教会の影
白い装束の裾が、風に揺れていた。
見覚えのある回廊だった。高い天井、磨かれた石の床、等間隔に並ぶ柱の影。聖典教団の本院。ティリアが十年を過ごした場所。窓から差し込む朝の光が柱の隙間を金色に切り分けて、埃が光の中をゆっくりと泳いでいる。
回廊の先に、人影が立っていた。
銀髪を後ろに撫でつけた痩身の紳士。白と金の聖職者衣装が朝日を受けて眩い。目尻を細め、唇の端だけを持ち上げた笑み。慈愛に満ちた目。その人が振り返り、幼いティリアの手を取って言った。
「あの子は適性があります」
声は柔らかかった。春の日差しのように温かく、聞く者の不安を溶かしてしまう種類の声だった。
「神に選ばれた子ですよ。大切に育てましょう」
セファ司祭。幼いティリアの手を包む指は細く、乾いていて、体温がなかった。
* * *
目を開けた。
天井に光苔の青白い光が揺れている。花弁の匂いが鼻をくすぐり、石畳の冷気が背中に沁みた。夢だった。記憶の底から浮き上がってきた、古い夢。
ティリアは寝台の上で手のひらを見た。セファに手を取られた感覚が、まだ指先に残っている。乾いた、温度のない指の感触。あれは何歳の頃だったか。六つか、七つ。エーデルシュタインの家が取り潰された翌年。泣き腫らした目で教団の門をくぐったとき、最初に手を差し伸べてくれた人。
優しかった。穏やかで、声を荒らげたことは一度もなく、ティリアが祈りの作法を間違えても微笑んで正してくれた。聖女候補の訓練は厳しかったが、セファだけはいつも同じ顔で、同じ声で、「あなたは神に愛されている」と言い続けた。
今思えば、あの言葉の意味が変わり始めている。
祈りが迷宮に届く。封印が緩む。ゼノが保たなくなる。昨夜の言葉の断片が、頭の中で組み替わっていく。教団がティリアを聖女候補として育てた。祈りの技法を叩き込み、祝福の力を伸ばし、「最も優れた候補」として磨き上げた。その力が迷宮の封印に干渉するのだとしたら。教団は、それを知っていたのではないか。
セファは、知っていたのではないか。
指を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みで、思考の渦を断ち切った。まだ何もわからない。憶測だけで、育ててくれた人を疑うべきではない。
それでも、夢の中のセファの微笑が、目の裸から消えなかった。
* * *
通路から足音がした。足音ではない。甲殻が壁を擦る微かな音と、外套の布が石に触れる衣擦れ。ゼノの気配。光苔の光がわずかに明るくなり、ティリアが入口に目を向けると、すでに気配は部屋の隅に移っていた。
石畳の上に、花が置かれていた。
薄い紫色の花弁が五枚。茎は短く切り揃えられ、光苔の傍に載せてある。昨日まではなかった花だった。部屋の壁際に咲く光花とは種類が違う。もっと深い層から持ってきたものだろう。花弁に光苔の光が透けて、淡い紫が青みを帯びている。
ゼノの背中が通路に消えかけていた。蜘蛛脚は収納されている。外套の背が不自然に膨らんでいるだけで、遠目には痩せた青年の後ろ姿でしかない。
「ありがとうございます」
声をかけた。大きすぎず、小さすぎず。通路に届く程度の声で。
ゼノの歩みが止まった。
一拍。蜘蛛脚が外套の下で身じろぎする気配。振り返りはしなかった。だが足がそこに留まっていた。半呼吸、一呼吸。外套の裾を掴む人間の手の指が、握って、開いて、また握った。それからようやく、思い出したように歩き出す。足取りが行きより遅い。通路の角を曲がる直前、肩が半分だけこちらを向きかけて——止まった。甲殻が壁を掠める音が遠ざかり、通路の暗がりに吸い込まれていく。
ティリアは花を手に取った。茎に触れた指先がかすかに震えた。昨夜、至近距離で見た顔が蘇る。削がれた頬の線、飢えに灼かれて色を失った唇。あの顔が花を選んで、茎を切り揃えて、眠る自分の傍にそっと置いた。その場面を想像しただけで、胸の奥が軋んだ。
花弁に鼻を近づけると、甘さの中に仄かな苦みが混じる匂いがした。地上にはない匂いだった。この迷宮だけに咲くものの、この迷宮だけの芳香。
昨夜、あれほどの形相で「二度と祈るな」と言った人が、翌朝には黙って花を置いていく。怒りも告白も、何事もなかったかのように。その不器用さに胸が詰まった。何も問わずに花だけを残すことが、この人の精一杯なのだと思った。
* * *
「ゼノはね、ずっと一人だったんだよ」
ルカが花の傍に座り込んで、足をぶらぶらさせていた。いつの間に現れたのか、壁から半分だけ身体を出した姿勢で、紫の花弁を指先でつついている。
「ぼくが来る前も、来た後も」
ティリアは水差しの水を花の根元にかけながら、ルカの言葉を待った。
「ぼくがいても、一人なの。ぼくは話し相手にはなるけど、ぼくじゃだめなんだ。ぼくは——ぼくだから」
ルカの声に翳りはなかった。寂しいとも悲しいとも言っていない。ただ事実を並べるように、淡々と。それがかえって、言葉の重さを際立たせていた。
「ルカは、ゼノのことが好きですか?」
「うん。好きだよ。でもゼノは、ぼくのことを見ると痛いみたい」
ルカは首を傾げた。いつもの仕草だったが、緑の瞳はどこか遠くを見ていた。
「ねえティリア。この迷宮が何を封じてるか、知りたい?」
ティリアの手が止まった。水差しの水が石畳に零れ、小さな水たまりを作った。
「ぼくにもよくわかんないんだけど」とルカは続けた。「迷宮の奥のほうに、すごく大きな何かがいるの。寝てるの。ずっと。ゼノはそれが起きないように、ここにいるんだよ」
「……ゼノが、封じているのですか」
「ゼノと迷宮は、えっと——」
ルカは口を開きかけて、眉を寄せた。言葉を探しているようだった。指が空中で何かの形をなぞり、すぐにほどける。
「うまく言えない。ぼくには見えるんだけど、言葉にすると違うものになっちゃう」
ルカは壁に手を当てた。石の表面が淡く光り、ルカの指先が石に沈みかける。
「ぼくも怖い。あれが起きたら、ゼノが——」
ルカの手が止まった。石の光が消え、緑の瞳が一瞬、大人びた色を帯びた。何かを言おうとして、喉の奥で音が潰れた。首を横に振る。赤毛が揺れた。
壁に身体を沈めながら、ルカが最後に言った。
「でもね、ティリアが来てから、迷宮の音が変わったよ。前よりちょっとだけ、静かになった」
赤毛の先端が石に消えた。ティリアは濡れた石畳を見つめたまま、動けなかった。
迷宮の奥に、大きな何かが眠っている。ゼノはそれが起きないように、ここにいる。ルカが言いかけて飲み込んだ言葉が、昨夜のゼノの断片とつながろうとしている。封印が——。俺が——保たなくなる。全体の形はまだ見えない。けれど、ゼノがどれほどのものを一人で抱えているか、その輪郭だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
紫の花弁が光苔の光を受けて、かすかに揺れた。
* * *
金色の光が、ステンドグラスを透かして聖堂の床に模様を描いていた。
赤、青、緑、金。硝子片が切り取る光の色が、白大理石の床面に幾何学的な紋様を落としている。天井は高く、柱は細く、すべてが上へ、天へと伸びるように設計された空間だった。香炉から立ちのぼる白檀の煙が光の帯を横切り、空気に甘い重さを加えている。
聖典教団本院大聖堂。神の座に最も近い場所。
セファ・ローレンティスは祭壇の前に立ち、跪く騎士の報告を聞いていた。白と金の聖職者衣装の裾が床の光紋に重なり、銀髪が硝子越しの陽光を柔らかく弾いている。
「——以上が、迷宮周辺の観測結果でございます。封印反応の異常値は、ここ七日間で三度計測されました」
「三度」
セファは復唱した。声は穏やかだった。数を確認しただけの、何の感情もこもらない反復。傍らに控える若き騎士——金髪を短く整えた碧眼の青年、ガルド——が微かに顎を引いた。
「頻度が上がっておりますな」
セファの唇に笑みが浮かんだ。微笑というよりは、計算が合ったことを確認する学者の表情に近い。
「予定通りですよ」
報告を終えた騎士が顔を上げた。
「枢機聖。それでは、封印の強化措置を——」
「いいえ」
セファは静かに遮った。声を荒らげてはいない。香炉の煙と同じ速度で、言葉が聖堂の空気に溶けていく。
「封印は弱まるべくして弱まっています。番人の力が限界に近い。四年間、補充なしに封印を維持し続けた代償ですよ。予見されていたことです」
祭壇の上に広げられた羊皮紙に視線を落とした。迷宮の構造図。古い墨で描かれた層構造の断面が、金色の光の中で影を帯びている。
「封印鍵の回収に移りましょう」
ガルドの肩が動いた。承諾とも緊張ともつかない、微かな身じろぎ。
「ガルド」
「はい」
短い返答だった。低く、太い声。それ以上の言葉は求められていないことを知っている者の応え方だった。
「回収隊の編成を。精鋭で構いません。数は要らない。迷宮に入れるのは、限られた者だけですから」
「承知いたしました」
セファは羊皮紙の上に指を滑らせた。薄い指先が迷宮の最深部——第8層の番人の居城を示す区画の上で止まる。
「あの子を送り出してから、もう二十日ですか」
独り言のように呟いた。声の温度は変わらない。ティリアの名は口にしなかった。「あの子」と呼んだ。十年育てた娘を指すにしては、あまりにも軽い代名詞だった。
「番人が喰えば、封印は安定する。喰わなければ、封印は崩れる。どちらに転んでも、私たちが動く理由になる」
セファは羊皮紙を巻いた。ゆっくりと、皺がよらないように丁寧に。指先が一瞬止まった。あの子が泣き腫らした目で門をくぐった日の顔が、不意に浮かんだ。六つの手を取ったとき、この手はまだ温かかっただろうか。——もう思い出せない。封印が崩れれば、迷宮の底のものが大陸を呑む。一人の犠牲と、百万の命。計算は十年前に終えている。
聖堂の金色の光が、その指先を照らしている。迷宮の青白い光とは正反対の、温かく、清潔で、何の陰りもない光。
巻き終えた羊皮紙を祭壇に置き、セファは聖堂の奥を見上げた。ステンドグラスの最上部に描かれた女神アストレイアの像。慈悲の手を差し伸べる姿が、金色の光に包まれている。
セファの微笑みは、その女神の顔とよく似ていた。
「ノクス」
名前を呼んだ。ここにはいない者の名を。かつて教会の孤児院で管理番号の代わりに与えた名を。穏やかに、諭すように。
「あなたもそろそろ、役目の終わりを受け入れなさい」
聖堂に反響した声が消え、白檀の香りだけが残った。ガルドが一歩退き、騎士たちが頭を垂れたまま動かない。金色の光の中で、セファの銀髪だけが微かに揺れていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回「光の騎士」
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