帰らない人
第12話 帰らない人
病院の夜は、妙に明るい。
白い壁。
白い床。
白い照明。
時間の感覚だけが、そこから切り離されていくような明るさだった。
救急搬送口の前に、佐藤幸弘は立っていた。
その横には恒一、結菜、陽菜。
四人とも、家を飛び出してきた時のままの格好だった。
誰も上着をきちんと整えていない。
結菜の髪は半分ほどけていて、陽菜の靴下は左右で少し高さが違っていた。
そんな細かいことに気づく余裕もなかった。
「まだ、やんな」
結菜が小さく言った。
幸弘は答えられなかった。
“まだ大丈夫かもしれない”
その言葉を、自分の口から出したら、逆に崩れてしまいそうだった。
だから、ただ前を見ていた。
自動ドアが開くたびに顔を上げ、閉まるたびにまた落とす。
救急のストレッチャーが通るたび、祥子ではないかと息を止める。
恒一はスマートフォンを強く握りしめていた。
画面には、つい数時間前に母から来たメッセージが残っている。
「気をつけて帰り」
それだけ。
いつものように短い、母親の言葉。
それが、今になっては現実に触れる最後の文字みたいに見える。
陽菜は状況をまだ理解し切れていなかった。
泣いてはいない。
ただ、不安そうに父と姉と兄の顔を順番に見上げている。
「お母さん、どこ?」
その問いに、誰もすぐ答えられない。
幸弘はようやく言った。
「……今、先生らが診てくれてる」
それは嘘ではなかった。
でも、希望に近い響きを持たせてしまった自分に、胸の奥が痛んだ。
処置室の奥では、医療スタッフが最後まで手を尽くしていた。
だが、傷はあまりにも深かった。
運転席側を激しく圧迫された外傷。
出血。
内臓損傷。
挟まれていた時間。
搬送された時点で、状況は極めて厳しかった。
それでも医師たちは、止まってはくれない心電図の波形に向き合い続けた。
数字。
反応。
処置。
呼びかけ。
確認。
だが、運ばれて一時間後。
当直医は時計を見たあと、静かに告げた。
「……死亡確認します」
その場にいた看護師の誰も、余計な言葉は発しなかった。
動きだけが、一段静かになる。
さっきまで“患者”だった人が、別の呼び方へ変わる瞬間。
病院では、それがあまりにも静かに訪れる。
しばらくして、幸弘たちは小さな部屋へ通された。
白い壁。
小さな机。
向かい合う椅子。
病院の説明室は、悲しいことを伝えるためだけに作られた場所みたいだった。
医師が入ってくる。
その顔を見た瞬間、幸弘はもう何かを悟ってしまった。
医師は椅子に座らず、立ったまま、まず深く頭を下げた。
「……奥さまですが」
その先の言葉を、幸弘は半分も聞けなかった。
「搬送後、すぐに処置を行いましたが」
「損傷が非常に大きく」
「できる限りのことはしましたが」
「残念ながら――」
頭の中で、言葉がきれいに並ばない。
意味だけが、遅れて胸の奥に落ちてくる。
結菜が、はっとしたように息を吸った。
恒一は顔を上げたまま固まっている。
陽菜だけが、医師の言葉の本当の意味にまだ届いていない。
「……え?」
結菜の声は、かすれていた。
「え、でも……さっき……」
幸弘も、言葉にならないまま口を開いた。
「今朝……」
その続きを、誰も言えなかった。
今朝までいた。
朝ごはんを作っていた。
弁当を詰めていた。
「気をつけてな」と言っていた。
ガソリンを入れるって、ただそれだけの予定だった。
その人が、もういない。
頭では意味がわかっても、身体がそれを拒む。
そんな時間が、部屋の中に重く沈んだ。
そのあと、看護師に案内されて対面の部屋へ向かった。
廊下を歩く足音だけがやけに響く。
陽菜は結菜の手を握り、結菜はその手を握り返している。
恒一は一歩後ろを歩き、幸弘はまっすぐ前だけを見ていた。
部屋の中には、ストレッチャーがあった。
白いシーツ。
静かな空気。
もう処置の音はない。
そこに横たわっていたのは、女性だった。
最初、幸弘は“祥子ではない”と思おうとした。
そう思わないと立っていられなかった。
けれど、顔だった。
間違いなく祥子の顔だった。
そして、朝着て出ていった服だった。
その瞬間、否定の逃げ場が消えた。
「……うそやろ」
幸弘の口から、やっとこぼれたのはそれだけだった。
近づいても、祥子は起きない。
名前を呼んでも、返事はない。
ほんの数時間前まで動いていた人の顔なのに、もうそこには“帰ってくる人”の気配がなかった。
結菜が声にならない息を漏らし、その場に崩れるようにしゃがみこんだ。
「いや……いやや……」
それだけを繰り返す。
言葉が先へ進まない。
恒一はずっと立ったままだった。
顔色が真っ白で、目だけが開いている。
泣くことすら、まだできない。
目の前の現実が、脳の中に入るのを拒まれているみたいだった。
「……お母さん?」
陽菜が小さく呼ぶ。
返事がない。
もう一度呼ぶ。
「お母さん」
それでも返ってこない。
陽菜はようやく、何かがおかしいとわかったのか、姉のほうを見て、それから父を見る。
「なんで寝てるん」
誰も答えられない。
「なんで起きへんの」
その問いは、部屋の中の誰よりもまっすぐで、残酷だった。
幸弘はストレッチャーのそばへ行き、震える手で祥子の頬に触れた。
冷たさがあった。
病院の空気のせいではない冷たさ。
それで、ようやく身体のほうが理解した。
帰ってこない。
この人は、もう帰ってこない。
幸弘の膝から力が抜けた。
声にはならない音だけが喉から漏れる。
泣いているのか、呼吸なのか、自分でもわからないような音だった。
佐藤家の四人にとって、その時間は現実ではなかった。
いや、現実なのに、現実として飲み込めない時間だった。
今朝のやりとりがまだ身体に残っている。
台所の匂い。
玄関の声。
「気をつけてな」という言葉。
結菜の絵の具。
陽菜の連絡帳。
恒一の進路プリント。
全部が数時間前まで続いていたのに、
ストレッチャーの上の女性は、その続きを持っていない。
朝着ていた服。
見慣れた顔。
間違いようのない母親。
それが逆に、現実を鋭くした。
別人なら、まだどこかで否定できたかもしれない。
でも、顔だった。
服だった。
母だった。
その頃、下田家では、まだ空気が少し違っていた。
病院から連絡を受け、恵子と子どもたちは駆けつけていたが、孝介については**「事故に巻き込まれた」**という認識がまだ強かった。
両足骨折。
重傷。
だが命に別状はないらしい。
恵子の頭の中でも、まだ“被害に遭った側”の輪郭が完全には崩れていなかった。
「お父さん、痛いやろな」
翔太が言う。
「……うん」
恵子は曖昧に答える。
数日前の高速道路のこと。
ニュースを見ながらのあの言葉。
子どもたちの警告。
全部が胸の中にある。
それでも今は、まだ事故の全体が見えていない。
まさか、夫自身が前方で車を止め、怒鳴りながら詰め寄り、その結果として別の家族の人生を壊したとは、まだ知らない。
美月だけは、どこか落ち着かない目をしていた。
父は本当に“巻き込まれただけ”なのだろうか。
その疑いを言葉にはできない。
だが、心の奥に小さく刺さったまま抜けない。
警察はその夜も、現場と病院とで慌ただしく動いていた。
ドラレコ映像の保全。
目撃証言の整理。
ダンプ運転手からの聴取。
孝介の車の停止位置の確認。
急停止の痕跡。
窓を叩いたという証言。
怒鳴り声。
単なる追突事故として処理するには、あまりにも不自然な点が多すぎた。
そして、病院で死亡確認されたことで、事故は一気に別の重さを持ち始める。
被害者の名前。
加害の可能性。
死亡事故。
危険運転か、過失か。
そこから先の言葉は、まだ家族の耳には届いていない。
だが警察の中では、すでに次の段階へ入ろうとしていた。
夜は更けていく。
佐藤家の四人は、もう元の形には戻れない場所へ立っていた。
それでも心はまだ追いつかない。
現実だけが先へ行く。
今朝までいた人が、
夕方には事故に遭い、
一時間後には死亡が確認され、
今はストレッチャーの上にいる。
そんなことを、人の心はすぐには受け止められない。
ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
祥子は、もう帰らない。
その言葉だけが、
まだ口に出されないまま、
部屋の空気の中に重く沈んでいた。




