飢えの正体
暗い通路を、ティリアは歩いた。
裸足の足裏が石畳を踏むたびに冷たさが脛まで昇ってくる。光苔の光はまばらで、壁の半分は闇に沈んでいた。ゼノの蜘蛛脚が壁を掴む音はとうに聞こえなくなっている。追いかけているのに、追いつける気配がない。
十歩。二十歩。通路の突き当たりで道が左右に分かれた。
右の通路は暗い。光苔が一つもなく、冷たい空気が足元を這っている。左の通路には光苔が点々と灯り、青白い光が壁を染めていた。光の先に見覚えのある石壁の紋様が見える。
左は花の部屋への道だ。
ティリアは右の通路へ足を向けた。だが一歩を踏み出した瞬間、右の壁が音もなく動いた。石壁が横へ滑り、通路を塞いでいく。ゆっくりと、しかし確実に。壁が閉じ切る前に通れなくはないが、身体を滑り込ませるには躊躇する狭さだった。
左の通路では、光苔が一つ、また一つと灯り始めた。ティリアを導くように。あるいは、ティリアをそちらへ追い込むように。
迷宮の意思か。ゼノの意思か。その境界はもう、誰にもわからない。
ティリアは右の壁に指先を触れた。石が掌の下で金色に明滅し、淡い温もりを返した。壁は完全に閉じた。
左へ歩いた。追いかけようとした足は、結局花の部屋に向かっていた。
* * *
花の部屋に戻ると、壁の光苔が不安定に明滅していた。
一定の間隔ではない。早く瞬いたかと思えば長く消え、また点く。心臓の鼓動に似ている。不整脈を起こした心臓の。部屋の隅に咲く薄紫の花が、光苔の明滅に合わせて青白く見えたり、闇に沈んだりを繰り返している。
ゼノの感情が乱れている。
迷宮の光がゼノの内面を映すことを、もう知っていた。穏やかなとき光苔は静かに灯り、苛立つとき壁が軋む。今の明滅は、苦しんでいる。
石壁に背をつけて座った。背中を打った鈍い痛みがまだ残っている。衣の腹に横一筋の皺。ゼノの蜘蛛脚が擦った跡。切れてはいない。傷もない。発作の最中でさえ、この身体を壊さないだけの制御が働いていた。
光苔がひときわ長く消えた。闇の中で、花の匂いだけがやけに強く鼻腔を満たした。甘い、けれど湿った匂い。地下の花の、陽を知らない甘さ。
壁の向こうで、何かが軋んだ。
「ティリアおねえちゃん」
声は壁の中から聞こえた。ルカの赤毛が壁を抜けて突き出し、それから小さな身体がするりと滑り出てくる。緑の瞳が光苔の不安定な光を映してちらちらと揺れていた。
「戻ってきたんだね」
「……ルカ。ゼノは」
「ゼノは下の方にいるよ。ずっと下。今は誰にも会いたくないんだと思う」
ルカは床に腰を下ろし、膝を抱えた。光苔が消えるたびにその姿が暗がりに融け、灯るたびに赤毛だけが浮かび上がる。
「ねえ」ティリアは膝を抱え直した。「ゼノは——何に飢えているの?」
ルカの緑の瞳が、まっすぐにティリアを見た。子供の目なのに、その奥に幾つもの視線が重なっている気がした。
「ゼノはね、ここの番人だから」
ルカの声は淡々としていた。感情的な修飾を一切含まない、事実だけの声。
「番人は食べないといけないんだよ。迷宮が動くために。封印がもつために。食べないと、身体がどんどん蜘蛛になっちゃうの」
光苔が強く瞬き、ルカの表情に影が走った。
「でもゼノは食べないの。ずっと、ずっと食べてない。前に食べたのは——ぼくが生まれる前」
ルカの声がそこで微かに揺れた。すぐに元の調子に戻ったが、その一瞬の揺れの中に、ルカが「何で」できているのかという答えの片鱗が透けた。
「ぼくがここにいるのは……四年くらい、かな。たぶん」
ルカは指を折って数えるような仕草をして、すぐにやめた。迷宮には季節がない。日付もない。それでもルカの身体感覚が四年という数字を覚えていた。
「食べないから、身体が壊れていくの。脚が増えて、殻が広がって。いつかぜんぶ蜘蛛になったら——ゼノはゼノじゃなくなっちゃう」
ティリアの指先が膝の上で硬くなった。
ゼノが何かを我慢していることは、発作を見て理解していた。蜘蛛脚が増えたこと、甲殻が広がっていくこと、それが代償であること。だが「何を」我慢しているのか。食べることを拒んでいるのだと、今はっきりと像を結んだ。
「ルカ」
「なに?」
「ゼノに——食事を、持っていきたいの」
ルカは少し首を傾げ、それから小さく頷いた。
「影魚なら、第三層の水場にいるよ」
* * *
影魚は手のひらほどの大きさの、半透明の魚だった。
第三層の水場でティリアが捕った二匹を、薄い石板の上に並べて運んだ。光苔の光を受けて、死んでなお鱗が淡く発光している。ルカに教わった道を辿り、花の部屋から階段をいくつか下った先の空洞に辿り着いた。
ゼノは空洞の天井近くにいた。
蜘蛛脚を岩の窪みに掛け、身体を丸めている。外套はない。背中の四本の蜘蛛脚が力なく垂れ、黒い甲殻の表面に光苔の光が鈍く走っていた。髪の生え際の甲殻は、先ほどより引いていた。発作は収まったらしい。だが蜘蛛脚を収納する余力がないのか、むき出しのまま岩壁にもたれている。
「ゼノ」
呼びかけに、鬱金色の瞳が薄く開いた。縦に裂けた瞳孔は、まだ人間の丸さに戻りきっていない。
「……なぜ来た」
「食事を持ってきました」
ティリアは石板を差し出した。影魚の淡い光がゼノの顔を下から照らし、頬骨の影が混く落ちた。頬がこけている。以前よりも。
ゼノの視線が影魚に落ち、そこで止まった。
「……俺は、それは食えない」
静かな声だった。拒絶ではなく、事実の提示。水を飲めない者に水を差し出されたときの、そういう種類の声。
「では——何なら、食べられるのですか」
ティリアの声も静かだった。問いの形をしているが、半分はもう答えを知っている声だった。
ゼノが目を逸らした。
鬱金色の瞳がティリアから外れ、空洞の壁を見た。石板の影魚を見た。自分の黒く変色した指先を見た。どこを見ても答えがなく、どこを見ても答えがある。そういう目の動きだった。
ティリアの心臓が速くなった。石板を持つ手が微かに震え、影魚の光が揺れた。
番人は食べないといけない。でも影魚は食べられない。迷宮に送られてくるのは——
生贄だ。
ティリアは石板をゆっくりと膝の上に下ろした。
自分自身が、「食べ物」なのだ。
ゼノが食べられるものは、この迷宮に送り込まれた人間。今この迷宮にいる人間は自分だけ。ゼノが飢え、身体を蝕まれ、理性を削られながらも拒み続けているもの。それは目の前にいる。自分の手が、肩が、この心臓が。ゼノの飢えを満たすものだった。
石板の上の影魚が光を失い始めた。淡い発光が薄れ、ただの魚に戻っていく。その光の消え方を、ティリアはぼんやりと見つめた。
怖い、と思った。だが胸を締めるものの輪郭が違う。喰われることへの怖さではなかった。ゼノが——この飢えに、いつか負ける日が来ること。そちらの方が、喉の奥がきつかった。
手が震えている。石板の端を握る指が白くなっている。
顔を上げた。
ゼノはまだ壁を見ていた。目を逸らしたまま、こちらを見ない。見られない。その横顔は——飢えていることそのものを恥じるように強張り、唇の端が僅かに引き下がっていた。存在を詫びるような、そういう顔だった。
「それでも」
ティリアの声が空洞に響いた。震えていた。だが途切れなかった。
「あなたは——食べなかったのですね」
ゼノの蜘蛛脚が震えた。四本すべてが、微かに、同時に。岩壁を掴む先端が石を削り、細い粉が散った。
沈黙が落ちた。光苔の明滅だけが時間の経過を刻んでいる。
ゼノの唇が動いた。声にならなかった。喉仏が上下し、もう一度、唇が開き——
「……食わなかったんじゃない」
声は掠れ切っていた。空気が声帯を擦る音がそのまま言葉になったような声。黒く変色した指先が、自分の膝を掴んでいた。
「食えなかった——だけだ」
空洞の空気が止まった。光苔の明滅すら、一拍だけ途切れた気がした。
目が、ティリアを見た。逸らしていた鬱金色の瞳が、初めてまっすぐにティリアを捉えた。縦長の瞳孔の奥に、飢えとは別の光が揺れていた。
ティリアの手から震えが消えた。
何も言えなかった。ただ、ゼノの黒く変色した指先を見つめた。この指が、四年の間、誰も喰わなかった。喰えなかったのだ——この人は。
ゼノの蜘蛛脚が、小さく震え続けていた。
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次回「壊れていく身体」
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