白い装束の落下
迷宮の主に捧げられる生贄の少女ティリア。
聖女候補として十年間育てられた彼女が、奈落の底で出逢ったものは――。
ダークファンタジー × 人外ロマンス。
第1話、落下から始まる物語。
※残酷描写があります。
生贄は、蜘蛛に喰われるために落とされる。
石の回廊に聖歌が反響していた。低く、厚く、幾重にも重なる声。香炉から立ちのぼる白檀の煙が天井の暗がりに吸い込まれていく。回廊の先にある奈落からは、湿った風がかすかに吹き上がっていた。迷宮の主に捧げものを届ける道――聖典にはそう記されている。ティリアは裸足の底に伝わる石畳の冷たさだけが、今の自分を現実につなぎ止めているのだと思った。
白い装束。刺繍も染めもない、ただ白いだけの布を幾重にも巻きつけた姿。「奉納の衣」と呼ばれるそれは肩から足首までを覆い、歩くたびに裾が石畳を掃く。華奢な肩から滑り落ちそうな布を、細い指が何度も直していた。風のない回廊で、銀白の髪が装束の上に流れ落ちている。腰まで伸びたその髪を、今日は結わずに来いと言われた。神に捧げるものは、あるがままの姿でなければならないのだと。白い布の中、色彩と呼べるものは銀白の髪と、丸みの残る頬を縁取る小さな顎と、伏せられた淡い紫の瞳だけだった。
回廊の突き当たりに、奈落があった。
柵も手すりもない。石の床がそこで途切れ、その先にはただ闇だけが口を開けている。
「ティリア様」
背後から声がかかった。柔らかく、穏やか。セファ司祭の声だった。
「お気持ちはわかります。誰しも、神の御前に立つときには怖れを覚えるものでございます」
振り返らなかった。振り返れば、銀髪を後ろに撫でつけた痩身の老紳士が、あの変わらない微笑みを浮かべているのだろう。
「けれど、あなたの祈りがこの大陸の民すべてを守る礎となります。一人の命と百万の命、その秤が傾く先に正しい答えはひとつしかない。――それが、あなたにも理解できるからこそ、今ここに立っておいでなのでしょう」
秤。一と百万。セファはいつもそうだった。慈愛と論理を同じ声で語る。そのどちらが本心なのかは、十年経ってもわからない。
十二の歳に両親を失い、教団に引き取られた。聖女候補として祈りの術を学んだ。他の候補たちが一人ずつ姿を消していく中で、最後に残されたのがティリアだった。その意味を、もう知っている。
「セファ様」
「はい」
「お世話になりました」
その言葉は、考えて選んだものではなかった。十年間この人の庇護のもとで生きてきた事実だけが、喉の奥から押し出した声だった。
「ええ、ええ。あなたは本当によい子でございましたね」
揺らぎのない、完璧な聖職者の声。
ティリアは奈落の闇を見下ろした。胸の奥、肋骨の内側で何かが細かく震えている。膝が笑いそうになるのを、奥歯を噛んで堪えた。
――押されるのを、待つのか。
それでは、ここに来るまでの十年と同じだ。差し出され、選ばれ、運ばれ、捧げられる。どこにもティリア自身の意思がない。最期のこの瞬間まで、誰かの手のひらの上にいるのか。
裸足の爪先が、奈落の縁を踏んだ。
淡い紫の瞳が、闇の底を覗き込む。底は見えない。けれど、不思議と、その暗さは嫌いではなかった。聖堂の眩しい光の中よりも、この闇のほうがずっと静かだ。
ティリアは、自分の足で一歩を踏み出した。
石畳の感触が消えた。
* * *
落ちていた。
風が下から吹き上がり、白い装束が頭上へ翻った。布のはためきが耳を塞ぐ。口から漏れた悲鳴は自分のものとは思えないほど甲高く、石壁に反響して割れた。
回廊の明かりが遠ざかる。四角い光がみるみる縮み、星のように消えた。
代わりに、視界の端を何かが流れた。青白い光苔が石壁にへばりつき、落下する速度に合わせて光の線になって上へ上へ伸びていく。
風圧で息が詰まる。髪が逆立ち、装束の布が顔に巻きつく。剥がそうとした手が空を掴んだ。
光苔の筋が途切れた。完全な闇に投げ出される。闇は空ではなかった。奈落の底から何かの息吹が這い上がり、落ちていくティリアの肌を撫でた。
このまま底に叩きつけられて死ぬ。そう覚悟した瞬間、落下の速度がわずかに――ほんのわずかに緩んだ。身体の周囲を何かが掠めた感触。糸のように細く、冷たく、なのにやわらかい何か。
意識が薄れる。
最後に思い浮かんだのは、聖堂の窓から差し込む午後の光の中で祈りの練習をしていた日々だった。あのとき自分は何を祈っていたのか。
思い出せないまま、暗闇に沈んだ。
* * *
冷たい。
それが最初に戻ってきた感覚だった。
頬に触れる空気が冷たい。湿った土と石の匂い。身体の下には硬い地面があり、背中と腰が鈍く痛む。
生きている。
瞼を持ち上げると、ぼんやりとした青白い光が滲んでいた。さっきまでの完全な暗闇とは違う。光苔がまばらに壁に貼りつき、その光だけが視界の頼りだった。
右の手首に鋭い痛みが走った。左手で地面を押し、上体を起こす。装束は泥と埃にまみれて、もう白くはなかった。
あの高さから落ちて、この程度の怪我。不自然だった。背中にも腰にも打撲はあるが、骨は折れていない。落下の最後に感じた、あの糸のようなものが身体を受け止めたのだろうか。
石壁に囲まれた狭い空間。天井からは鍾乳石が牙のように下がり、壁面を走る亀裂の隙間に光苔が根を張っている。落ちてきた穴がどこにあるのかも、暗すぎてわからない。
足元に視線を落とした。
石畳の上に、何か光るものが散っていた。細い線。蜘蛛の巣のように幾重にも張り巡らされた糸が、微かに――本当に微かに――光苔の青白い光を受けて浮かび上がっている。
触れてはいけないと、本能が告げていた。
だが目が離せなかった。聖堂の祭壇に飾られた銀糸の刺繍よりも、祝祭の夜に張られる絹の天蓋よりも、この暗闇の底で淡く浮かぶ糸の方がずっと美しいと思った。
「……綺麗ですね」
声は自分でも意図しないまま漏れ、暗闇に吸い込まれた。
そして、正面の闇が動いた。
最初に見えたのは光点だった。小さな二つの光。次の瞬間、その数が増えた。四つ、六つ。さらに下に、もう二つ。
八つの鬱金色の光点が、横一列に並んでいる。
それが瞳だと気づいたとき、闇の中から輪郭が浮かび上がった。
黒い外套を纏った人影。人間の上半身。だが背中から伸びるもの――黒い甲殻に覆われた四本の脚が、外套を突き破るように広がっていた。蜘蛛の脚だ。先端は鋭く尖り、天井と壁に突き立てられて、その身体を闇の中に吊り下げている。
石壁のあちこちに、深い爪痕が走っていた。何度も何度も引っ掻いたような、無数の溝。
ティリアの身体が強張った。呼吸が止まる。逃げなければ。だが足が動かない。
異形がゆっくりと降りてきた。蜘蛛脚が壁から離れ、石畳に着地する。甲殻が石を擦る音が、狭い空間に響いた。
顔が見えた。若い男の顔。けれど、その八つの瞳は人間のものではない。鬱金色に鈍く光る瞳が、ティリアを捉えて動かない。黒く変色した指先が、微かに震えていた。
唇が開いた。低く、掠れた声。
「黙って死を待て」
それだけ言って、異形はティリアから視線を外した。蜘蛛脚の一本が石壁に突き立てられ、体が再び闇の中に持ち上がる。背を向けるように。離れるように。
ティリアは動けなかった。喉の奥が凍りついている。
それでも、その背中を見つめながら、ひとつだけ確かなことがあった。
この異形は、ティリアが目を覚ます前から、ここにいた。足元に張り巡らされた糸。落下を緩めた、あの感触。そして「死を待て」という言葉。
殺すつもりなら、落下の衝撃に任せればよかった。
なのに、あの糸は張られていた。
異形の蜘蛛脚が闇に溶けていく。黒い外套の裾が揺れ、やがて光苔の青白い光だけが残された。
ティリアは震える両手で自分の身体を抱いた。冷たい。怖い。指先の感覚がない。
けれどもう一度、足元の糸を見下ろした。
光苔に照らされた糸の淡い光が、まだそこにあった。
どれほどそうしていたのか。身体の震えが鈍い疲労に変わった頃、通路の奥から音が聞こえた。
硬い甲殻が石を叩く音――だが、先ほどより静かだった。足音の間隔が長く、慎重に地面を踏んでいる。
光苔の青白い光の中に、影が戻ってきた。
ティリアは身を固くした。けれど、すぐに違和感に気づいた。先ほど八つ並んでいた鬱金色の光点が、二つしかない。人間と同じ位置に、二つだけ。
光苔の薄明かりが、異形の輪郭を浮かび上がらせた。黒髪が額に貼りつき、頬は鋭く削げている。顎の線が刃物じみて尖り、若いはずの顔に飢えた獣のような険があった。黒く変色した指先は――さっきよりも、手首に近い側まで広がっている。
異形はティリアを一瞥した。それだけだった。何も言わず、来た方向へ歩き始める。蜘蛛脚は外套の下に仕舞われているのか、石畳を踏む足音は二本分だけだった。
待って、と言えなかった。ついてこい、とも言われなかった。
黒い外套の裾が、光苔の明かりの端で揺れている。あと数歩で闇に消える。
ティリアは足元の淡く光る糸を見た。それから、異形が去っていく通路の闇を見た。
ここで座り込んでいれば、あの言葉の通り死を待つことになる。それは奈落の縁で、背中を押されるのを待っていたのと同じだ。
膝が痛んだ。手首が軋んだ。それでもティリアは、自分の足で立ち上がった。
暗い通路が果てしなく続いていた。異形の背中はすでに闇に半ば溶け、外套の裾だけが辛うじて見える。
ティリアは裸足の足裏に食い込む石畳の痛みだけを頼りに、一歩ずつ、その背中を追った。
お読みいただきありがとうございます。
次回「蜘蛛の糸」
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