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赤いブレーキランプ  作者: リンダ


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ただの事故ではなかった夜

『赤いブレーキランプ』


第13話 ただの事故ではなかった夜


 夜は、いくつもの場所で同時に深くなっていく。


 病院の廊下。

 警察署の会議室。

 事故現場から少し離れた規制線の向こう。

 そして、家に帰れなくなった家族たちのいる場所。


 どこも同じ夜のはずなのに、そこに流れる時間はもうまるで違っていた。



 病院の小さな部屋で、佐藤幸弘は椅子に座ったまま動けずにいた。


 目の前の机。

 白い壁。

 紙コップの水。

 結菜のすすり泣き。

 陽菜の「なんで?」という繰り返し。

 恒一の沈黙。


 祥子がもう帰らない。

 その事実だけでも、人ひとりの心には重すぎた。


 なのに、その夜、警察はさらに別の現実を運んできた。


 ノックのあと、スーツ姿の警察官と制服の警察官が部屋へ入る。

 どちらも表情を抑えている。

 こういう時に余計な感情を顔へ出さない訓練を受けた人たちの顔だった。


「佐藤さん、ご家族の皆さん」


 まず、深く頭を下げる。


「大変つらい中で申し訳ありませんが、現時点でわかっている事故の状況について、お伝えしなければならないことがあります」


 幸弘は顔を上げた。

 その言い方で、もう“普通の追突事故ではない”ことだけはわかった。


 警察官は、言葉を慎重に選びながら話し始めた。


「奥さまのお車ですが、ガソリンスタンドから本線へ左折合流されたあと、後続の車両から執拗に接近されていた可能性があります」


 結菜の泣き声が、そこで一瞬止まる。


「その後、後続車両が奥さまのお車を追い越し、前方へ無理に入り込んだうえで、道路上で停止させたとみられます」


 幸弘の目がゆっくり見開かれる。


「停止……?」


 声がかすれる。


「はい。片側一車線の左カーブ途中で、前方を塞ぐような形で停止していたことが、複数の目撃証言とドライブレコーダーの映像から確認されています」


 部屋の空気が、さらに重く沈んだ。


 恒一が初めて口を開く。


「……じゃあ、お母さんは」


 その先が言えない。


 警察官は続ける。


「お車を止められた後、相手の運転手が降車し、運転席側へ詰め寄っていたとみられます。ちょうどその時、後方から大型ダンプが追突し――」


 陽菜が、わからないまま父のほうを見る。


「お母さん、止められたん?」


 誰もすぐ答えられない。


 幸弘の顔から、悲しみとは別の色が抜けていく。

 怒りとも、混乱とも、まだ名前のつけられない感情だった。


「……ただの事故やなかったんか」


 警察官は、すぐには肯定も否定もしなかった。

 その代わり、事実だけを重ねる。


「現時点では、いわゆる煽り運転に類する危険な走行、及び妨害行為が事故の直接的な要因になった可能性が高いと見ています」


 結菜が両手で口を押さえた。

 恒一は椅子から立ち上がりかけて、また座り直す。

 幸弘は机に置いた拳を強く握った。


 今朝までいた。

 ただ家へ帰る途中だった。

 ガソリンを入れて、牛乳を買って、家へ戻るだけだった。

 それなのに、誰かの怒りで道路上に止められ、逃げ場を失い、命を奪われた。


 それはもう、偶然ではなかった。


「相手は……」


 幸弘が、低く言う。


「誰なんですか」


 警察官は一拍だけ間を置いた。


「下田孝介、四十七歳です。堺区在住。現在、同じ病院に搬送されています」


 その名前は、佐藤家の誰にもまだ意味を持たなかった。

 だが、それで十分だった。

 名前のある誰かが、祥子を止め、怒鳴り、死へ追いやった。

 現実が、急に顔を持った。


 幸弘は視線を落としたまま、絞るように言った。


「……祥子は、何も悪いことしてへんかったんですよね」


 警察官は、はっきり答えた。


「現時点で確認されている限り、奥さまの合流は通常の範囲内で、危険な割り込みと評価されるものではありません」


 その言葉が、逆に残酷だった。


 何も悪くない。

 それでも死んだ。

 それが、誰かの勝手な怒りのせいで。


 結菜が泣きながら言う。


「なんで……なんでお母さんがそんな目に遭わなあかんの」


 誰も答えられない。


 警察官でさえ、その問いには答えられなかった。



 同じ夜、警察署では事故の概要が整理されていた。


 ドラレコ映像の確認。

 目撃証言の照合。

 ダンプ運転手の供述。

 停止位置。

 ブレーキ痕。

 停止車両の向き。

 怒鳴り声。

 窓を叩く行為。

 通報しかけた形跡。


 点だったものが線になっていく。


 これは単純な追突事故ではない。

 意図的な進路妨害と停止行為があり、その結果として死者が出た可能性が高い。

 その見解が、警察内部でほぼ固まりつつあった。


 そして夜の全国ニュース各局にも、警察発表の概要が流れ始める。



 夜のニュース番組では、重い声のキャスターが原稿を読み上げていた。


「大阪・堺市で発生した死亡事故について、警察は、いわゆる煽り運転による危険運転が事故の発生に強く関与した可能性が高いとの見解を明らかにしました」


 画面には、規制線の張られた左カーブの事故現場。

 赤色灯。

 潰れた車体。

 実況見分をする警察。

 そしてテロップ。


「死亡したのは、堺市西区の会社員・佐藤祥子さん(41)」


 そのニュースは、テレビだけでなく、ラジオのニュース速報でも流れていた。



 下田恵子は、その時、病院の待合の片隅にいた。


 孝介は治療中で、両足骨折の重傷だとだけ聞かされている。

 命に別状はないらしい。

 それだけを支えに、子どもたちを隣へ座らせていた。


 待合の端に置かれたラジオから、夜のニュースが淡々と流れる。

 誰かがつけたままにしていたものだった。


 最初、恵子はぼんやりとしか聞いていなかった。

 堺市の事故。

 煽り運転。

 危険運転の可能性。

 その言葉が耳に入った瞬間、身体の奥で何かがざわついた。


 そして次の一文で、世界が止まった。


「死亡したのは、堺市西区の会社員・佐藤祥子さん」


 恵子の指先から、持っていたスマートフォンが滑り落ちた。


 床にぶつかる音が、やけに大きく響く。


「……え」


 声にならない。


 ラジオは続ける。


「警察は、前方の車両を停止させたうえで詰め寄るなどの行為があったとみて、事故の詳しい経緯を調べています」


 佐藤祥子。

 その名前は、恵子にとって“ニュースの中の被害者名”ではなかった。


 毎朝、堺東駅で少し言葉を交わす人。

 新商品のサンドイッチを勧めた人。

 「この前の、おいしかったですよ」と笑ってくれた人。

 親の送迎で車を出すと話していた人。

 自分にとって、大切なお客さんだった。


 その命を奪ったかもしれないのが、自分の夫。


 恵子の膝から力が抜けた。


 その場に、崩れ落ちる。


「お母さん!?」


 美月が立ち上がる。

 翔太も顔色を変える。


 恵子は床に片手をついたまま、呼吸がうまくできなかった。

 頭の中で、駅のコンビニの光景が次々に浮かぶ。


「また買ってな」

「この前のサンド、おいしかったです」

「帰りに寄ります」

「車って、やっぱり気ぃ使いますね」


 あの笑顔。

 あの声。

 あの人が、もう死んだ。

 しかも、その理由が、夫の怒りだったかもしれない。


「うそ……」


 やっと出た声は、震えていた。


「うそやろ……」


 だが、ラジオは感情なく事実だけを繰り返す。


 恵子は両手で顔を覆った。

 涙より先に、吐き気に近いものがこみ上げる。

 悲しい。

 怖い。

 信じたくない。

 でも何より先に胸を貫いたのは、耐えがたい罪悪感だった。


 止められなかった。

 気づいていたのに。

 危ないと思っていたのに。

 あの高速の時も、あのニュースの時も、子どもたちの警告の時も、

 もっと強く言っていたら何か変わったのではないか。

 そんな考えが、一気に押し寄せる。


「私……」


 それ以上、言葉にならなかった。



 美月は、母の前にしゃがみこんだ。


「お母さん」


 だが、何を言えばいいのかわからない。


 翔太も固まっている。

 “お父さんが事故に遭った”ではなく、

 “お父さんが誰かを死なせたかもしれない”へと、世界の意味が変わってしまった。


 しかもその相手は、母が知っていた人。

 日常の中にいた人。

 駅ですれ違って、笑って、言葉を交わしていた人。


 その近さが、子どもたちにもじわじわ伝わり始める。


「……あの、駅の人?」


 翔太がか細い声で聞く。


 恵子は、顔を覆ったまま小さくうなずいた。


 その動きだけで、全部わかってしまった。


 美月は唇を噛みしめた。

 数日前、自分は父に言ったのだ。


「お父さん、いつかそんなこと言ってたら、事故を起こすよ」


 あれは、冗談でも、大げさでもなかった。

 それなのに止まらなかった。

 もう取り返しがつかないところまで行ってしまった。



 佐藤家では、その頃、警察から聞かされた“ただの事故ではなかった”という現実が、ようやく家族の中で言葉になり始めていた。


 結菜は泣きながら繰り返す。


「止められたって、何……」

「なんでそんなことされるん……」


 恒一は壁を見たまま、低く言った。


「お母さん、怖かったやろな」


 その一言で、部屋の空気がまた壊れた。


 幸弘は顔を覆った。

 祥子が最後に見たもの。

 前を塞ぐ車。

 怒鳴り声。

 逃げ場のない左カーブ。

 警察へ通報しようとした瞬間。

 そこまで想像しただけで、呼吸が苦しくなる。


 陽菜はまだ、死と事故と煽り運転の全部がひとつには結びついていない。

 ただ、父も兄も姉も泣いている。

 お母さんは起きない。

 もう帰らないらしい。

 その断片だけが、幼い頭の中でぶつかっている。


「お母さん、痛かったん」


 その問いに、幸弘は答えられなかった。



 夜は、どの場所でももう元の夜ではなかった。


 佐藤家にとっては、

 母と妻を失った夜であり、

 しかもその死が、見知らぬ他人の一瞬の怒りによって引き起こされたと知る夜だった。


 下田家にとっては、

 夫と父が“事故に巻き込まれた人”ではなく、

 “人の命を奪ったかもしれない人”へ変わる夜だった。


 そして恵子にとっては、

 毎朝言葉を交わしていた大切なお客さんの命を、

 自分の夫が奪ったと知る夜だった。


 その事実は、

 悲しみだけでは受け止めきれない。

 怒りだけでも足りない。

 後悔だけでも収まらない。


 あまりに重く、あまりに遅すぎた。



 ニュースは何度も同じ映像を流す。


 赤色灯。

 規制線。

 潰れた車。

 そして、

 煽り運転による危険運転の可能性が高い、という警察の見解。


 だが、そのテロップの向こう側には、

 台所で味噌汁を作っていた人がいて、

 駅で笑い合っていた人がいて、

 「気をつけてな」と家族を送り出した人がいた。


 名前が報じられた瞬間から、

 その人は“事故の被害者”という言葉の中に押し込められていく。

 けれど本当は、

 家に帰る途中だったただの母であり、妻であり、娘だった。


 その当たり前を奪ったのが、

 誰かの「俺の前に入りやがって」という怒りだった。


 それを知ってしまった夜は、

 どこまでも静かで、

 どこまでも壊れていた。

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