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花の部屋の秘密

ゼノが来るのは、ティリアが眠っているときだけ。

その秘密を知ったティリアは、眠ったふりをして待つ。

 眠らなかった。


 寝台に横たわったまま、毛布の下で呼吸を整えていた。光苔が暗く沈む時間帯が来て、また少しずつ明るさを取り戻す。その周期をひとつ数え、ふたつ数え、ティリアは目を開いたまま待っていた。


 ルカの言葉がある。「ティリアがいないときに来るの。見られたくないんだって」


 だから、起きていることにした。


 闇の通路への関心は消えていない。あの先に何があるのか。ルカが「ゼノが怒る」と言った場所。だが今の自分に必要なのは、まず目の前にいる異形を知ることだった。姿も声も断片しか持っていない。嘘か本当かもわからない「太らせてから喰う」を確かめるには、顔を見て、声を聞く以外にない。


 光苔がまた暗くなった。三度目の周期。壁際の花弁が微かに揺れ、甘い香りが濃くなる。石畳の冷たさが足裏から這い上がってくる頃、通路の奥で石を擦る音がした。


 甲殻が壁に触れる軋み。それから、布が空気を叩く音。


 ティリアは寝台に腰を下ろしたまま、膝の上に手を置いた。毛布を被らなかった。


* * *


 ゼノが入口に現れたとき、ティリアの目と合った。


 鬱金色の瞳が見開かれた。手に下げた粗布の袋が揺れ、中から乾いた魚の匂いが漏れている。影魚の干物だろう。袋の口からもうひとつ、白い菌糸に覆われた丸い塊——菌糸キノコがはみ出している。


 ゼノは入口の閾で足を止めた。光苔の光が半身だけを照らし、残りの半身が通路の闇に沈んでいる。外套の下で蜘蛛脚が身じろぎする気配がしたが、表には出てこなかった。


 沈黙が落ちた。壁際の花が揺れ、花粉の甘い匂いが空気に混じる。


 ゼノが袋を石畳に置いた。手を離す動作はぎこちなく、まるで物を置くという行為そのものに慣れていないように見えた。踵を返しかけた背中に、ティリアは声をかけた。


「なぜ、殺さないのですか」


 以前も同じことを聞いた。あのときゼノは答えなかった。呻くような声で「戻れ」と言っただけだった。


 今度は、ゼノの足が止まった。


 振り向かない。外套の裾が揺れ、甲殻が擦れ合う小さな音が聞こえた。肩が一度上がり、ゆっくりと下がる。息を吸い、吐いた。


「……太らせてから喰う」


 低い声だった。掠れて、喉の奥に引っかかるような響き。命令でも威嚇でもない——ゼノが初めて、応えた。


 ティリアの指先が膝の上で強張った。恐怖がないわけではない。胃の底が冷え、呼吸が浅くなる。それでも、声の震えを顎を引いて押し殺した。


「そうですか」


 静かだった。自分でも驚くほど、平らな声だった。


 ゼノの肩が揺れた。半身だけ振り返り、鬱金色の瞳がティリアの顔を捉えた。瞳孔が縦に細く裂け、光苔の光を異質に反射している。表情はない。だがその視線の奥に、困惑が滲んでいた。怯えるはずの餌が怯えない——その事実を、処理できていない目つきだった。


「……怖くないのか」


 声がわずかに揺れていた。問いかけだった。命令ではなく。


 ティリアは膝の上の手を見下ろした。爪が掌に食い込んでいる。指の震えを、ゼノに悟られたくなかった。


「怖いです」


 嘘をつかなかった。顔を上げ、紫の瞳でゼノを真っ直ぐに見た。


「それでも——知りたいのです。あなたが何のために、ここにいるのか」


 ゼノの瞳が揺らいだ。唇が薄く開き、何か言いかけて——閉じた。言葉にならない沈黙が通路の闇に吸い込まれていく。


 長い間があった。光苔が一度明滅し、花弁の影が壁を這った。


「……食え」


 短く言って、ゼノは背を向けた。今度こそ踵を返し、通路の闇に黒い外套が溶けていく。甲殻が石を掠める音が遠ざかり、消えた。


* * *


 ティリアは袋を開けた。影魚の干物が三枚、菌糸キノコが二つ。干物は薄く平たく、銀色の鱗が乾いて鈍く光っている。手に取ると、光苔の微かな熱で温められた柔らかさがあった。口に含むと、淡白な塩味が舌に広がる。噛むほどに旨味が出て、空腹の身体がそれを受け入れた。


 菌糸キノコは独特の歯触りだった。弾力のある肉質の中に、ほんのわずかな苦味。ルカが教えてくれた光苔の近くに生えるものだろう。


 半分を食べ、残りを布に包んで籠のそばに置いた。


 一人になった部屋で、ゼノの声を反芻した。「太らせてから喰う」。あの声に凄みはなかった。ほとんど独り言のような、不器用な——言い訳。


 自分を食べるつもりだと言い聞かせなければならない理由が、あの異形にはあるのだ。


 ティリアは壁に背を預け、膝を抱えた。


 ——セファ様も同じだったのかもしれない。


 思考が、その方向に滑った。十年間、丁寧に育てられた。祈りの術を教わり、食事を与えられ、清潔な寝台で眠った。大切にされていると信じていた。それは嘘ではなかったかもしれない。けれどセファにとっての「大切にする」は、封印の鍵として欠けのない状態を保つことと、同義だった。


 ゼノは花を植え、食べ物を運び、自分の腕に爪を立ててまで飢えに抗っている。セファは微笑みながら聖女を育て、完成した鍵を迷宮に投じた。


 どちらが罠で、どちらが——。


 その問いに答えは出なかった。わかるのは一つだけ。ゼノが壁に残した爪痕と、セファの穏やかな笑みとでは、痛みの在り処が違う。


* * *


「地上に、帰りたいのです」


 次にゼノが現れたのは、光苔の明滅を五つ数えた後だった。水差しの水を入れ替えに来たらしく、手に石の器を持っている。ティリアが起きていることにはもう驚かなかった。ただ、視線を合わせようとしない。


 ティリアの言葉に、ゼノの手が止まった。器の中の水が揺れ、微かな水音が石壁に跳ね返った。


「地上に出るな」


 声が変わっていた。低く、鋭く——だが怒りとは違う何かが混じっている。外套の下で蜘蛛脚が一本、制御を外れて壁を掴んだ。甲殻の先端が石を抉り、乾いた音が響いた。


 焦り。ティリアの耳には、そう聞こえた。


「どうして——」


「出るな」


 重ねた声は短く、硬かった。ゼノは器を水差しのそばに置き、身を翻した。蜘蛛脚が壁から離れ、外套の内側に引き込まれる。通路に消える直前、鬱金色の瞳が一瞬だけ振り返った。光苔の光を受けて、その目は怒りではなく——何かに怯えているように見えた。


 逃がさないためだ。ティリアはそう解釈した。囚われの身なのだから。地上に出れば、餌が逃げる。当然の反応だろう。


 だが、あの声の震えが耳の奥に残った。「太らせてから喰う」と言ったときと同じ種類の揺らぎ。言葉と声が、噛み合っていない。


* * *


 ティリアは立ち上がり、花の部屋を歩いた。


 壁際の花を一輪ずつ見ていく。白い花弁。間隔が揃っている。最初に気づいたときと同じだが、改めて見ると植え方に規則がある。部屋の中央に向かうほど花の数が減り、壁の高い位置に集中している。光苔もそうだった。天井に近い場所に密集し、下に向かってまばらになる。


 星座のようだった。


 偶然ではない。誰かが時間をかけて、光の配置を選んだのだ。迷宮の暗闇の中で空を見上げるような、そんな配置を。


 ティリアは壁に手を伸ばした。石灰岩の冷たい表面に指先を触れさせる。


 脈が、あった。


 石の奥から伝わってくる微かな振動。心臓の鼓動よりもずっと遅く、深い律動。指先を通じて掌へ、手首へ。まるで壁の向こう側に何か巨大なものが横たわっていて、ゆっくりと呼吸しているような——。


 光苔が、反応した。


 触れた指を中心に波紋が広がるように、壁面の光苔が一斉に明滅した。青白い光が強まり、淡い金色に色を変え、部屋全体が一瞬だけ夜明けのような光に包まれた。壁際の花弁が風もないのに震え、天井の光苔が連鎖して輝く。


 遠くで、息を詰める音がした。


 通路の奥。ゼノの気配がそこにあった。音は一瞬で途絶え、甲殻が石を掠める鋭い音が遠ざかっていく。


 ティリアは手を壁から離した。光苔は急速に元の青白い光に戻り、花弁の震えも収まった。部屋は何事もなかったかのように静まり返っている。


 指先に、振動の残響がまだ残っていた。冷たい石の感触の奥にあった、温かい脈動の記憶。


 この迷宮は——生きている。


 その確信が、胸の底に沈んだ。石の壁、光苔の光、整えられた花。すべてが呼吸している。そしてティリアが触れたとき、それは応えた。


 あの奥に何があるのか。ゼノはなぜ「地上に出るな」と言ったのか。この部屋を誰が、何のために整えたのか。


 問いばかりが増えていく。答えはまだ、どこにもない。


 ティリアは寝台に戻り、毛布を引き上げた。指先に残る脈動の温もりを握りしめたまま、目を閉じた。


お読みいただきありがとうございます。


次回「壊れた玩具」


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