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祈りの共鳴

 手を合わせた。


 花の部屋の片隅、壁に背を預けて膝を折り、ティリアは両手の指を組んだ。聖典教団の祈りの作法では、手を胸の前で重ね、額を下げ、定められた祈祷文を唱える。神の名を呼び、恩寵を請い、己の罪を数え上げる。十年間、毎朝と毎晩、欠かしたことはなかった。


 今、唇から出たのはそのどれでもなかった。


「この場所にいた人たちが、安らかでありますように」


 自分の声だった。定型の韻律も、教典の語句もない。寝台の裏に文字を刻んだ子供。人形を握りしめて眠った誰か。枕の下に衣服の端切れを隠した小さな手。その子たちのことを思い浮かべて、ただそれだけを願った。


 指の間に、熱が灯った。


 光苔が動いた。壁面の青白い光が色を変えた。青から白へ、白から淡い黄へ、そして金色に。壁一面が一斉に金色の光を放っている。以前、壁に手を触れたときに起きた明滅とは規模が違った。あのときは手のひらの周囲だけが反応した。今は部屋全体が、天井も床も通路の奥まで、金色に染まっている。


 足裏から震えが伝わってきた。石畳の奥、迷宮そのものが低く振動している。壁の花弁が揺れ、水差しの水面に細かな波紋が広がった。空気が変わった。冷たく湿っていた迷宮の空気が、春の陽の下に出たように温み、ティリアの頬を撫でた。


 自分がしたことなのか、わからなかった。組んだ指を見下ろす。光はない。自分の手は何も発していない。それでも、壁も天井も金色に脈打ち続けている。


* * *


 甲殻が石を砕く音がした。


 通路の奥からではない。頭上から。天井の暗がりが裂けるように動き、黒い影が花の部屋に降り立った。


 ゼノだった。


 蜘蛛脚が四本、完全に展開されている。外套の布を突き破り、黒い甲殻が金色の光を鋭く弾いていた。関節の赤錆びた色が、金色の中でひときわ目を引く。着地の衝撃で石畳にひびが走り、蜘蛛脚の先端が床に食い込んだ。


「二度と祈るな」


 声は低く、硬かった。命令でも警告でもない。喉の奥から絞り出された、切迫した音。鬱金色の瞳が大きく見開かれ、瞳孔が縦に裂けている。


 ゼノが一歩を踏み出した。壁に黒い脚が突き刺さり、体を前に引き寄せる。もう一歩。ティリアの背が壁に当たった。退がる場所がない。金色の光の中で、ゼノの顔が間近に迫った。


 初めて、その顔の造りを見た。


 整っていた。線が鋭く、頬骨から顎にかけての輪郭は刃物で削ったように無駄がない。だがその造形を裏切るように、肌は蒼白で、目の下に深い影が落ちている。唇は薄く、色がない。飢えた者の顔だと思った。美しいのではなく、削がれているのだ。人間だった頃の面影が、飢えと迷宮に削られて、骨の形だけが残っている。


 蜘蛛脚の一本がティリアの頭の横の壁に突き立った。甲殻が石灰岩を抉る音が耳元で鳴り、砕けた石の粉が頬にかかった。


 ティリアは目を逸らさなかった。


「なぜですか」


 声は震えていた。震えていたが、途切れなかった。


 ゼノの瞳孔がさらに細くなった。歯を食いしばる音が聞こえた。顎の筋が浮き、喉仏が上下する。言葉を飲み込もうとしている。壁に突き立てた蜘蛛脚が軋み、新しい亀裂が壁を走った。


「……お前の祈りは」


 途切れた。息を吸う音。蜘蛛脚の関節がかちりと鳴った。


「この迷宮に、届く」


 声が掠れていた。使い慣れない言葉を一つずつ口から剥がしているような話し方だった。


「それがどういう意味か、わかるか」


 ティリアにはわからなかった。祈りが迷宮に届く。壁が金色に光ったことと関係があるのは見当がつく。だがそれが、なぜこれほどゼノを追い詰めるのか。


「わかりません。教えてください」


 ゼノの顔が歪んだ。表情と呼べるものがその顔に浮かぶのを、ティリアは初めて見た。眉が寄り、唇が引き結ばれ、鬱金色の瞳の奥で光が揺れる。苦痛に似ていた。


「……封印が」


 ゼノの目がティリアの目を捉えた。鬱金色の瞳の中で、言葉にならないものが渦を巻いていた。長い沈黙。光苔の金色が二人の顔を同じ色に染めていた。


 言葉が止まった。喉の奥で音が潰れた。ゼノの手が壁を掴んだ。人間の手のほうだ。黒く変色した指先が石に食い込み、爪が白くなるほど力が入っている。


「俺が——保たなくなる」


 最後の言葉は、ほとんど吐息だった。ティリアに聞かせるためではなく、自分の口から零れ落ちたものを拾えなかっただけのように聞こえた。


 壁から黒い脚が引き抜かれた。石の破片が散り、粉塵が金色の光の中で舞った。ゼノが身を翻す。通路の入口で、一瞬だけ足が止まった。振り返りかけた横顔の輪郭が金色の光に浮き、すぐに背を向けた。天井の石が軋む音がして、外套が黒い翼のように広がり、通路の闇に沈んでいく。


 甲殻が壁を掠める音。遠ざかる。途中で一度、重い衝撃音がした。壁を蜘蛛脚が叩いたのだろう。それからまた、静寂。


* * *


 金色の光は、ゼノが去ってしばらくして消えた。壁面の光が金色から白へ、白から元の青白い色に戻っていく。波が引くように、部屋の端から順に色が沈んでいった。


 ティリアは壁に背をつけたまま、膝を抱えて座り込んでいた。


 封印が、何だ。保たなくなる。何が保たなくなるのか。


 手のひらを見た。組んだだけの手。光も力もない。聖女候補の訓練で祈りの技法は教わったが、石壁を光らせる力など聞いたことがない。


 自分の祈りが、ゼノの状態を悪化させている。封印が緩む。ゼノが保たなくなる。この迷宮の封印を維持しているのがゼノだとすれば——自分の祈りは、その封印を揺るがしていることになる。


 壁を見た。蜘蛛脚の痕が、新しい傷として石灰岩に刻まれている。古い爪痕の上に重なるように、新しい傷が並んでいた。


 ティリアは立ち上がり、その傷に歩み寄った。新しい爪痕の縁に触れた。砕けたばかりの鋭い肌理が指先を刺す。


 怒っているのだと、最初は思った。だが、あの声は違った。あの顔は違った。命令の形をしていたが、中身は別のものだった。


 怖がっていたのだ。


「ゼノ、ああなると止められないんだ」


 振り向いた。ルカが通路の入口に立っていた。壁から半分だけ身体を出して、赤毛が青白い光に揺れている。緑の瞳がティリアを見て、それから壁の爪痕に移った。


「でも、ティリアのことは怖がってないよ」


 ルカは通路から出て、花の部屋に入ってきた。裸足の足が石畳を踏む音はしない。


「怖いのは別のことだよ」


 ティリアはルカの顔を見た。


「別のこと?」


 ルカは首を傾げた。いつもの仕草だった。だが目は笑っていなかった。


「ぼくにはうまく言えないけど」


 ルカの視線がティリアから離れ、壁の爪痕を見上げた。古い傷と新しい傷が重なり合う壁面を、静かに。


「ゼノはずっと怖いんだよ。ティリアが来る前から。——ぼくが来る前から」


 それだけ言って、ルカは踵を返した。壁に触れ、そのまま石の中に沈んでいく。赤毛の先が最後にちらりと光を弾いて、消えた。


* * *


 部屋に一人になった。


 壁の光が青白く安定している。ゼノが去り、金色が消え、迷宮がいつもの呼吸に戻っている。花弁の甘い匂いが、微かに漂っていた。


 ティリアは壁の前に立ったまま、爪痕に手を伸ばした。新しい傷の最も深い部分——蜘蛛脚の先端が石を抉った一点に指先を当てた。


 石が、脈打っていた。


 傷の奥、砕けた石灰岩の断面の、さらに内側。微かな振動が指先に伝わってくる。規則的な律動。心臓の鼓動のような——あるいは、呼吸のような。


 壁に耳を近づけた。音はない。だが指先の振動は続いている。冷たい石の中で、何かが脈打っている。


 迷宮は——生きている。


 ティリアは指を離さなかった。脈動が指先を伝い、手首を上り、胸に届く。そんな錯覚があった。この迷宮の鼓動と、自分の鼓動が、一瞬だけ重なった気がした。その一瞬、石の奥から声にならない声が通り過ぎた。言葉ではない。形もない。ただ、ここに誰かがいた——という残響だけが、指先をかすめて消えた。


 口が動いた。


「ゼノ」


 名前を呟いた瞬間、壁の脈動が跳ねた。指先に伝わる振動が一拍だけ強くなり、光苔が金色に揺れた。ティリアの名ではない。ゼノの名に、壁が反応した。迷宮の番人の名が、石の中で特別な意味を持っているかのように。


 すぐに収まった。脈動は元のリズムに戻り、光苔は青白い色に沈んだ。だがティリアの指先には、あの一瞬の跳躍が残っていた。


 名前が——迷宮に届く。


 その意味はまだわからなかった。


お読みいただきありがとうございます。


次回「教会の影」


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