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光の騎士

 迷宮の入口は、岩を削り出した獣の口のような形をしていた。


 ガルド・ヴェルナーは白銀の鎧の胸当てに手を当て、暗い縦穴を見下ろした。奈落の口。聖典教団が管理する迷宮グラナディアの唯一の入口にして、生贄が落とされる裂け目。岩壁に這う光苔の青白い光が、穴の縁を冷たく照らしている。


「ティリア嬢——必ず助け出す」


 声が岩壁に反響して返ってきた。自分の声だとわかっているのに、奈落に吸い込まれた残響は別の誰かの呟きのように聞こえた。


 足元に淡い紋様を描く青白い光を見て、花を思い出した。母が死んだ翌月、父に連れられた貴族の屋敷の庭園で、泣いていた自分の前に銀白の髪の女の子が現れた。泥だらけの膝のまましゃがみ込み、花を差し出して、一言だけ言った。「泣かないで」と。あの小さな手の温度が、まだ胸の奥に残っている。


 あの子の名は、ティリア・エーデルシュタイン。名前を知ったのはずっと後だった。それでも騎士になると決めたのは、あの温度を返すためだ。だから今、ここにいる。


 背後で鎧が鳴った。部下が五名、ガルドを含め六名。教会騎士団の中でも迷宮踏破の経験を持つ精鋭ばかりだった。誰も口を開かなかった。任務の重さを知っている顔ぶれだった。


「よし、降りるぞ。俺に続け」


 ガルドが先頭に立った。光苔の光を頼りに岩の段差を降りていく。鎧の重量が靴底を通じて石段に伝わり、一歩ごとに硬い反響が暗闇の先へ落ちていく。地上の空気が遠ざかり、代わりに湿った石と苔の匂いが鼻腔を満たした。


 第1層。天井一面に群生した光苔が、洞窟を水底のような青に沈めている。通路は広く、罠の気配は薄い。


「隊長、足元に糸です」


 副官の声にガルドは足を止めた。石畳の表面に、ほとんど見えないほど細い糸が一本、通路を横切っている。光苔の光を受けて一瞬だけ銀に光り、角度が変わると消えた。耳を漴ませると、糸が空気に張り詰める微かな音。ぴん、と金属を弾いたような高い一音が、石壁に吸い込まれていった。


「おっと、感知糸だ。触れるなよ。迂回しよう」


 セファから渡された迷宮の構造図を記憶に照らし合わせ、側壁の亀裂から別の通路へ抜けた。第2層への階段は崩れかけていたが、通れる。鎧が狭い通路に擦れて甲高い音を立て、それが石壁に何度も反射して耳障りな残響を作った。


* * *


 第2層は「蟲の回廊」と呼ばれていた。壁面が脈動し、巨大な節足動物の殻が壁に埋まっている。生きている迷宮の中を、ガルドは隊を進めた。


「隊長。さっきの糸——感知用ですね。殺傷機構がない」


 副官の報告に、ガルドは迷わず答えた。


「番人が見張っているんだろう。獲物がいつ来たかを知るための網だ」


 副官は頷いたが、何か言いかけて口を閉じた。殺さずに、ただ見ている糸。だがガルドの思考はすぐに前へ向いた。怪物の習性を考えても仕方がない。やるべきことは変わらない。


 第3層を抜け、第4層への通路に差しかかった。迷宮に入る前に三度読んだ命令書の文面が蘇る。


『聖女候補ティリア・エーデルシュタインを回収し、封印鍵の儀式に備えよ。番人との交戦は許可する。ただし迷宮の構造を不必要に損壊せぬこと。——枢機聖セファ・ローレンティス』


 回収。ガルドにとって、その二文字は「救出」と同義だった。怪物の手から取り戻し、安全な場所に戻す。それだけのことだ。彼女がそれを望んでいるかどうかなど、考える必要すらなかった。怪物に囚われた聖女が助けを求めていないはずがない。封印鍵の儀式の詳細は知らされていないが、セファ枢機聖は「神聖な儀式です」と説明した。疑う理由はなかった。


 副官が壁際の亀裂を指差した。微かな風。下層へ続く道がある。


「よし、進むぞ」


 白銀の鎧を青白い光が舐めた。あの日、小さな手で花を差し出してくれた少女は、今この暗闇のどこかにいる。怪物に囚われ、助けを待っている。そう信じて疑わなかった。


* * *


 振動は、石壁越しに伝わってきた。


 ティリアは灰青の長衣の袖を押さえ、寝台の縁に手をついた。袖口のゼノの糸——構築糸で繕われた白い縫い目が、光苔の光を受けて微かに光る。白い装束よりずっと動きやすいこの衣は、もうすっかり肌に馴染んでいた。誰のものだったかは考えないようにしている。ゼノが選び、ゼノが直してくれたもの。今はそれだけで十分だった。


 壁が震えた。光苔がちらつき、花の部屋に並ぶ紫の花弁から細かな露が落ちる。地震ではない。迷宮が何かに反応している振動だった。石壁の隙間から砂埃が落ち、空気に土の匂いが混じった。


 胸の奥で、祈りの言葉が反射的に浮かびかけた。十年間の習慣。恐怖を感じたとき、不安を感じたとき、無意識に唇が動く。しかしティリアは唇を引き結んだ。祈りは迷宮を揺らす。ルカが教えてくれた。自分の祈りが封印を蝕み、ゼノの身体を蝕む。知ってしまった今、同じことはできない。


 代わりに両手を膝の上で握り、呼吸を整えた。祈らない。祈りの代わりに、ただ息を吸い、吐く。それだけのことが、十年分の習慣を裏切るような後ろめたさを胸に落とした。


 通路の闇が動いた。


 ゼノだった。蜘蛛脚が四本すべて展開され、黒い甲殻が光苔の光を鈍く弾いている。赤錆色の関節が軋み、刃のような先端が石畳に突き立つたびに硬い音が鳴った。外套は脱ぎ捨てられ、背中から生えた脚の全容が露わになっている。


 鬱金色の瞳が、縦長に裂けていた。


「侵入者だ」


 短い一言だった。ゼノの声は低く、平坆で、感情を切り落としたような響きだった。だが蜘蛛脚は違う。四本の脚がそれぞれ別の方向を向き、微細に震えている。感知糸から伝わる情報を処理しているのだとティリアは理解した。


「何人ですか」


「六。武装している。第3層まで来た」


 ゼノの指先、黒く変色した指が壁に触れた。石の表面に波紋が広がり、壁自体が粘土のように歪み始める。構築糸が壁の内部を走り、通路の構造を書き換えていく。


 ゼノがこちらを見た。


 光苔の光が横から射して、黒い髪の輪郭を青白く縁取っていた。額にかかる前髪の隙間から、鬱金色の瞳がティリアを捉えている。蜘蛛脚が壁を抉り、甲殻が軋み、人の形を半ば逸脱した姿。それでも——あの目だけは、いつも人間のままだった。


 視線が一瞬、ティリアの灰青の衣に落ちた。自分が繕ったものを確かめるような、あるいは無事を確かめるような。ほんの一拍。それだけで、蜘蛛脚の一本が微かに揺れた。


「ここを動くな」


 声は固かった。だが「動くな」と言ったゼノの手が、壁に触れたまま止まっていた。指先から波紋が広がり、ティリアの部屋の壁だけが厚くなっていく。守りを固めているのだと気づくのに、時間はかからなかった。


「……気をつけて」


 言葉が出たのは無意識だった。ゼノの足が止まった。振り返りはしなかった。蜘蛛脚が天井と壁に交互に突き立ち、人間の走行より遥かに速く暗闇の奥へ消えていく。


 ティリアは一人になった部屋で、膝の上の手を見つめた。灰青の袖から覗く自分の指が、微かに震えている。侵入者。武装した六人。教会の騎士だろうか。助けに来たのだろうか。


 助け——その言葉が胸の中で妙な引っかかりを残した。


 ここから出たいのか、と自分に問うた。一週間前なら、迷わず「はい」と答えただろう。今は答えが出ない。教会に戻れば、セファの前に立つことになる。「あなたは神に感されている」と微笑んだあの人の前に。祈りが迷宮を揺らすことを、あの人は知っていたのではないか。夢の中のセファの笑みが、まだ目の裏に貼りついていた。


 壁が再び震えた。今度はさっきより強い。青白い光が一斉にちらつき、暗闇が部屋を舐めて消えた。迷宮が組み替わっている。ゼノが通路を改変して、侵入者を迎え撃っているのだ。


 ティリアは立ち上がり、部屋の入口に歩み寄った。通路の先は暗く、壁が蠢いている気配だけが振動で伝わってくる。


 そのとき、気づいた。


 足元の石畳を見た。部屋の入口から伸びる通路は三方向に分かれている。右の通路は壁が閉じかけ、狭く歪んでいる。左の通路は天井から鋭い岩の棘が垂れ下がり、光苔すら押し潰されて暗い。


 正面——ティリアがいる部屋に続く通路だけが、何も変わっていなかった。


 罠がない。壁も、天井も、床も、そのまま。自分がいる方向にだけ、迷宮の牙が向いていない。


 息を呑んだ。指先の震えが止まった。代わりに胸の奥が、静かに、混く、痛んだ。


お読みいただきありがとうございます。


次回「避ける罠」


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