壊れていく身体
中層。第四層の回廊。
松明の火が壁に揺れる影を踊らせ、金属の足音が石畳に反響している。その足音が、減っていた。
ガルド・ヴェルナーは立ち止まり、後方を振り返った。
ガルドを含め六人だった部隊が、四人になっている。第三層の落とし穴で一人がはぐれ、第四層に入った直後の壁の移動でもう一人が別の通路に隔離された。
「隊長、壁が——」
副官の声が途切れた。左右の壁が僅かに狭まっている。音はない。静かに、じわりと。鎧の肩当てが壁面を擦り、金属の軋みが耳障りに響いた。
「止まるな。進め」
ガルドの声に普段の朗らかさはなかった。迷宮が意志を持っているとしか思えない動き。罠ではない。罠なら一度発動して終わる。だがこの迷宮は常に変わり続けている。通路が消え、壁が現れ、階段が沈む。地図を描こうとした騎士は、三度描き直して紙を破り捨てた。
壁が元の幅に戻った。代わりに、背後の通路が消えていた。振り返ると、来た道があった場所に石壁が立っている。戻る道はない。
四人の騎士の息遣いが荒い。ガルドだけが前を見ていた。碧眼に松明の火が映り、その奥で何かが揺れている。
ティリアがこの先にいる。教会がそう言った。聖女を、花をくれたあの少女を、怪物の巣から連れ戻す。それだけのはずだった。ガルドは副官に振り返り、短く命じた。「聖女の身体に傷一つつけるな。確保を最優先にしろ」。身体の安全。無事な帰還。それがすべてだった。聖女が怪物に囚われている——その構図の外側を、ガルドは見ていなかった。
壁の向こうで、何かが蠢く音がした。糸が石を擦る、細い、細い音。
ガルドは剣の柄を握り直した。
反響の間に至るまでに、部隊はさらに一人を失った。足を挫いた部下を広間に残し、残り三人。松明はとうに消え、光苔の青白い光だけが頼りだった。
壁に、文字が刻まれていた。古い墨で書かれた言葉——深く進むほど字が崩れ、最後は爪で引っ掻いたような線だけになる。歴代の番人の痕跡だ。
「隊長。撤退を進言します」
副官の声が反響して石壁に跳ね返った。自分の声ではない別の声が混じっている。この層はそういう場所だった。
「退くな。あと少しだ」
碧眼が暗闇を射る。通路の奥から、微かな振動が伝わってくる。壁の向こうで何かが蠢いている。糸だ。石壁を這う無数の糸の気配が、肌に粘りつくように感じられた。
番人が近い。
* * *
ゼノの指先が、昨日よりも黒い。
朝。この迷宮に朝があるとすれば、光苔が緩やかに明るさを増す時間がそれだった。花の部屋の壁を覆う苔が淡く灯り始めた頃、ティリアは目を覚ました。身体を起こすと、部屋の反対側の壁にもたれるゼノの姿がまず目に入った。
昨夜、あの空洞にいたはずだ。
いつ戻ったのかはわからない。だが今ゼノは花の部屋にいた。外套の裾が床に広がり、背中の蜘蛛脚が収まっていない。四本の甲殻の先端が外套の襟元と裾から突き出し、壁面に添えられている。黒い殻に光苔の光が滑り、鈍い艶を帯びていた。
以前は隠せていた。外套の下にすべて収められていた。
ティリアは立ち上がり、ゼノの傍へ歩いた。足音に反応して鬱金色の瞳が薄く開く。瞳孔は縦に裂けたまま、人間の丸さに戻る気配がなかった。
そのとき、ゼノの手が目に留まった。
膝の上に投げ出された右手。指先から第二関節まで、黒い変色が昨日より深い。爪が伸びている。人間の爪の形を辛うじて保ってはいるが、先端が尖り、表面に甲殻と同じ鈍い光沢が浮いていた。光苔の光を受けて黒光りする質感は、石でも金属でもない。生きている殻だ。
何も言えなかった。
ゼノの瞳がティリアの視線を追い、自分の手に落ちた。一拍の沈黙。ゼノは手を外套の下に引いた。
「……見るな」
短く、低い声だった。外套の下に引いた手が、もう片方の手で覆われた。黒く変色した指先を隠すように、握り込むように。関節が白くなるほど力がこもっている。
* * *
光苔の熱で影魚を炙りながら、ティリアは花の部屋に戻った。
ゼノは同じ場所に座っていた。壁にもたれ、背の甲殻を壁面に預けたまま。ティリアが石の皿を自分の膝元に置いて食べ始めても、動かない。立ち去りもしない。
昨日までは違った。ティリアが食事をする気配を感じると、ゼノは部屋を出た。影魚を食べられないことを知っている。迷宮の番人が必要とする糧は影魚ではないことを、今は互いに知っている。
それでも、ゼノは部屋にいた。
影魚の身をほぐしながら、ティリアはゼノを見ないようにした。見れば、ゼノは居心地が悪くなって出ていくだろう。だから視線は手元に落とし、魚の骨を丁寧に除きながら、ただ同じ空間にいた。
食べる音だけが花の部屋に響いた。ゼノの背から伸びた脚の関節が時折、乾いた擦過音を立てる。甲殻と甲殻がこすれる、硬くて細い音。生き物の体内で骨が軋むときに似ている。
ティリアの手が止まった。
食事が終わると、ティリアは水差しから石の器に水を注いだ。立ち上がり、四歩の距離を二歩だけ歩いた。ゼノの前に器を置く。水面に光苔の光が揺れている。何も言わず、二歩戻って壁に背を預けた。
ゼノの視線が器に落ちた。長い間、水面を見ていた。飲めるかどうかはわからない。だが手は伸びなかった。器はそのまま、二人の間の床に置かれた。四歩だった距離の、真ん中に。
ティリアの指が影魚の骨を避ける。白い指先が小さな骨を摘み、石の皿の端に並べていく。視界の隅で、ゼノの黒く変色した指先が膝の上で微かに動いた。同じ手の形をしているのに、片方は食べ物に触れ、片方は触れるものを持たない。
光苔がほんの僅かに、赤みを帯びていた。
いつもの青白い光に、薄く朱が差している。花弁の影が壁に落ちる色が変わり、紫だった影が暗い赤褐色になっていた。以前、深層に迷い込んだときに見た光に似ている。迷宮の深い場所では光苔が赤く、空気が重く、壁の石が湿って生温かった。
ゼノの制御が弱まっている。迷宮の深層の性質が、この部屋にまで滲み出している。
「ゼノ」
呼びかけると、鬱金色の瞳がこちらを向いた。瞳孔は縦のまま。だがその奥の色は昨夜と変わらない。飢えと、飢えに抗うものが同居する光。
「光苔が……少し赤いですね」
ゼノの視線が壁を這い、光苔の色に気づいた。唇が薄く引き結ばれた。
「……深層が近づいてきている」
「あなたの力が、弱まっているから?」
ゼノは答えなかった。答えないことが、答えだった。
* * *
午後。光苔の明るさが頂点を過ぎて僅かに陰り始めた頃、ルカが壁から顔を出した。
「ティリアおねえちゃん、こっちこっち」
赤毛の頭が壁の継ぎ目から生えるように現れ、小さな手がティリアを手招く。ゼノは意識を沈めていた。壁にもたれたまま、四本の脚を力なく垂らして。瞳を閉じているとき、その顔は歳相応の青年に見えた。黒い甲殻も変色した指も、生え際に滲む殻の光沢も、睫毛の影に隠れて見えない角度がある。その角度からだけ、ゼノは十七か十八の青年だった。
音を立てないように立ち上がり、ルカの後をついて通路に出た。
「どうしたの?」
ルカは通路の壁に腰かけ、足をぶらぶらと揺らしていた。足が壁をすり抜けそうになり、慌てて戻す。緑の瞳が何かを考えるように細められた。
「ゼノ、昨日よりひどくなってるでしょ」
「……うん」
「前のときもこうだった」
ルカの声が変わった。子供の声なのに、言葉の選び方が違う。もっと遠い場所から響いてくる声。
「食べないと、どんどん変わっちゃうの。指が黒くなって、脚がしまえなくなって、目が戻らなくなって——」
「前のとき?」
ティリアは聞き返した。ルカは「前のとき」を知っている口ぶりだった。だがルカが生まれたのは、ゼノが三人目の生贄を喰った後だと、ルカ自身がそう言った。
ルカの足が止まった。ぶらぶらと揺れていた足が、ぴたりと。
「……わかんない」
緑の瞳が書った。何かを掴みかけて、指の間から零れ落ちたような顔だった。
「なんでそう言ったんだろ。ぼく、前のことなんて知らないのに」
首を傾げた。赤毛が揺れ、光苔の赤みがかった光を浴びて銅色に輝いた。
ティリアの胸の底が冷えた。ルカの中に、ルカではない誰かの記憶がある。過去の生贄たちの、ゼノが喰った子供たちの記憶が、この少年の中で時折浮上する。ルカ自身はそれを自覚していない。自分の言葉がどこから来たのかわからず、困惑する姿が痛ましかった。
「大丈夫よ」
ティリアはルカの赤毛に手を伸ばした。指が触れると、ルカの髪は普通の子供の髪の質感だった。温かく、少し癖がある。
「思い出さなくていいの」
ルカは小さく笑った。笑みの形がどこか不安定で、目の奥が笑っていなかった。すぐに子供の顔に戻り、壁を蹴って立ち上がる。
「ねえ、ゼノにお水持っていこうよ。飲めるかわかんないけど」
* * *
夜が来た。
光苔の光量が落ち、花の部屋が薄暗くなる。赤みは消えず、むしろ強まっていた。青白い光が朱に染まり、部屋の空気が重い。花が——薄紫だったはずの花弁が、光のせいで血の色に見える。
ティリアは壁際に座り、膝を抱えていた。
部屋の反対側で、ゼノが壁に手をついた。
突然の動作だった。座っていたゼノが身体を折り、片手を壁につき、もう片方の手で口元を押さえた。背の四本の腕が壁を引っ掻き、甲殻が石を削る鋭い音が部屋に走った。
ティリアは立ち上がりかけた。だがゼノの蜘蛛脚の一本が壁面を薙ぎ、警告するように空気を裂いた。近づくな、と。
ゼノの肩が上下していた。呼吸が荒い。口元を押さえる手の下から、掠れた音が漏れている。唸り声ではない。もっと深い場所から絞り出される、耐えている音だった。
飢えの衝動。
身体が求めている。ゼノの意志とは無関係に、迷宮と融合した身体が、封印のために必要な糧を求めている。ここにある。すぐ近くに。手を伸ばせば届く距離に——。
ゼノの鬱金色の瞳が、ティリアを見た。
一瞬だった。壁に手をつき、口元を押さえたまま、縦長の瞳孔が暗がりの中でティリアを捉えた。光苔の赤い光を映した瞳は、飢えた獣そのものだった。
すぐに逸らされた。
ゼノは顔を壁に向け、額を石壁に押しつけた。背の脚が力なく垂れ、甲殻の先端が床に触れて乾いた音を立てた。
呼吸が整うまで、長い時間がかかった。
ティリアは立ったまま動けなかった。心臓が速い。恐怖ではなかった。あの一瞬の視線の中に見えたものに、胸が軋んだ。飢えていた。だがそれだけではなかった。飢えの底に、ティリアを見てしまったことへの恐怖があった。自分自身を恐れる目だった。
ゼノの額が壁から離れた。横顔が光苔の赤い光に照らされ、額の生え際の甲殻が鈍く光った。髪と殻の境目がもう曖昧になっている。それでも頭の線は人間のもので、唇の形は人間のもので、睫毛の影は人間のものだった。
ゼノの手が、無意識に口元を庇っていた。誰かを喰わないよう、自分の手で自分を押さえつけるその仕草が、まだ人間のものだった。
「ゼノ」
名前を呼んだ。声は震えなかった。
ゼノは答えなかった。だが壁に向けていた身体が、僅かに、ほんの僅かに——ティリアのいる方へ傾いた。
それだけで十分だった。
ティリアは四歩分の距離を詰めず、その場に座った。同じ部屋の、同じ赤い光の下で。二人の間の床に、水の入った石の器がまだ置かれていた。ゼノの蜘蛛脚の先端が——四本のうち一本だけが、無意識にティリアの方へ僅かに傾いていた。
光苔の赤が、少しだけ薄くなった気がした。
そのとき、足元の石が震えた。微かに、だが確かに。壁の奥——何層も下から、金属と石がぶつかる反響が這い上がってくる。鎧の音だ。
ゼノの蜘蛛脚が、一斉に壁面を掴んだ。
お読みいただきありがとうございます。
次回「差し出された腕」
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