記憶の残響
壁の文字を、指でなぞる。
寝台の裏、床から手のひら二つ分の高さ。「ここにいるよ」の四文字。溝に積もっていた埃は、もうない。毎晩、眠る前にティリアがなぞるから。爪で刻まれた不揃いの線を、指の腹がたどるたびに、冷たい石灰岩の奥から微かな脈動が返ってくる。
いつの間にか、儀式だった。毛布をかぶる前に寝台のそばに膝をつき、壁に手を伸ばし、四つの文字を順にたどる。そうしないと眠れない——というほどの切迫ではない。ただ、この文字に触れずに目を閉じると、暗闇の中で誰かが待っているような気がした。
光苔が暗く沈み始める。夜の周期。ティリアは指を壁から離し、寝台に身を横たえた。
* * *
影魚を焼くのは、もう一人でできた。
壁際の青白い光が密集するあたりに、石を組んで小さな台を作ってある。光苔は触れると微かな熱を帯びる。その性質を利用して、薄く開いた影魚の干物を石の上に載せ、光苔を手で覆うようにして熱を集める。ルカが教えてくれた方法だった。
銀色の鱗が白く変わり、魚の脂が焼ける淡い匂いが立ちのぼる。生のまま齧っていた頃とは別物の、香ばしさ。焼きすぎると硬くなるから、鱗の色が変わりきる少し手前で石から下ろす。
光苔の明滅にも、意味があるのだと知った。
ゼノが近づくと、通路が淡く明るんだ。迷宮の主が通るとき、壁面の光が脈打って反応する。ゼノ自身の感情でも変わった。激しく動いた後——探索者を追い払った夜のような——は青白い明滅が落ち着かず、長く続く。穏やかなときは壁面が安定した光を帯び、色が深まる。
ティリアはその差異を観察し、記憶した。壁の光が急に揺れ始めたら、ゼノが来る。光が安定しているなら、しばらくは来ない。迷宮の呼吸を読むように、異形の気配を読む術が身についていた。
* * *
「ねえねえ、ティリア。骨の庭園って知ってる?」
ルカが寝台の端に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。赤毛が光苔の青い光を受けて、銅の色に見える。
「骨の庭園?」
「第5層にあるの。白い木がいっぱい生えてるんだけど、木じゃないんだよ。骨なの。すっごく古い骨が、地面から生えてるみたいに立ってるの」
ルカの声は弾んでいた。怖い話をしているはずなのに、遠足の報告のような口調だった。
「あそこにね、触れると光るやつがあるよ」
「光る?」
「うん。珊瑚みたいな形をしてて、手を近づけると中がぼわっと光るの。きれいだよ。でもゼノは触っちゃだめって言うんだ」
ルカは首を傾げ、自分の言葉を噛みしめるように間を置いた。
「なんでだめなのかは、わかんない」
珊瑚のような形。触れると光る。ティリアはその情報を心に留めた。迷宮の深い層には、まだ知らないものがある。ゼノが禁じるものには、必ず理由がある。
* * *
ルカが壁を抜けて去った後、ティリアは寝台を調べた。
人形を見つけたのは寝台の足元だった。文字を見つけたのは寝台の裏の壁。この寝台に眠っていた子供が残したものが、まだあるかもしれない。
毛布を剥がし、敷布を持ち上げた。寝台は石の台座に薄い藁の敷物を重ねた簡素な造りで、台座の縁に手をかけて傾けることはできなかった。代わりに枕を持ち上げた。
石の台座と枕のあいだに、何かが挟まっていた。
布切れだった。指先でつまみ出すと、掌に収まるほどの小さな端切れ。色は褪せて、元が何色だったのか判然としない。薄い灰色にも、かつて青だったものが退色したようにも見える。繊維は粗く、ところどころほつれて糸が飛び出している。子供の衣服の袖口か裾を、引きちぎったような形。
鼻に近づけた。埃と石の匂いしかしない。時間が匂いごと奪い去った後の、乾いた沈黙。
ティリアは布切れを両手で包んだ。人形と同じだ。この寝台で眠っていた子供のもの。自分の衣服の一部をちぎって、枕の下に隠した。何のために。お守りか。それとも——自分がここにいた証を、もうひとつ残しておきたかったのか。
籠の隅で、布に包まれた木彫りの人形が影を落としている。人形と、壁の文字と、この端切れ。三つの痕跡が、もういない子供の輪郭を描いていた。
* * *
光苔が揺れた。通路の奥から、甲殻が石を擦る音。
ゼノが入口に現れた。片手に水差しの器を持っている。外套の袖口から覗く手の甲——黒い変色が、前に見たときより指の付け根まで広がっていた。鬱金色の瞳がティリアを見て、視線がティリアの手の中に下りた。
布切れ。ゼノの歩みが止まった。
ティリアは布切れを隠さなかった。両手で包んだまま、ゼノの目を見た。
「この部屋に、前は誰がいたのですか」
声は静かだった。問い詰めるつもりはない。ただ、知りたかった。この寝台で眠り、人形を握り、壁に文字を刻み、衣服の端を枕の下に隠した誰かのことを。
ゼノは器を石畳に置いた。水が揺れる音がして、静まった。
沈黙が長く伸びた。光苔の光が二人のあいだを青白く満たしている。
「……知る必要はない」
声が低かった。いつもの「動くな」「出るな」とは違う。命令でも拒絶でもなかった。言葉の端が沈み、喉の奥に何かが引っかかっている。
ゼノの目が、ティリアの手の中の布切れに留まっていた。瞳孔が揺れている。縦に裂けた瞳の奥で、光苔の光が不規則に反射していた。外套の下で蜘蛛脚が身じろぎする気配がしたが、今度は壁を掴まなかった。ただ、肩が小さく丸まっていた。
答えたくないのではないのだと、ティリアは思った。
答えられないのだ。
ゼノは身を翻した。通路の闇に背中が沈んでいく。いつもより足音が遅い。甲殻が壁に当たる音もしない。静かに、重い歩調で、闇の奥に消えた。
ティリアは布切れを枕の下に戻した。見つけた場所に。子供がそうしたように。
* * *
眠りの淵にいた。
光苔が暗く沈み、花弁の影が消え、部屋が青い薄闇に包まれている。毛布の下でティリアがまどろみかけたとき、寝台のそばで小さな気配がした。
「ねえ」
ルカだった。声が近い。寝台の横の石畳に座り込んでいるのだろう。いつものように壁を抜けて来たらしく、足音はなかった。
「ティリア、起きてる?」
「……起きてます」
目を開けた。ルカが膝を抱えて、すぐ隣に座っていた。緑の瞳が光苔の残光をかすかに拾って、暗がりの中で光っている。
いつもの顔と、何かが違った。
ルカは壁の方を見ていた。ティリアでも天井でもなく、寝台の裏の壁——「ここにいるよ」が刻まれた場所を。
「ねえ、祈りって、どうやるの?」
声が静かだった。いつもの弾むような調子がない。「ねえねえ」ではなく、「ねえ」。ひとつだけ。
「祈り?」
「うん。手を合わせて、目を閉じて、何か言うんでしょ? ティリアはできるんでしょ?」
ティリアは身を起こした。ルカの横顔を見た。赤毛が頭にかかり、唇が薄く結ばれている。普段の無邪気さが剥がれた下に、別の表情があった。
その目は、深い場所を見ていた。壁の文字を——あるいは、壁の向こうの何かを。
「どうして、祈りたいの?」
「……わかんない」
ルカは膝を抱える腕に顔を埋めた。赤毛が揺れ、声がくぐもった。
「わかんないけど、祈りたいの。だめ?」
ティリアはルカの頭に手を伸ばしかけて、止めた。触れていいのか、わからなかった。この子の身体は壁を抜ける。迷宮の一部として現れ、消える。それでも今、隣に座っているこの子の声は、ひどく人間のものだった。
「だめじゃないです」
ルカが顔を上げた。緑の瞳が、暗がりの中でティリアを映している。
「教えて」
「……ええ。今度、教えます」
ルカは何も言わず、壁にもたれた。しばらくそのまま二人で黙っていた。光苔の微かな明滅が、呼吸のように部屋を満たしている。
やがてルカの輪郭が薄れ、壁に溶けるように消えた。足元の石畳に、温もりの痕跡はない。
ティリアは毛布を引き上げ、目を閉じた。
この子はなぜ、祈りに手を伸ばしたのだろう。迷宮が生んだ使い魔が、神に祈る必要があるとは思えない。だとすれば——祈りたいのはルカではなく、ルカの中にいる誰かなのか。
壁の奥で、脈動がひとつ。
答えはまだ、石の向こう側にある。
お読みいただきありがとうございます。
次回「祈りの共鳴」
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