“まさか”で済むなら、警察も病院もいらんわ」
それで、病室は完全に終わった。
佐藤家では、通夜の準備がさらに進んでいた。
親族へ連絡が回り、祥子の勤め先からも人が来ることになり、学校側も対応を調整しているという話が入る。
幸弘はその一つひとつに返事をしながら、自分が何を言っているのか半分わからないままだった。
「はい」
「ありがとうございます」
「明日、お願いします」
礼を言うたびに、現実が一枚ずつ重なる。
結菜は、母の遺影に使う写真を選ぶ作業で泣き崩れた。
どの写真にも母は笑っている。
その笑顔を“遺影にふさわしいか”で選ばなければならないことが、あまりにむごかった。
恒一は、葬儀社の人に「会葬者の人数は」と聞かれた時、初めて机を殴った。
「わかるわけないやろ……!」
すぐに幸弘が止めた。
けれど、その怒りは誰にも責められなかった。
悲しみは時々、形を変えないと呼吸ができなくなる。
陽菜は、ずっとひとつのことだけを言い続けていた。
「お母さん、いつ帰ってくるん」
誰も、まだうまく答えられなかった。
悲しみが“手続き”に変わるというのは、
泣くことをやめるという意味ではない。
泣きながら、
電話を取り、
名前を書き、
日程を決め、
写真を選び、
学校へ連絡し、
服を用意し、
現実を少しずつ具体化していくことだ。
その具体化のたびに、
「もういない」が深くなっていく。
そしてその裏側で、
孝介はまだ「急いでいた」「話そうとしただけ」「ダンプが悪い」と言っている。
その落差は、
悲劇というより、
もはや残酷さそのものだった。
同じ夜の中で、
ひとつの家族は、
帰ってこない人を“送り出す準備”に追われていた。
もうひとつの家族は、
父と夫が“人を殺したかもしれない”現実から目をそらせなくなっていた。
そして孝介だけが、
まだどこかで、
自分はそこまで悪くないと思おうとしていた。
その自己保身の響きが、
いちばん深く、
いちばん取り返しのつかないものを壊していた。




