避ける罠
走り出したのは、壁が閉じ始めたからだった。
右の通路の壁が軋みを上げて狭まり、左の天井から岩の棘がさらに一本、湿った音を立てて突き出した。遠く、何層か上から、金属が石を打つ反響が微かに届く。鎧の音だ。侵入者たちがまだ迷宮の中にいる。ゼノがそれを迎え撃つために構造を変えている。そう理解するのに一瞬で十分だった。
部屋にいるべきだ。ゼノはそう言った。だが壁がこちらに向かって迫ってくる気配があった。花の部屋の入口の上の石壁に亀裂が走り、光苔が剥落して足元に散った。迷宮の改変が、この部屋の周辺まで波及している。
ティリアは正面の通路へ踏み出した。
足裏に石畳の冷たさが伝わる。灰青の衣の裾が足首を掠め、光苔の淡い光が通路の先を水底のように青く染めていた。走る。石畳の継ぎ目を踏むたびに、自分の足音が壁に反射して耳に返ってくる。
三歩目で、足元の石板が沈んだ。
踏み抜いたのではない。重量で僅かに沈む仕掛けの石板、罠の起動部だ。花の部屋で過ごした日々の中で、ゼノが通路を改変する音を何度も聞いていた。石板が沈む感触には覚えがある。
だが、何も起きなかった。
沈んだ石板はそのまま元の高さに戻り、静まった。耳を澄ませても、刃が飛び出す音も、壁が閉じる音もしない。足の裏に残るのは冷たい石の感触だけだった。
七歩目。左の壁面に、糸が張られていた。光苔の光を受けて一筋だけ銀色に光る感知糸。だがそれはティリアの頭より高い位置を走り、指先すら届かない高さに配置されている。通路を横断するように張られた糸は、身を屈めるまでもなくティリアの身体を避けていた。
十二歩目。石畳の右端が微かに盛り上がり、構築糸の紋様が浮いている。迷宮が新しく生成した壁の根元。ティリアが通路の左端を走れば、盛り上がった部分には触れずに済む。そしてティリアが自然に走る幅は、左寄りだった。
バランスを崩しかけて、壁に手をついた。
指先の下で、石が金色に灯った。手のひらの形に沿って光が滲み、指を離すと消えた。迷宮が、応えている。ゼノの意志なのか、迷宮そのものの反応なのか。ゼノが迷宮で、迷宮がゼノだと、ルカは言った。その境界は、きっと本人にもわからないのだろう。
足を止めた。
呼吸が浅い。走った距離はそれほどでもないのに、胸が詰まるような圧迫感があった。振り返る。来た通路を目で辿り、それから前方の暗がりに視線を移した。
罠が、自分を避けている。
花の部屋の入口で気づいた違和感が、今は確信に変わっていた。迷宮はゼノだとルカは言った。ならばこの罠の空白は——ゼノの意思だ。殺せる牙を、自分にだけ向けていない。石板の罠は足元で沈んだのに発動しない。感知糸は頭上を通過し、構築糸の隆起はティリアの歩幅の外にある。自分が通る道だけが、安全地帯になっている。
通路の先に、影が立っていた。
ゼノだった。天井と壁に突き立てた四本の脚で、通路の上半分を覆うように身体を支えている。外套はやはり纏っておらず、黒い甲殻に光苔の光が冷たく走っている。逆さまに近い姿勢で、鬱金色の瞳がティリアを見下ろしていた。
「動くなと言った」
「すみません。部屋の壁に亀裂が入って——」
「知っている。戻す」
ゼノの指先が天井に触れ、構築糸の波紋が壁面を伝播していく。通路の奥で石が軋む音がした。花の部屋を修復しているのだろう。
ティリアは唇を湿した。
「ゼノ」
「何だ」
「罠が——私を避けています」
言葉にした瞬間、通路の空気が凍りついたような錯覚があった。背中の四本が一瞬だけ硬直し、赤錆色の関節が軋んだ。
「……気のせいだ」
短い否定。だがゼノの瞳はティリアから逸れた。天井に刺さった蜘蛛脚の一本が微かに震えている。ゼノの否定は、否定になっていなかった。
追及する間はなかった。
ゼノの身体が痙攣した。
天井から蜘蛛脚が外れ、石の破片が散った。着地は乱暴で、四本の蜘蛛脚が石畳を穿つように突き立ち、ティリアの足元まで亀裂が走った。
ゼノの背が丸まっている。蜘蛛脚が——四本ではなく、脇腹の辺りから五本目の影が蠢いていた。殻を破るような湿った音。黒い甲殻の表面に細かな罅が入り、その下から新しい甲殻が覗く。脱皮に似た、けれどもっと暴力的な変容。
ゼノの喉から、呼吸とも呻きともつかない音が漏れた。顎が軋み、歯を食い縛る音が石壁に反響する。人の形をした上半身がそのままなのに、背中から腰にかけてが蜘蛛に侵食されていく。黒い髪の生え際に甲殻の光沢が滲み、髪なのか殻なのか判別がつかない境界線が額から耳の後ろへ走っていた。鬱金色の瞳が閉じ、再び開いたとき、瞳孔は縦に裂けた線になっていた。
飢えの発作。
ティリアはそれを直感した。ゼノが長期間捕食を拒んでいること、その代償として蜘蛛化が進行すること。ルカの断片的な言葉と、迷宮での日々から繋ぎ合わせた理解だった。
黒い甲殻が光苔の光を吸い込むように鈍く光り、その隙間から覗くゼノの横顔は——顎の筋が浮き上がるほど歯を食い縛り、額に汗の粒が並んでいた。青白い光がそれを冷たく照らしている。怪物の殻の中に、人間の表情がある。その対比が胸を突いた。
ティリアは足を動かした。後ろへではなく、前へ。
「大丈夫ですか」
声は震えなかった。自分でも不思議なほど落ち着いた声だった。手を伸ばした。ゼノの肩に——黒い甲殻と人間の肌の境界線に、指が届こうとした。
「触るなッ!」
蜘蛛脚が振るわれた。
刃状の先端がティリアの胴を薙ぐように横に走り、衝撃が腹から背中へ突き抜けた。足が浮く。身体が通路の壁に向かって弾き飛ばされ、背中が石壁に打ちつけられた。
息が詰まった。肺の中の空気が一瞬で押し出され、視界が白く明滅する。壁に背をつけたまま、石畳に座り込む形になった。灰青の衣の腹の辺りに、横一筋の皺が走っている。蜘蛛脚の先端が布を擦った跡。だが裂けてはいない。肌にも傷はなかった。
痛みはある。背中を打った鈍い痛み。だが、それだけだった。
蜘蛛脚の刃は——刃であるにもかかわらず——ティリアを切らなかった。弾いただけだった。弾くだけで済む力加減を、発作の最中にあるゼノの身体が、選んでいた。
ティリアは顔を上げた。
ゼノが後退っていた。壁と天井に脚を突き刺し、身体を通路の奥へ引きずるように遠ざかっている。五本目は引っ込んでいた。発作は収まりかけている。だがゼノの表情は、発作の最中よりも歪んでいた。
鬱金色の瞳が、自分の蜘蛛脚とティリアの間を往復している。ティリアが壁に背をつけて座っている姿と、自分の脚の先端。その二つを交互に見て、ゼノの身体が、発作とは違う震え方で、震えていた。蜘蛛脚の四本すべてが身体側に引き寄せられ、甲殻の先端が内側を向いている。発作のときの外へ向かう震えとは逆だった。まるで自分の脚を隠そうとするように。
その震え方を見て、ティリアは理解した。ゼノは自分がしたことを理解している。理解して、怯えている——ティリアにではなく、ティリアを傷つけかけた自分自身に。
「……お前は、なぜ逃げない」
声が裂けていた。命令でも否定でもない。初めて聞く種類の声だった。問いかけている。わからないのだ。怪物に弾き飛ばされた人間が、なぜ恐怖の顔をしていないのか。ゼノには、わからない。
「……部屋に、戻れ」
声が掠れていた。命令の形を取りながら、その声は懇願に近かった。ゼノの背中が暗闇に沈んでいく。蜘蛛脚が壁を掴み、天井を蹴り、人間ならぬ速度で通路の闇の奥へ消えようとしている。
ティリアは壁に手をついて立ち上がった。背中の痛みが鈍く響いたが、立てる。歩ける。ゼノの蜘蛛脚は、ティリアが立ち上がれる程度の力しか使わなかった。
暗闇の先で、ゼノの蜘蛛脚が壁を掴む音が遠ざかっていく。
ティリアは暗い通路の奥を見つめた。ゼノが消えた方向。罠が避けてくれる安全な通路。石畳の冷たさが裸足の足裏から脛へ昇ってくる。
怖くなかった。
怖くないことが、怖かった。怪物に弾き飛ばされたのに、胸を占めるのは恐怖ではなく、遠ざかっていくゼノの背中への——名前をつけられない、静かな痛みだった。
花の部屋は、背中の方向にある。
ティリアは振り返らなかった。灰青の衣の裾を掴み、暗い通路へ一歩、踏み出した。
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次回「飢えの正体」
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