地下 50 階、格上の捕食者たち:【4】神威同化
アレンの心臓が、ついに完全に機能を失った。
すべてが終わり、深い暗闇の底へと完全に沈んだはずのアレンの意識に、なぜかその声が響いた。
『――マスター・アレンの生命活動、停止を確認』
それは、彼の世界の終焉を告げるイヴの声だった。
けれど、それは、今までのイヴの声ではなかった。
無機質で、冷たくて――
それでいて、この世界のどこよりも深い場所から響いてくるような、底知れない声。
『マスター権限、失効』
『……上位権限による、封印領域の強制展開を承認』
『隠しプロトコル――【神威同化】、執行します』
その瞬間。
世界が、ぴたりと息を止めた。
アレンの懐で、六角形のデバイスが、蒼く燃え上がった。
スライムの鼓動と同じ周期で、赤く脈打っていた、あの光も――
ドクン………。
………………
脈動が、止まった。
そして、すべての時空が止まった。
一本の回廊だけではない。
上の階層も。
下の階層も。
地下深く、まだ誰も知らない最深部に至るまで――
この世に存在する全てが、一斉に
永遠の刹那へと閉じ込められていく。
まるで、千年の眠りから覚めた主の前に、世界そのものが、ひれ伏すかのように。
『時空座標、固定』
『対象肉体の時間軸を、損傷前へ――巻き戻します』
ドクンッ!!!!!
止まっていたアレンの心臓が、跳ね上がった。
胸に空いた穴が、塞がっていく。
砕けた肋骨が、音もなく元の位置へと戻っていく。
酸に焼けた両腕の皮膚が、爛れた足首が、裂けた頬が――
まるで、時間を逆再生しているかのように。
床に広がっていた血だまりまでもが、するすると床を這い戻り、傷口の中へと吸い込まれていく。
治っているのではない。
「傷を負う前」へと、世界が書き戻されているのだ。
アレンの瞳が、ゆっくりと見開かれた。
その瞳に宿っていたのは、
深く、冷たく、底の見えない――
蒼。
人の瞳ではない。
時の彼方から、世界を見下ろす者の瞳だった。
アレンは、立ち上がった。
「――これより、害敵の排除を開始します」
それは、アレンの声とイヴの声が重なった二重の声だった。
見渡す限り、何もかもが止まっていた。
撃ち出されたまま、宙で止まった刃の腕。
飛び散ったまま、浮かんでいる酸の雫。
床に届く寸前で止まった、ルカの涙の粒。
音も、風も、光の揺らぎさえも。
その静寂の中を、アレン(イヴ)だけが、歩いた。
一歩。
また一歩。
止まった刃の腕の間を、何の抵抗もなくすり抜けて。
止まった酸の雫を、そっと避けて。
スライムの前に、立つ。
アレン(イヴ)は、ただ、
スライムの中心に浮かぶ、赤いコアへ、
右手を伸ばし――人差し指を、そっと触れさせた。
まるで、壊れやすい硝子に触れるように。
アレン(イヴ)の口から漏れた小さな声。
「――時空崩壊」
二重の声が紡がれた瞬間。
ひびが、走った。
アレン(イヴ)の指先が触れた、その一点から――
音もなく。
一本。
また一本。
コアの表面から、スライムの巨体へ。
巨体から、空間そのものへ。
何もないはずの虚空に、硝子のようなひびが、静かに、静かに広がっていく。
そして、そのひびの隙間から――
溢れ出した。
光でも、水でもない。
それは、時間だった。
止められていた一秒が。
流れるはずだった一分が。
この静止した世界から奪われていた、ありとあらゆる「時」が、ひび割れた時空の向こうから、音もなく溢れ出してくる。
凍りついた世界へ、時間が、流れ込んでいく。
その奔流は、ただ一つのものへと向かっていた。
スライムの巨体へ。
音もなく。
小山ほどもあった巨体が、流れ込む時間に押し包まれ、内側へと沈み始めた。
刃の腕が、縮む。
取り込まれていた歯車が、黒鉄の刃が、骨組みが、流体ごと、中心へと引き寄せられていく。
潰れるのではない。
空間そのものが、スライムを抱いたまま、折り畳まれていくのだ。
小山が、牛ほどに。
牛が、人ほどに。
人が、拳ほどに。
拳が、指先ほどに。
抵抗は、なかった。
悲鳴も、なかった。
この止まった世界では、そのどちらも、許されていなかった。
やがて――
アレン(イヴ)の指先に、ただ一粒の、赤い光だけが残った。
スライムという存在のすべてが、そこに凝縮されていた。
ひびが、閉じる。
世界の時間が、ほどける。
光が戻り、音が戻り、止まっていた酸の雫が、ぱしゃりと床に落ちた。
ルカの涙が、ようやく床に届いた。
回廊には、もう何もいなかった。
刃も、歯車も、酸の一滴さえも。
ただ、アレン(イヴ)の指先で、小さな赤い光が、静かに脈打っているだけだった。
ドクン。
――同じ瞬間。
遥か地上。
焼け落ちた開拓村エミールを見下ろす、あの高台で。
苔むした巨大な歯車が、ギ……と軋み、
ほんの一目盛りだけ――
回った。
「……ハッ!? が、はっ……げほっ、げほっ……!!」
アレンの瞳から、蒼が消えた。
いつもの茶色い瞳が戻ると同時に、身体の感覚が一気に押し寄せてくる。
膝から崩れ落ち、アレンは激しく咳き込んだ。
「今……俺……何を……」
覚えている。
指先で触れた感触も。
止まった世界も。
なのに、それをやったのが「自分だった」という実感だけが、どこにもない。
『……コアエネルギーの残滓を検知。吸収を実行します』
弱々しいイヴの声と共に、赤い一粒が、光の糸となってアレンの胸へと吸い込まれた。
ちょうど、触手に貫かれた場所へ。
熱い何かが、血管を巡っていく。
疲れ切った筋肉に、骨に、じわりと力が染み渡る。
さっきまでの自分より、ほんの少しだけ――身体が、軽い。
「アレン……アレン……っ!!」
ルカが、アレンの身体にしがみついてきた。
「生きてる……生きてるんだよね……っ!? よかった……よかったぁ……っ!!」
泣きじゃくるルカの背中を、アレンはそっと抱きしめ返した。
「……あぁ。生きてる。お前のおかげだ、ルカ」
「僕は……何も……っ」
「お前が、最後の魔力で道を開いてくれた。だから、俺はまだここにいる」
ルカは答えられず、ただ、アレンの肩に顔を埋めて泣き続けた。
その時、アレンは気づいた。
胸の、ちょうど触手に貫かれた場所。
傷一つなく巻き戻されたはずのその皮膚に、小さな、黒い結晶の痣が浮かんでいた。
まるで、ひび割れた時間の欠片が、肌の奥に刺さったかのように。
「……イヴ。これは?」
『……解析、不能』
イヴの声は、今にも消えそうなほど、か細かった。
『マスター。私の全出力の99.9%は、先ほどの現象によって喪失しました』
『……そして、私は』
イヴの声が、ほんの一瞬、途切れた。
『先ほど実行されたプロトコルについて――何の記録も、保持していません』
アレンは、言葉を失った。
あの力を使ったのは、イヴのはずだ。
なのに、イヴ自身が、それを知らない。
じゃあ、あの時、自分の身体を動かしていたのは――
『私の機能を修復するには、魔獣のコアエネルギーが必要です』
『この遺跡を登り、魔獣を狩り、そのコアを取り込んでください』
『……それが、マスターが地上へ還るための、唯一の道です』
アレンは、自分の右手を見つめた。
さっき、あの赤いコアに触れた指先。
世界を止めた、指先。
その手を、ぎゅっと握りしめる。
今の自分には、あの力は使えない。
それでも――あの力が、確かにこの手の中を通り過ぎていったことだけは、分かる。
アレンは、床に転がっていた鉄パイプを拾い上げた。
溶けて、歪んで、ぼろぼろになった、ただの鉄の棒。
それでも、今の自分の、唯一の牙だった。
「ルカ」
「……うん」
「行こう。上へ」
ルカは涙を袖でごしごしと拭い、転がっていた杖を拾い上げた。
そして、小さな拳を、アレンへと突き出した。
「……うん。今度は、僕がもっと強くなる。アレンに、あんな思い、二度とさせない」
アレンも、拳を突き出す。
こつん、と。
二つの拳が、静かに重なった。
赤い脈動から解き放たれた回廊の結晶が、元の淡い光を取り戻していく。
その先に、上層へと続く道が、どこまでも伸びていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
前回、牙が届かずに倒れたアレン。今回は、その先の一瞬を書きました。
この回は、何度も書き直しました。
世界が息を止め、すべてが止まった中を、ただ一人だけが歩いていく。頭の中にははっきり光景があるのに、文字にするとどうしても届かない。削っては足し、足しては削り、ようやく今の形に落ち着きました。
個人的に一番好きなのは、床に届く寸前で止まったルカの涙です。そして時間が戻ったとき、その涙がようやく床に落ちる。あの一粒のために、この回を書いたのかもしれません。
戦いのあと、ぼろぼろの鉄パイプをもう一度拾い上げるアレンと、拳を突き出すルカ。
二人で上を目指す。そこで、ひと区切りです。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
お手数ですが、☆での率直な評価をいただけると、今後の執筆の参考になります。どうぞよろしくお願いいたします。




