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蜘蛛の糸

異形の背中を追い、罠だらけの迷宮を歩くティリア。

振り返らない蜘蛛の男――ゼノは、なぜ彼女を導くのか。

 石と苔の匂いの中を歩いていた。黒い外套の影が空気を裂くたびに、鉱物と湿気の混じった気配がティリアの方へ流れてくる。


 天井から垂れ下がる鍾乳石の隙間を縫うように進む。光苔は壁の亀裂にまばらに生え、数歩ごとに途切れて闇に沈んだ。その闇の向こうで、異形の外套の裾だけが揺れている。


 距離はおよそ五歩分。振り返らない。速度を緩めることもない。


「あの……」


 声が石壁に吸われて消えた。前方の足音が止まる。黒い外套の背中が、わずかに傾いた。


「……ゼノ」


 低く、短い声だった。名前だ。それだけ告げて、異形は再び前を向いた。


 だが、ティリアが足を止めると——試しに一度だけ、石畳に足裏を貼りつけたまま動かずにいてみた——前方の気配も止まった。数秒の沈黙。ティリアが再び歩き出すと、足音が再開する。


 ……待ってくれている?


 いや。ただ獲物の位置を確認しているだけかもしれない。肉食の獣が背後の草食動物から目を離さないのと同じことだ。


 足裏が痛んでいた。石畳は平らではなく、細かな凹凸が裸足の皮膚を削る。冷たさが足首から脛へ這い上がり、膝の裏に溜まった。白い装束の裾は泥で固まり、縫い目のほつれた裾が歩くたびに足に絡む。銀白の髪は背中に張りつき、湿気を吸って重い。


 聖堂の石畳はこうではなかった。人の手で磨かれ、裸足で歩いても足裏を痛めることはない。——あの十年間、教団はティリアの身体を一つの傷もつけずに育てた。


 大切にされていたのではない。品質を管理されていただけだ。


 通路が左に折れた。


* * *


 ゼノが角を曲がる。ティリアもそれに続いた。


 右足を踏み出した瞬間、石畳の一枚がほんの数寸だけ沈んだ。かちり、と小さな音。足を引こうとしたが、次の瞬間にはもう石畳は元の高さに戻っていた。何も起きない。古い石畳が緩んでいるだけだろう。


 三つ目の角を曲がった先、左の壁際から七歩目。足裏が、沈んだ石の形を覚えていた。


 足元の凹凸に意識を集中させながら、さらに十数歩。


 壁の亀裂から何かが突き出しかけた。石の棘のような突起が、肩の高さで壁面から数寸だけ顔を出す。根元に巻きついた黒い糸がぴんと張り——突起は、止まった。


 前を歩く背中が一瞬だけ揺れたような——気のせいだろう。壁の突起は、ティリアが通り過ぎる頃にはもう引っ込んでいた。


 通路が狭まった。天井が低くなり、鍾乳石が頭上に牙を並べる。身を屈めて進む。前方のゼノも同じように背を丸めていたが、外套の下が不自然に膨らんでいた。


 頭上で、空気が鳴った。


 鍾乳石の一つが割れるような軋みを上げ、石灰岩の塊が剥がれ落ちる——咄嗟に頭を庇おうとした両腕の上に、砕けた粉が降り注いだ。視界の端で何か黒いものが頭上を横切り、硬い甲殻が石を弾く乾いた音が鼓膜を叩いた。


 ティリアの足元に、拳大の石灰岩の欠片が転がっていた。割れた断面が光苔の光を受けて白く光る。もし、あのまま歩いていたら——頭に落ちていた。


 顔を上げた。ゼノの外套の肩の辺りに、白い粉がうっすらと積もっている。皺が増えた布の下で、何かが収まりきらずにまだ蠢いていた。


 ゼノは振り返らなかった。前方の足音が、何事もなかったように再開した。


* * *


 通路の幅が一段と狭くなった。


 ゼノの足が、不意に止まった。


 ティリアも止まる。二人の距離が五歩分から三歩分に縮まっている。狭い天井の下、通路を曲がりきれずに足を止めたのか。それとも——


 ティリアの銀白の髪が一房、前にこぼれた。湿気に重みを増した先端が、ゼノの外套の裾に触れそうなほど近い。


 ゼノの肩が強張った。


 外套が異様に膨らんだ。内側から何かが押し広げようとしている。布越しに硬い甲殻が擦れ合う音がして、呼吸が変わった。浅く、荒く、引き裂かれるような息。


 ティリアの皮膚が粟立った。逃げろ、と身体が告げている。だが逃げる先はない。前にも後ろにも、石壁だけだ。


 ゼノの黒い拳が壁に叩きつけられた。


 乾いた音。石灰岩の壁に、五本の爪痕が刻まれる。白い粉が壁面から零れ落ち、光苔の光を受けて雪のように舞った。


 数秒。


 ゼノは何事もなかったように拳を下ろし、歩き出した。外套の膨らみは収まっている。足音も元に戻っていた。肩の輪郭だけが——壁に刻んだばかりの爪痕と同じように——鋭く、硬い。


 ティリアの足は、止まらなかった。


 壁の爪痕を通り過ぎるとき、指先で触れた。溝は深く、石の奥まで抉れている。冷たい粉がざらりと肌に散った。これだけの力で壁を砕ける手が、ティリアには一度も向けられていない。怖い。だがそれだけではない何かが、指先に触れた石の冷たさと一緒に、胸の底に沈んだ。


* * *


 通路の下り勾配が緩やかになった。空気が変わる。湿度が上がり、吐く息の白さが消えた。


 壁面に、別のものが混じり始めた。


 光苔とは違う、透き通った結晶の欠片が石灰岩の隙間に埋まっている。光苔の光を受けて内側から淡く発光し、薄紫の色を壁に散らしていた。結晶は進むほどに数を増し、天井まで覆い尽くす場所では、光が幾重にも屈折して通路全体を硝子細工の回廊に変えている。


 ティリアは足を緩めた。


 人の手が作ったものではない。この場所そのものが放つ光だった。銀白の髪に薄紫の光が落ち、汚れた白い装束の上でゆらゆらと揺れる。


 結晶の一つに、手を伸ばした。


 壁面から突き出した掌ほどの大きさの結晶。内部で光が脈打ち、紫から青へ、青から白へ、緩やかに色を変えている。指先があと数寸で触れる——


 黒い甲殻が、視界を遮った。


 蜘蛛脚。ゼノの背中から伸びた一本が、結晶とティリアの手の間に滑り込んでいた。先端は鋭く尖り、光苔の光を弾いて鈍く光っている。


 ティリアは息を止めた。手を引く間もなく、目の前にゼノの顔があった。


 振り返っていた。いつの間にか。


 鬱金色の瞳が至近距離でティリアを捉えている。縦長に裂けた瞳孔が、結晶の光を受けてわずかに開いた。黒い髪が頬にかかり、薄い唇は引き結ばれたまま——何かを言いかけて、呑み込んだ表情。


 沈黙が長かった。


 結晶の紫の光が、ティリアの淡い紫の瞳に映っていた。薄紫と鬱金色が、硝子の回廊の中で交差している。光苔が壁面を青白く照らし、二人の影が結晶に閉じ込められた気泡のように揺れた。


「……壁に触るな」


「なぜですか」


 ゼノの瞳がわずかに開いた。問い返されると思っていなかったのかもしれない。だが答えは来なかった。視線は、先にゼノが外した。蜘蛛脚が音もなく外套の下に引き戻される。背を向け、歩き出す。


* * *


 匂いが変わった。


 石でも苔でもない。冷たい空気の底に、甘い香りが一筋、混じっていた。一度気づいてしまえば、呼吸のたびに鼻腔の奥を掠める。地上の庭園で嗅いだことのある、けれどここにあるはずのない香り。


 花だ。


 結晶の回廊を抜けると、前方にぼんやりとした琥珀色の光が滲んでいた。光苔の青白さとは異質の、温かみのある色。闇の縁を柔らかく照らしている。


 ゼノの歩みが遅くなった。


 通路の口が開けた。


 小さな部屋だった。天井は低いが、通路の圧迫感から解放されて空気が広がる。壁一面に光苔が配されていた——まばらにではなく、あたかも星座のように間隔を計算して、夜空を模したかのような配置で。青白い光の点々が石壁に浮かび、その隙間に、地底の花が静かに咲いている。


 白い花弁を持つ、名前も知らない花。光苔の光を浴びて、花弁の縁が淡く発光していた。床の隅にまで根を伸ばし、石畳の隙間から蔓が這い出ている。冷たい地底の空気にそぐわない、不釣り合いなほど穏やかな生命の色だった。


 壁際に石の寝台が据えられていた。その上に毛布が畳まれ、傍らに陶器の水差しが置かれている。寝台の足元には果物の入った籠。皮が乾き始めているが、黴びてはいない。


 誰かがここで生活するために、この空間を整えた。罠だらけの迷宮の奥に、こんな場所がある。


「ここにいろ。出るな」


 ゼノの声は背中越しだった。部屋の入口に立ったまま、中には入らない。外套の裾が通路の闇に溶けかけている。


「……壁に触るな、と仰いましたね」


 ティリアの声は自分で思ったよりも平坦に響いた。結晶の回廊での出来事を問い返す。蜘蛛脚が目の前を横切り、鬱金色の瞳が至近距離で覗き込んできた、あの瞬間。


 ゼノは答えなかった。


「殺さないのですか」


 背中が止まった。


 外套の下で何かが震えていた。蜘蛛脚だろうか。布の膨らみが微かに揺れ、すぐに収まる。


 長い沈黙が通路に満ちた。答えを拒んでいるのではない、とティリアは思った。あの背中は——言葉を探して、見つけられずにいるように見えた。


 ゼノは振り返らなかった。通路の闇へ歩いていく。足音が遠ざかり、やがて石壁に吸い込まれて消えた。


* * *


 一人になった。


 花の香りが、静かに部屋を満たしている。光苔の星座が天井から壁へ連なり、地底の花が僅かな光を返している。水差しの中の水面が、ティリアの呼吸に合わせてごく微かに揺れていた。


 ティリアは寝台に腰を下ろした。毛布に触れる。厚手の布だった。迷宮の湿った冷気を吸っているはずなのに、手触りだけは柔らかい。


 足裏を見た。小さな切り傷がいくつも走り、薄い血が滲んでいる。裸足で石畳を歩き続けた代償だった。右手首はまだ痛むが、骨には異常がないらしい。


 装束の裾をつまみ、ほつれた縫い目から細い布を一筋引き裂いた。右手首に巻き、歯で端を結ぶ。聖蕾院で覚えた、簡素な固定法だった。


 罠だらけの道を歩いてきたはずだ。足元が沈み、壁が突き出し、頭上で何かが砕けた。それなのに——無傷、とは言わないが、生きている。


 部屋を見回した。


 石の寝台。毛布。水差し。果物。壁に配された光苔。花。これらすべてが、あの異形の手によって用意されたものだとしたら。


 殺す相手に、毛布は要らない。


 立ち上がり、部屋の隅へ歩いた。花と光苔に彩られた壁とは反対側の、薄暗い一角。


 もう一つの寝台があった。


 石を削り出した、小さな台。大人が横になるには窮屈で、子供の身体にちょうど合う大きさだった。表面は古く、長い時間が削り取った丸みを帯びている。その脇に、壊れた玩具が転がっていた。


 木彫りの人形。腕の片方がもげ、塗料が剥げて木目が露わになっている。子供の手のひらにすっぽり収まるほど小さい。


 ティリアは屈んで、人形を拾い上げた。


 軽い。乾き切った木の感触。指先で残された腕をなぞると、刃物ではなく爪のようなもので彫った跡がある。不器用な、けれど何度も形を整えようとした痕跡だった。


 この部屋に、誰かがいた。


 小さな寝台に眠り、この玩具で遊ぶ——そんな大きさの、誰かが。


 光苔の光が揺れた。花弁が空気の流れに震え、甘い香りがほんの少しだけ強くなった。


 ティリアは木彫りの人形を、寝台の上にそっと戻した。


お読みいただきありがとうございます。


次回「暗闇の中の花」


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