差し出された腕
一晩中、眠れなかった。
壁にもたれ、膝を抱えたまま、ティリアは光苔の赤い光を見つめていた。ゼノの呼吸が壁の向こうから聞こえる。荒い吐息が途切れ、静まり、また荒くなる。その繰り返しが夜通し続いた。
光苔の明るさが増し始める。迷宮の朝が来た。
赤みは薄れなかった。昨夜よりもなお深く、光苔の光が朱色に染まっている。花弁の影が壁に落ちる色は、もう赤ではなく黒に近い。空気が重い。深層特有の湿った生温かさが鼻腔の奥にまとわりつく。迷宮の深層が、この部屋のすぐ裏側まで迫っている。
ティリアは立ち上がった。膝が軋んだ。一晩同じ姿勢でいた身体が強張っている。両手を握り、開き、また握った。
昨夜のゼノの瞳が脳裏から消えない。
飢えた獣の目だった。だがティリアが見たのは飢えではなく、その底にあったものだ。自分がティリアを見てしまったことへの恐怖。自分自身に向けられた嫌悪。壊れていく身体と、壊れまいとする意志の間で引き裂かれる瞳。
あのまま何もしなければ、ゼノは壊れる。
わかっていた。ルカが言った言葉が耳に残っている。指が黒くなって、脚がしまえなくなって、目が戻らなくなって。その先にあるものを、ティリアは知っていた。ゼノが人間でなくなる。完全に迷宮に呑まれ、番人という名の怪物に変わる。
口元を押さえる手が、震えていた。自分を喰わないために、自分自身を押さえつけていた。あの手を見たとき、胸の底が裂けるように痛んだ。聖女の使命ではない。教会の教えでもない。ただ、あの手の震えを止めたかった。あの人がこれ以上壊れていくのを、見ていられなかった。
だから決めた。
決めたのは昨夜ではない。ゼノの目がティリアを捉え、すぐに逸らされたあの一瞬に、もう決まっていた。
* * *
壁の向こうで、ガルドたちが動いている。
ゼノは花の部屋の壁に手を当てていた。指先の黒い甲殻が石壁に沈み、迷宮と繋がっている。瞳は閉じられ、意識の大半が迷宮の深層に向けられていた。
第五層。骨の庭園の通路を、三つの足音が進んでいる。先頭の足音が重い。鎧の男だ。
ゼノの背から伸びた四本の腕が壁面を叩いた。構築糸が石壁の内側を走り、骨の庭園の通路構造が組み変わる。侵入者たちの進路を塞ぐ壁が生成され、迂回路が消え、第六層への階段が壁の奥に呑み込まれた。
だが昨日なら瞬時に終わる操作に、三呼吸かかった。
糸が鈍い。壁が動く速度が遅い。だが塞いだはずの壁の向こうで、剣が石を砕く音がした。侵入者が壁を壊して進んでいる。ゼノが構築する速度を、侵入者が突破する速度が上回りつつある。
ゼノの指先が壁を掻いた。黒い爪が石に溝を刻む。もう一度、壁を塞ぐ。糸が走る。だが応答がさらに遅い。迷宮がゼノの命令に追いつけなくなっている。
「——まだ、持つ」
呟きは自分に向けたものだった。壁から手を離すと、指先の黒が一段深くなっている。第二関節を超え、指の腹にまで殻の光沢が広がっていた。迷宮を操るたびに、身体が代償を求めている。壁を塞げば塞ぐほど、飢えが深くなる。
直接出向けば、終わらせられる。壁を挟まず、糸ではなく甲殻で。飢えた身体がそう囁いている。だがそうすれば侵入者の血の匂いを嗅ぐことになる。今の自分に、それを浴びて正気を保てる確信がなかった。
* * *
ゼノが壁から手を離したとき、呼吸が荒かった。迷宮を操るだけでここまで消耗する。昨日までは感じなかった限界が、指先から肩へ、肩から背の甲殻の根元へと這い上がってくる。
ティリアは部屋の中央に立っていた。
灰青の長衣の左袖に、右手をかけている。ゼノが振り返ると、鬱金色の瞳がティリアを映した。瞳孔は縦に裂けたまま。頬骨の下に疲弊の影が落ち、額の生え際の甲殻が赤い光苔に照らされて鈍く光っている。
ティリアは袖をまくった。
ゆっくりと、右手の指が左の袖口を掴み、肘の上まで押し上げた。白い前腕が光苔の朱色の光の下に露わになった。細い手首。浮き上がる血管の青。薄い皮膚の下を流れる脈の音が、自分にだけ聞こえる気がした。
「食べてください」
声は震えなかった。昨夜決めたことを、そのまま口にしただけだ。
沈黙が落ちた。
長かった。光苔の光が明滅する間隔を三つ数えるまで、ゼノは動かなかった。鬱金色の瞳がティリアの腕に固定されている。瞳孔が僅かに広がりかけ、すぐに収縮した。喉が鳴る音がした。ゼノの喉ではない。背の甲殻の関節が軋んだ音だった。
そして、爆ぜた。
「ふざけるな」
ゼノの蜘蛛脚が壁を砕いた。四本のうち二本が同時に壁面を打ち、石壁が砕けて破片が飛んだ。細かい石片がティリアの頬を掠め、鋭い痛みが走った。温かい。血が出ている。石の粉塵が鼻腔を突き、舌の奥に土と鉱石の味が広がった。
「出ていけ」
低い声だった。唸りに近い。ゼノの背の四本すべてが壁面に突き立ち、身体が浮き上がりかけていた。黒い外套が広がり、光苔の赤い光を遮って影を落とす。壁に亀裂が走り、天井から石粉が降った。
ティリアは退かなかった。
頬の傷を拭いもせず、腕を差し出したまま立っている。血の一筋が顎を伝い、白い前腕に落ちた赤い滴が光苔の光を吸って黒く見えた。
「あなたは壊れていく」
声を上げはしなかった。静かに、だが芯のある声で。
「私が見ている前で、毎日少しだつ。指が黒くなって、脚がしまえなくなって、目が戻らなくなっていく」
ルカから聞いた言葉を、そのまま繰り返していた。自分のものにして。
「何もしないで見ているだけなんて——私には、できません」
背の甲殻が震えた。壁に突き立った先端が石を削り、細い悲鳴のような音を立てた。
ゼノが背を向けた。ティリアに背中を見せること。甲殻の根元を晒すこと。一番見られたくない姿のはずだった。だが今のゼノにそれを選ぶ余裕はなかった。ティリアの腕を、あの白い腕を、見ていられなかった。
脚の一本が動いた。垂れていた甲殻がゆっくりと持ち上がり、ティリアの方へ——
天井を掴んだ。ゼノの身体が壁際に引き上げられ、ティリアとの距離が一歩分だけ広がった。
「お前を喰えば、俺は——」
言いかけて、止まった。
息を呑む音がした。ゼノの肩が強張り、四本の脚が一斉に力を失ったように垂れた。
「お前がいない迷宮に、意味などない」
吐き出された言葉は、ゼノ自身を凍りつかせた。
動きが止まった。完全に。呼吸すら止まったかのように、ゼノは背中を向けたまま硬直していた。自分が何を言ったのか、その意味が遅れて自分自身に追いついたかのように。甲殻の先端が床に触れ、乾いた音すら立てなかった。
* * *
腕を差し出された瞬間、本能が動いた。
口腔の奥が灼けるように熱くなった。指先が伸びかけた。甲殻に覆われた黒い指が、あの白い腕に向かって。血管の青が皮膚を透けて見える。匂いがする。鉱石でも苔でもない、生きている匂いが——。
止まった。
止めたのは理性ではない。
ティリアの顔が見えたからだ。差し出された腕の向こうに、淡い紫の瞳があった。怯えてはいなかった。覚悟だけがあった。逃げなかった。叫びもしなかった。——今まで、そんな人間はいなかった。泣いて、怒って、壁を叩いて。誰もがゼノから目を逸らした。この手が触れたら、あの顔が消える。あの目が閉じる。二度と名前を呼ばれない。
それだけが——飢えを上回った。
* * *
「……ゼノ、あれ、なに? 目から出てるの」
声は壁の継ぎ目から来た。
ルカが半分だけ身体を壁から出して、首を傾げていた。赤毛が片側に流れ、緑の瞳がゼノの横顔を見つめている。怖がっているのではなかった。知らないものを初めて見た戸惑いが、小さな声に滲んでいた。
ゼノの頬に、一筋の光が走っていた。
光苔の赤い光を受けて、細い線が頬骨の高い稜線を伝い、顎の先で止まっている。透明ではなかった。僅かに粘度があり、光を複雑に屈折させている。蜘蛛の体液か、人間の涙か。その境界は、もうゼノ自身にも判別がつかない。
だがティリアには、わかった。
あれは涙だ。
ゼノの手が頬に触れた。指先の黒い甲殻が、濡れた跡を拭う。指の腹に残った液体を見つめ、何を見ているのかわからない目をした。あの指がまだ自分の涙を拭う仕草を覚えている。それだけで十分だった。
ルカが壁から完全に出てきた。ゼノの傍に立ち、小さな手を伸ばしかけて、止めた。触れてはいけないと、子供なりに感じ取ったのだろう。代わりに、ティリアの方を見た。
何か言いたげな緑の瞳。だがルカも何も言わず、三人の間に沈黙だけが積もった。
ティリアは袖を戻さなかった。
白い前腕を朱色の光に晒したまま、一歩も退かず、そこに立っている。頬の傷から血が顎を伝い、長衣の襟を染めていた。それでも腕を下ろさない。
「私はまだ、ここにいます」
声は静かだった。宣言でも懇願でもない。ただの事実だった。
蜘蛛脚が震えた。壁に突き立っていた先端が、一本ずつ力を失っていく。甲殻が石壁から抜け、支えを失った腕が垂れる。四本すべてが力なく床に落ちたとき、乾いた甲殻が石の床を叩く音が四つ、静かな部屋に響いた。
ゼノは振り返らなかった。
だがあの脚は、ティリアを拒むように展開されていた四本は、もう壁を砕かなかった。床に伏せたまま、先端が微かに震えているだけだった。
光苔の赤が、一段だけ薄くなった。
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次回「昔ここにいた子供たち」
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