暗闇の中の花
迷宮の最深部、花と光苔に満ちた小さな部屋。
ゼノが四年かけて作り上げた空間で、ティリアは最初の夜を迎える。
じっとしていられなかった。
聖女候補としての十年が身体に刻んだ習慣がある。状況を把握せよ。環境を確認せよ。与えられた場所で、まず自分にできることを数えよ。セファの教えは嫌いだったが、身体はその通りに動いた。
壁際の水差しに手を伸ばす。陶器だった。粗い肌触りだが、縁は丁寧に成形されている。迷宮の怪物が、陶器の水差しを用意している。中の水を光苔に透かすと、底まで見えた。
傍らの籠に果物が三つ。皮は乾き始めているが、黴びていない。定期的に入れ替えている者がいる。殺す相手に毛布を用意し、水を汲み、果物を置く。それは飼育なのか。それとも。
壁の花に目を移した。白い花弁を持つ、名も知らない花。間隔が揃いすぎている。自然に根を下ろしたのではない。誰かが——植えた。
部屋の端から端まで歩いてみた。六歩。反対側も六歩に少し足りない。天井は立ち上がって手を伸ばせば指先が届く程度。牢としては広く、居室としては狭い。だがこの部屋を作った者は、少なくとも——ここに人を住まわせようとしていた。
壊れた人形を手に取った。片腕のもげた木彫り。爪のようなもので彫られた不器用な痕跡。何度も何度も形を整えようとした、その繰り返しの跡。小さな寝台に目を戻す。乾き切った木の匂いが鼻腔を掠めた。
ここにいた子供は——役に立ったのだろうか。それとも。
セファの声が脳裏を掠める。
——役に立たないものは、この世に居場所がありませんよ。
生贄として捧げられることが、ティリアに残された最後の「役目」だった。その役目すら果たせないのだとしたら、自分はここで何なのか。
その先を考えることを、指先が拒んだ。人形を寝台に置き直し、ティリアは立ち上がった。
* * *
足裏の切り傷を水で洗い、果物をひとつ手に取った。
硬い皮を爪で剥く。中の果肉は水気を残していた。口に含むと、酸味のあとにわずかな甘みが舌に広がる。空腹だった。喉を通る食べ物の感触に、身体が生きることを思い出す。
半分だけ食べて、残りを籠に戻した。この食料がいつ補充されるかもわからない。
石の寝台の脇にしゃがみ、手を組んだ。指先が冷たい。
祈りは習慣だった。教団で毎朝毎夕、決まった時刻に捧げていた形式的な言葉。感謝の祈り。祝福の祈り。意味を考えたことは、あまりない。
だが今、口をついて出たのは感謝の言葉ではなかった。
名前も知らない。顔も知らない。もうここにはいない——小さな寝台に眠っていた誰かへの、鎮魂の祈り。
いつもの祈りとは、手を組む力が違った。形式を辿る指先ではない。組んだ手の中に何かを閉じ込めようとするような、ぎこちない力の入れ方だった。教団では一度もこうはならなかった。
声は小さかった。石壁に反響し、消えるはずだった。
消えなかった。
祈りの残響が、不自然に長く尾を引いている。音が壁に吸い込まれるのではなく、壁の奥から返ってくるような——石の向こう側に、もうひとつの空間があるかのような響き方だった。
光苔が、脈打った。
一瞬。ほんの一瞬、青白い光が中心から波紋のように広がり、天井の光苔へ連鎖し、壁面を伝って足元まで降りてきた。波紋が通過した光苔の色味がわずかに変わる——青白から、淡い金に。蜂蜜を水に一滴垂らしたような、温かい色が石壁を染め、花弁の縁に金の輪郭を与えた。数秒。それだけの時間で金色は退き、光苔は元の青白さを取り戻した。壁際の花弁が、風もないのに揺れている。
ティリアは瞬きをした。気のせいだろう。疲れているのだ。こんな場所で眠りもせず、食べ物もほとんど口にしていない。感覚がおかしくなっても不思議ではない。
祈り終えて目を開けると、部屋は元のままだった。光苔は静かに光り、花は動かず、水差しの水面に青白い光が映っている。
ただ——ほんの少しだけ、空気が温かくなったような気がした。
* * *
横になった。毛布の繊維が頬に触れる。石の寝台は硬く、背中の骨が当たって鈍く痛む。
ここには鐘がない。教団では鐘の音がすべてを区切った。起床、祈り、食事、訓練。すべてが管理され、自分で何かを決める必要はなかった。管理されていたからこそ、安心だった。その事実に、今ここで初めて気づいた。
「ここにいろ。出るな」——ゼノの声が耳の奥に残っている。命令。拘束。教団の管理と同じだ。なのに、同じではない何かが混じっている。
何が違うのか、言葉にできなかった。ただ、教団では誰も壁に花を植えなかった。
毛布を引き上げ、目を閉じた。壊れた人形の顔が瞼の裏に残っている。
* * *
眠れない時間が長かった。
仰向けになると、寝台の石が肩甲骨の下を圧迫する。横を向けば腰骨が痛む。どの体勢でも身体のどこかが石に押し返され、そのたびに意識が浮上した。遠くで水が滴る音だけが、不規則な間隔で闇に落ちていく。あの音が時を刻んでいるとすれば、一滴が何秒なのか、数える術がなかった。
いつ眠りに落ちたのかもわからない。
目を覚ましたとき、どれだけ眠ったのかわからなかった。身体の右側が芯まで冷えていた。石の冷気が毛布を越えて肌に届いている。左の掌だけがほのかに温かく、眠りの中で自分の頬に押し当てていたらしい。
光苔の光がさらに暗くなっていた。点々と散らばる青白い光は、夜空の星が雲に隠れるように、いくつかが消えかけている。
入口の方角から、音が聞こえた。
呼吸だった。押し殺した、しかし隠しきれない荒い呼吸。吸う音と吐く音の間隔が不規則で、ときおり喉の奥で引っかかるような、苦しげな響きが混じる。
ティリアは毛布をそっと押しやり、寝台から足を下ろした。石畳が足裏を冷やす。音を立てないように、一歩ずつ、入口に近づいた。
壁の角で足を止め、通路の闇を覗き込んだ。
ゼノが、いた。
通路の壁に背中を預けている。外套が乱れ、その下から黒い甲殻に覆われた蜘蛛脚が一本はみ出していた。光苔の微かな光を受けて、甲殻の表面が鈍く光っている。関節部分が細かく震え、壁面を先端が無意識に引っ掻いていた。
ゼノの手が、自分の腕を掴んでいた。
黒く変色した爪が、腕の肉に食い込みかけている。前腕の皮膚がめくれ上がり、暗い色の滲みが広がっていた。
呼吸が荒い。肩が上下するたびに外套が揺れ、甲殻が擦れ合う軋みが空気を震わせる。
飢えに耐えている。
部屋の中のティリアを喰わないために。ここで、自分の身体に爪を立てて。
息を呑んだ。
その音は、ほんの微かなものだった。唇の間から漏れた空気の振動。
八つの光点が一斉にこちらを向いた。通路で戻ってきたときは二つだった光。今はまた、八つに増えている。
鬱金色の瞳。縦に裂けた瞳孔が、光苔の光を異質に反射している。人間の瞳ではなかった。蜘蛛のそれに限りなく近い、飢えた捕食者の目。外套から蜘蛛脚がもう一本溢れ出し、壁と天井を掴んだ。通路を塞ぐように——あるいは、通路から部屋へ入ることを、自分自身に禁じるように。
「——戻れ」
声が歪んでいた。人の喉から出る音と、何か別のものが軋む音が混じっている。言葉の形をかろうじて保っている、獣の唸りに近い響き。
ティリアは退かなかった。唇を引き結び、紫の瞳がゼノを真っ直ぐに捉えている。
指先が震えている。膝の裏が冷たい汗で濡れている。喉の奥が詰まり、呼吸が浅くなる。足の裏が石畳に貼りついたように冷たく、心臓の鼓動が顎の付け根にまで響いていた。
逃げなければ——身体の奥、教団で飼い慣らされた部分がそう叫んでいる。
それでも、足は動かなかった。
視線がゼノの腕に落ちた。黒い爪が食い込んだ前腕。滲む血。花の甘い香りの底に、鉄錆のような匂いが混じっていた。
この異形は、自分を喰うために苦しんでいるのではない。
喰わないために、苦しんでいる。
教団は十年間ティリアの身体を守った。傷をつけず、病ませず、清浄に保った。その保護は、最良の状態で祭壇に捧げるための管理だった。この異形の自傷は、それとは真逆のものだ。
ティリアは一歩、前に出た。入口の閾を越えて、通路側へ。花と光苔に守られた部屋を背にして、闇の領域へ。
ゼノの蜘蛛脚が弾かれたように後退した。壁と天井を掴んでいた甲殻が離れ、外套の内側に引き込まれる——だが完全には収まりきらなかった。一本がなお外套の裾からはみ出し、関節を折り畳みながら壁面を滑っている。ティリアの背丈ほどもある黒い脚だった。通路の天井から床まで届く長さが、光苔に照らされて輪郭だけを浮かび上がらせている。先端の爪が石畳を擦り、耳の奥を掻くような軋みが通路に響いた。
八つの光点が揺らぎ、二つに減り——人間の瞳の位置に戻った。
怪物の方が、怯えている。
ティリアは手を伸ばした。頬の強張りが解け、唇がわずかに開く。震える指先が、ゼノの血に濡れた腕に触れる寸前で——
「——お願いがあります」
その言葉に、八つの光点が凍りついた。
お読みいただきありがとうございます。
次回「使い魔の少年」
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