壊れた玩具
寝台の足元に、それはあった。
石畳の隅、壁と寝台の脚が作る暗がりに、小さな塊が転がっている。光苔の光が届ききらない場所で、輪郭だけがぼんやりと浮かんでいた。
ティリアは身を屈めて拾い上げた。
木彫りの人形だった。掌に収まる大きさで、四肢が素朴に削り出されている。顔の造作はほとんど潰れていた。磨り減っている——繰り返し握られ、撫でられ、指の脂と時間とで角が丸くなっている。子供の手だ。子供の手だけが、こんなふうに木を磨く。
表面を親指でなぞった。滑らかな窪みが人形の胸のあたりにある。同じ場所を、何度も何度も、親指が辿った痕。
「それ、ぼくのじゃないよ」
振り向くと、ルカが壁際に立っていた。いつ現れたのかわからない。赤毛が光苔の光を受けて燃えるように揺れている。
「ルカ」
「前からそこにあったけど、ぼくのじゃない」
ルカの声は平坦だった。緑の瞳がティリアの手の中の人形を見つめている。その輪郭が——一瞬、揺らいだ。光苔の光が強まったわけでも弱まったわけでもない。少年の肩から腕にかけての線が、水面に映った像のようにぶれ、すぐに戻った。
「じゃあ、誰の?」
ルカが首を傾げた。赤毛が頭にかかる。
「わかんない。でもね、ここにいた子はいつもそれを持ってた」
ここにいた子。ルカは自分のことを言っていない。自分と「ここにいた子」を分けている。ティリアの胸の奥で、冷たいものが沈んだ。
「……その子は、今どこにいるの?」
「んー」
ルカは足元の石畳を爪先で蹴った。こつ、と軽い音。
「いなくなっちゃった」
それきり、ルカは何も言わなかった。「あっ、影魚見に行こ!」と声を上げて通路に駆けていき、足音がすぐに途絶えた。壁を抜けたのだろう。
ティリアは人形を両手で包んだ。木の温度が掌に移っていく。誰かがこの場所で、これを握りしめていた。暗い迷宮の底で、この小さなものだけを頼りに。
* * *
光苔の明滅を二つ数えた頃、通路の奥から甲殻が石を擦る音がした。
ティリアは寝台に腰を下ろしたまま待った。眠ったふりはしない。それはもう意味がないと、互いにわかっている。
ゼノが入口に現れた。片手に粗布の袋を提げ、もう片方の手で水差し用の石の器を抱えている。鬱金色の瞳がティリアを捉え、一瞬止まり、それから視線を逸らした。袋と器を石畳に置く。手つきは相変わらずぎこちない。
「ゼノ」
呼びかけに、背中が強張った。
ティリアは人形を両手で持ち上げ、ゼノの目に入る位置に差し出した。
「これは——誰のものですか」
ゼノが振り返った。
鬱金色の瞳が見開かれた。瞳孔が縦に裂け、光苔の光を鋭く弾く。外套の下で何かが跳ねた。蜘蛛脚だ。布越しに関節が擦れ合う軋みが聞こえ、外套の肩口が不自然に盛り上がる。
沈黙が落ちた。花弁の甘い匂いが二人のあいだを漂っている。
ゼノは答えなかった。唇が薄く開きかけ、喉の奥で音が詰まり、何も形にならないまま閉じた。身を翻す。蜘蛛脚が外套の内側で暴れるように動き、裾が大きく翻った。通路の闇に黒い背中が沈んでいく。
甲殻が壁を掠める音。遠ざかる。消える。
ティリアは人形を膝の上に下ろした。
この人形を握っていた子供と、ルカの言う「ここにいた子」と、ゼノのあの沈黙。三つがひとつの線で繋がっている気配がした。
立ち上がり、壁際の籠に歩いた。前に残しておいた影魚の干物を取り出し、半分を齧る。淡白な塩味を噛みながら、人形を布に包んで籠の隅に置いた。丁寧に。壊さないように。
没落したエーデルシュタインの家にも、こんな人形があった。母が削ってくれたもので、ティリアが教団に引き取られるとき、持ち出すことは許されなかった。「聖女候補に私物は不要です」と、セファは穏やかに微笑んだ。
捧げるためには、まず空にしなければならない。持ち物を。記憶を。自分自身の望みを。十年かけてそう教わった。そして空になった器を、迷宮の底に投じた。
ティリアは籠の中の人形に指先で触れた。この子も、空にされたのだろうか。
* * *
異変は、花の部屋の外から来た。
金属が擦れ合う高い音。それから、人の声。複数の足音が石畳を踏む重い響き。花の部屋からは二つの通路が伸びているが、そのうち上層へ続く方角から聞こえた。
ティリアは立ち上がった。通路の入口に寄り、壁に身を隠すようにして覗く。
光が見えた。松明の橙色。迷宮の青白い光とは異質な、地上の火だった。三つの影がその光の中で揺れている。革の胸当て、腰に吊った短剣、背負った縄梯子。冒険者の装備。
「——深層だぞ、ここ。縁渡りの地図にもなかった」
「報酬は上層の比じゃねえ。迷宮主に見つかる前に回収して戻る」
男たちの声が石壁に反響した。松明の光が通路の壁を舐め、光苔が怯えたように明滅する。
空気が、変わった。
ティリアの頭上で光苔が激しく瞬いた。壁の奥から振動が伝わってくる。あの脈動だ。迷宮が——反応している。
闇の奥から、音もなく黒い影が落ちた。
ゼノだった。
天井の暗がりから降り立ったその姿に、ティリアは息を呑んだ。外套が背中で裂けている。いや、違う。外套の下から蜘蛛脚が完全に展開していた。四本。各々が人の腕よりも長い。甲殻は濡れたような黒で、関節の継ぎ目だけが赤錆びた色をしている。先端は研ぎ澄まされた刃のように尖り、天井の石を掴んで体を支えていた。
探索者たちが叫んだ。松明が揺れ、一人が短剣を抜く。
ゼノの腕が振られた。
糸が閃いた。暗がりの中で一瞬だけ光を弾き、探索者の短剣ごと腕を絡め取った。拘束糸。引く動作は見えなかった。男の身体が宙に浮き、通路の壁に叩きつけられる。
残りの二人が走った。松明を投げ捨て、来た道を戻ろうとする。蜘蛛脚の一本が天井を蹴り、ゼノの身体が弾丸のように通路を滑った。二本目の糸が二人の足を同時に刈り取り、石畳に倒れた身体を三本目の糸が束ねた。
ゼノは蜘蛛脚で天井を掴み、拘束した三人を持ち上げた。腕の筋が浮き、蜘蛛脚の関節が軋む。そのまま通路の上方——上層へ続く縦穴に向かって、投げた。
悲鳴が遠ざかり、石壁に跳ね返りながら消えていく。殺してはいない。追い払った。
光苔が狂ったように明滅している。壁面全体が波打つように光り、暗くなり、また光る。迷宮がゼノの戦闘に呼応して脈打っている。
ティリアは通路の隙間から動けなかった。指先が壁に張りつき、膝が震えている。あの速さ。あの力。人間の動きではなかった。蜘蛛脚が壁を掴むたびに石が砕け、糸が空気を裂く音は刃物の風切りに似ていた。
同時に——気づいていた。
ゼノは最初から、探索者たちをこの通路の奥に入れなかった。花の部屋に至る前に遮断し、上層へ押し戻した。戦闘の軌道が、ティリアの部屋を中心に弧を描いている。
暴力で、守っていた。
* * *
通路の壁に手をついた。
甲殻が石に食い込み、指先の黒い変色がさらに肘まで広がっている。息が荒い。肺が焼ける。違う——肺ではない。腹の底、臓腑の奥にある空洞が脈打っている。飢えだ。
蜘蛛脚が壁を掴んだ。先端が石灰岩を抉り、新しい爪痕を刻む。口い傷の上に重なる。何本目かもう数えていない。
あの女が来てから、封印が——
思考が途切れた。形にならない。蜘蛛脚の関節が軋み、壁に亀裂が走る。
通路に匂いが漂っている。花の香り。それだけではない。祈りの——何かの残滓。あの女の肌から立ち上る、光苔とも花とも違う、甘く清い匂い。
胃が収縮した。喉の奥に唾液が溢れる。四本の脚が壁を掻き、甲殻が悲鳴を上げた。
「……まだ、喰える」
声は掠れていた。自分の耳にも届かないほど小さい。壁についた手の下で、迷宮が脈打っている。自分の鼓動なのか迷宮の鼓動なのか、もう区別がつかなかった。
* * *
花の部屋に戻ったとき、光苔はまだ落ち着いていなかった。微かに明滅を繰り返し、壁面の花弁が時折震えている。
ティリアは寝台のそばに膝をついた。探索者たちの松明が照らした残光はとうに消え、部屋は光苔の青白い光だけに包まれている。膝の震えはまだ止まらない。あの蜘蛛脚が壁を砕く音が、耳の奥に残っていた。
身を屈めて、寝台の裏側を覗き込んだ。壁の低い位置——床から手のひら二つ分ほどの高さに、何かがあった。
文字だった。
石灰岩の表面に、細く浅く刻まれている。道具で彫ったものではない。爪で、あるいは小石の欠片で、何度もなぞって刻んだ跡。線は不揃いで、力の入り方にむらがある。
子供の手だ。
光苔の光に顔を寄せて、ティリアはその文字を読んだ。
「ここにいるよ」
四文字。それだけだった。
ティリアの指先がその文字をなぞった。溝の中に埃が穏もっている。長い時間、誰にも見つけられずにここにあった。暗い迷宮の底で、寝台の裏の壁に、小さな手が刻んだ言葉。
誰に宛てたものだったのだろう。迎えに来る誰かに。あるいは、ただ自分がここにいることを、石に刻みつけておきたかっただけなのか。
籠の中の人形が、光苔の光の中で小さな影を落としている。
ティリアは指を溝から離さなかった。冷たい石の感触の下に、脈動があった。微かに。遠く。この迷宮は覚えているのだ——ここにいた子供のことを。
壁に額を寄せた。目を閉じる。暗闇の中で、光苔の光だけが瞼の裏を青く染めていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回「記憶の残響」
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