使い魔の少年
花の部屋に現れた、壁を通り抜ける少年。
ルカと名乗るその子供は、ゼノの「使い魔」だと言う。
「——お願いがあります」
八つの光点が凍りつき、通路の空気が固まった。
ゼノの血に濡れた腕は、ティリアの指先のすぐ先にあった。触れる直前で言葉を選んだのは、これ以上この異形を怯えさせたくなかったからだ。
「この部屋にいた子供のことを、教えてください」
八つの光が揺れた。二つに減り、また四つに戻り——瞳孔の数が定まらない。外套の下で蜘蛛脚が震えているのが、布越しにわかった。花の香りに混じる鉄錆の匂いの中で、関節が擦れ合う軋みだけが長い沈黙を埋めていた。
ゼノの唇が薄く開いた。喉の奥で「……すまな」と途切れた音が漏れた。完全な言葉にはならない。ティリアにも聞こえたかどうか確信が持てなかった。鬱金色の瞳がティリアの顔から外れ、壁面の爪痕——古いものと新しいものが幾重にも重なった溝の上に留まる。
ゼノは身を翻した。外套が空気を叩き、通路の闇に黒い背中が溶けていく。甲殻が石を掠める乾いた音が遠ざかり、やがて消えた。
ティリアは伸ばした手をゆっくりと下ろした。
指先が冷えている。触れなかった。ゼノの瞳から光が減っていくあの震え方を見て、胸の底が軋んだ。この質問は、傷に触れたのだ。あの人は——謝ろうとしたのだろうか。
壁際の花がかすかに揺れ、甘い匂いがティリアの頬を撫でた。部屋に戻り、寝台に横たわる。意識がゆっくりと沈んでいった。
* * *
目を覚ましたとき、視界の端に赤い色があった。
光苔の青白い光の中で、その色は異様なほど鮮やかだった。炎のような赤毛が、寝台の足元で揺れている。
子供が、座っていた。
膝を抱え、石の寝台の角に背中を預けて、ティリアの顔をじっと覗き込んでいる。緑色の瞳が大きく見開かれ、光苔の光を吸い込んで硝子玉のように光っていた。小柄で、痩せている。頬の輪郭が子供の丸みを残しながらも、骨の形がうっすらと浮き出ていた。
「ねえねえ、あなたが新しい人?」
高い声が石壁に跳ね返った。ティリアが身を起こすのを待ちもせず、少年は膝をほどいて身を乗り出した。
「どこから来たの? 上から落ちてきたの? ゼノが連れてきたんでしょ?」
矢継ぎ早の問いかけに、ティリアは毛布を握ったまま瞬いた。
「……あなたは」
「ルカだよ!」
少年は胸を叩いた。痩せた腕が光苔の光を受けて——一瞬、透けた。
ティリアの息が止まった。光の加減だと思おうとしたが、少年の輪郭は確かに揺らぎ、すぐに実体を取り戻した。
「ねえ、お腹すいてない? 影魚、捕りに行こうよ!」
ルカは何事もなかったように立ち上がり、壁際へ駆けていく。足音が軽すぎた。裸足が石畳を叩く音が、体の大きさに見合わない。
壁の前で振り返り、にこ、と笑う。
次の瞬間、少年は壁の中に沈んだ。石壁の表面が水のように波打ち、半身が埋まった状態でルカが手を振った。
「こっちだよ! 回り道するからついてきて!」
声は壁の向こう側から聞こえた。
ティリアは寝台から足を下ろした。壁の表面に触れてみる。固い石灰岩の感触。波紋の痕跡は、どこにもない。
通路側から、とたとたと軽い足音が近づいてきた。
「もう、遅いなあ!」
入口にルカが立っている。壁を通り抜けて、通路を回ってきたらしい。息も切れていない。
* * *
ルカに手を引かれ、通路を歩いた。小さな手は温かかった。少なくとも、ティリアの指先よりは。
「ここはね、水が近いんだよ。聞こえる?」
耳を澄ませた。石壁の奥から、微かな水音が響いている。ルカが壁の窪みから石の器を引き出し、染み出し口に当てた。透明な水が細く器を満たしていく。
「飲んで。冷たくておいしいよ」
受け取って口をつけた。鉱物を含んだ硬い味が空っぽの胃に落ちていく。身体が水を求めていたことに、飲んでから気づいた。
「影魚はね、もっと下にいるの。光苔をこうやって——」
ルカは壁から光苔の塊を剥がし、暗い水溜まりのそばに置いた。やがて水面が揺れ、小さな銀色の鱗が光を反射し始める。ルカが素手で水に突っ込み、ぱしゃりと飛沫を上げて一匹掴み出した。
「ほら! 捕れた!」
手のひらの上で跳ねる小魚の鱗が、青白い光の中で七色にきらめいた。ティリアの口元が、知らず緩んだ。
* * *
影魚を干す棚がある場所へ戻る途中、花の部屋を通り抜けた。ティリアはふと足を止めた。
壁際の籠に果物が入っている。昨日はなかったはずだ。水差しの水も、縁まで満たされていた。
「ルカ、これ誰がやったの?」
「ゼノだよ。ティリアがいないときに来るの」
ルカは立ち止まりもせず答えた。
「見られたくないんだって」
ティリアは水差しに指先で触れた。水面が微かに揺れる。そこにゼノの手があったのだと思うと、奇妙な気持ちが胸を通り過ぎた。
* * *
棚の近くの広い通路に座り込んで、影魚を齧った。淡白な塩味を噛み千切りながら、ルカが不意に言った。
「ゼノはね、ルカに魚の捕り方教えてくれたんだよ。でも自分は食べないの。いつもルカの分だけ」
「食べないの?」
「うん。お腹すいてるはずなのに」
不思議そうに首を傾げるルカの横で、ティリアの脳裏にゼノの姿が閃いた。あの血濡れの腕。自分の身体に爪を立てていた痕。飢えを抱えたまま、この少年には食べることを教え、自分は口をつけない。
「前の人は、ここで泣いてた」
唐突だった。
ルカの声から抑揚が消えていた。光苔を突いていた指が止まり、緑の瞳がどこか遠くを見ている。
「ずっと泣いてた。暗いって。怖いって。帰りたいって」
ティリアの背筋に冷たいものが走った。
「前の人、というのは」
「——あっ、この光苔すっごい光る!」
一拍で、ルカの声は元に戻っていた。指で突いた光苔が確かに他より明るく光っている。少年は何事もなかったように笑い、また足をぶらぶらさせ始めた。
ティリアは少年の横顔を見つめた。さっきの言葉は何だったのか。問い詰めたい衝動を、唇を引き結んで飲み込んだ。
「ルカ。あなたは、ここに何年いるの?」
「んー? わかんない」
本当にわからないという顔だった。ここには朝も夜もない。時間を数える手段を持たない者にとって、年月は意味を持たない。
* * *
「ねえ、ティリアは上で何してたの?」
「……教団で、祈りの訓練を」
「教団って何?」
「たくさんの人が集まって、神様にお祈りをする場所です。私を育ててくれた方がいて——セファ様という方で。優しい方でした」
言ってから、自分の声に驚いた。優しい、と言った。嘘ではない。十年間、飢えも凍えも知らず、祈りの術を丁寧に教わった。
ルカが首を傾げた。赤毛が頬にかかる。
「じゃあなんでここに落としたの?」
言葉が、胸に刺さった。
幼い声に悪意はない。なのに、その一言がティリア自身まだ触れたくない場所を正確に突いていた。
優しかった。大切にされていた。——だからこそ、捧げものとしての品質が保たれていた。
ティリアは立ち止まったまま、自分の手のひらを見下ろした。影魚を掴んだときの冷たい水の感触がまだ残っている。花と光苔で満ちたこの部屋もまた、誰かが整えた空間だった。飼育と保護の見分けなど、中にいる者にはつかない。ただ、セファは微笑んでいた。ゼノは、自分の腕に爪を立てていた。
「……それは」
答えを探したが、見つからなかった。ルカは返事を待たずに先を歩き出している。子供の関心はもう次の角の先に移っていた。
* * *
ルカは干し魚の最後の一切れを口に放り込み、立ち上がった。ズボンの膝についた埃を払い——その手が、一瞬また透けた。指の向こうに石壁の模様がうっすらと見え、次の瞬間には消えていた。
「ねえ、そろそろ部屋に戻ろ」
ルカが通路の奥を指差した。花の部屋とは反対の方角。暗い通路がさらに下へ続いている。
「あっちの部屋はダメだよ。ゼノが怒るから」
「あっちの部屋?」
「うん。入っちゃダメなの。ルカも入んない」
当たり前の事実を述べる口ぶりだった。暗い通路の先には光苔すら生えておらず、完全な闇が口を開けている。
「ほら、行こ行こ!」
ルカが手を引いた。小さな手の温もりが、ティリアの思考を断ち切る。振り返りながら、通路の闇を目に焼きつけた。
花の部屋に戻ると、ルカは壁の中に沈むようにして消えた。「またね」という声だけが石壁の向こうから届き、足音も気配も残さなかった。
一人になった部屋で、ティリアは寝台に座った。寝台の足元に、小さな木彫りの人形が転がっているのが目に入った。光苔の光の中で、磨り減った輪郭がぼんやりと影を落としている。
しばらくして、立ち上がった。闇の通路に向かって歩き出す。二歩、三歩。光苔の光が届かなくなる手前で、壁際の花がかすかに揺れた。風はない。
ティリアは足を止めた。花弁の震えは一瞬で収まり、部屋は静まり返っている。誰もいない。なのに、背中に視線を感じた。糸のように細く、確かな圧力。
あの奥に、何がある。その問いを胸に抱いたまま、ティリアは寝台に戻った。
お読みいただきありがとうございます。
次回「花の部屋の秘密」
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