昔ここにいた子供たち
目を覚ましたとき、最初に気づいたのは色だった。
枕元に、見覚えのない花が置かれていた。茎が短く切り揃えられた白い花。五枚の花弁が光苔の薄い朱に染まり、淡い桃色に見える。指先で触れると、切り口がまだ湿っていた。摘まれてから、そう時間が経っていない。
ティリアは身を起こした。頬の傷が引き攣れる。昨夜の石片が裂いた痕だ。乾いた血が肌に貼りついて、瞬きのたびに頬骨の下が突っ張った。
部屋を見回す。壁際に並ぶ花々の中に、新しい色が混じっている。白と薄紫。他の花が褪せた色をしているのに対し、それだけが鮮やかだった。古い花が時間の中で彩度を失い、薄い茶色に沈んでいくのと対照的に、新しい花は光苔の光を弾いて瑞々しく輝いている。
ゼノの姿はなかった。
花を置いたのが誰か、考えるまでもない。言葉にできないものを、花に託した。昨夜の激情への、声にならない謝罪。あるいは、それよりもっと名前のつかないもの。
* * *
「ねえ、ティリア」
壁の継ぎ目からルカが顔を出した。赤毛が揺れ、緑の瞳がティリアの手元の花を見つけて、ぱっと明るくなった。
「あ、新しいの増えてる。ゼノが持ってきたんだ」
壁を抜けて部屋に入ってきたルカは、ティリアの隣に腰を下ろした。短い脚をぱたぱたと揺らしながら、壁際の花々を指差する。
「この部屋ね、ゼノがすごく時間かけて作ったんだよ」
「……知ってます」
「ううん、ティリアが知ってるのとは違うの」
ルカは首を傾げ、天井を見上げた。光苔が天井の凹凸に沿って不均一に光っている。明るいところと暗いところが斑になって、まるで地上の木漏れ日のようだった。
「光苔の位置もね、全部ゼノが一個一個動かしたの。ここが明るくなるように、ここは暗くなるようにって。何日もかけて。指が痛くなるくらい壁に触ってた」
ティリアは天井を見上げた。光苔の配置に、規則性がある。花のある場所が明るく照らされ、寝台の周囲はやや暗い。眠る人間の目を刺さない程度の、柔らかい暗がり。それが偶然でないことに、今初めて気づいた。
「ゼノにとって、この部屋は……」
「大事なんだよ」
ルカが遮るように言った。だが声は柔らかかった。
「ずっとずっと前から。ティリアが来るよりもっと前から、ゼノはこの部屋を作ってた」
沈黙が数秒続いた。ティリアの胸の奥で、何かが軋んだ。
「……ルカ。この部屋は、私が最初じゃないんですね」
ルカの脚が止まった。
ぱたぱたと揺れていた短い脚が、ぴたりと動かなくなる。緑の瞳が壁際の花を見つめている。古い花。褪せた花。茶色くなった花弁が丸まって、乾いた薄片になりかけているもの。
「……昔ね、ここに何人かいたんだ」
声が変わった。子供の声のまま、けれどどこか遠いところから響いているような。記憶を手繰るというより、記憶に手繰られているような声だった。
「泣いてた子がいた。怒ってた子もいた。でもね——」
ルカの視線が宙を彷徨い、何かを掴んだように止まった。
「歌ってた子がいたの。怖いから歌うんだって。最初は小さい声で、でもだんだん大きくなって。壁に反響して、迷宮中に響いてた。ゼノが壁の向こうで聞いてたの、ルカにはわかったよ。……声が枯れるまで歌ってた。枯れてからも、口だけ動かしてた」
ティリアの指先が冷たくなった。花の茎を握る力が、知らずに強くなっていた。
ルカが自分の膝を見下ろした。小さな手が膝頭を掴んでいる。
「名前は……思い出せない。顔も。でもね、声は覚えてるの。あの歌が、ルカの中に、まだいるの」
ティリアの喉が詰まった。声が出せない。ルカが何を言っているのか、その重さが、じわりと胸に沁みてくる。
「その子たちは、どうなったんですか」
聞いてはいけないと、わかっていた。だが聞かなければ、この部屋に立つ資格がないとも感じた。
ルカが固まった。
完全に動きが止まった。呼吸すら消え、壁から抜け出してきた少年の輪郭が一瞬だけ揺らいだ。迷宮の一部であることを思い出させるように。
長い沈黙だった。光苔が二度明滅する間、ルカは石になったように動かなかった。
「……わかんない」
声が震えていた。
緑の瞳に水膜が張っている。涙とも違う。光苔の光を反射して、瞳の表面が不自然に揺れている。迷宮が作った身体から、迷宮が作っていない感情が溢れようとしている。
「わかんないの。わかんないよ、ティリア」
ルカの声が壊れた。子供の甲高い声が裏返り、啜り泣きに変わった。小さな肩が震え、光苔の光がルカの頭を伝う雫を赤く染めた。
ティリアはルカの頭に手を置いた。赤毛は冷たかった。石の壁と同じ温度。けれどその下で、震えは確かに人間のものだった。
壁際の花を見る。褪せた花。茶色くなり、乾き、崩れかけている花。そしてその隣に置かれた、今朝の新しい花。
ゼノはこの部屋を四年かけて作った。光苔を一つ一つ動かし、花を植え、寝台を整えた。あの子供たちの後に。
褪せた花に、ティリアは指先を伸ばした。乾いた花弁がかさりと音を立てた。温度がない。匂いもない。それでもゼノは枯らさず、抜かず、そこに残している。
ティリアの目頭が熱くなった。
足元の石が、微かに震えた。遠く、何層も下から伝わる振動。剣が壁を叩く音に似ている。
* * *
感知糸が振動した。
ゼノは花の部屋を離れ、第六層への通路に立っていた。壁に手を当て、迷宮の深部に意識を伸ばしている。指先の黒い甲殻が石壁に沈み、糸が迷宮の血管のように枝分かれして広がっていく。
第五層の壁が、また一つ砕かれた。
振動の質が変わっている。昨日までは力任せの破壊だった。今は違う。正確だ。壁の薄い部屋を見抜き、最小限の打撃で突破している。侵入者が迷宮に順応し始めている。
ゼノは構築糸を走らせた。第六層の入口に壁を生成し、通路を捻じ曲げ、落とし穴の蓋を復元する。だが糸の応答が鈍い。昨夜の消耗が尾を引いている。壁が完成する前に、階段を降りる足音が鞿いた。
三つだった足音が、もう二つしかない。一人が脱落したか、別ルートを取ったか。先頭の足音は変わらず重い。鎧だ。
ゼノは壁から手を離し、通路の奥へ向かった。背の四本が天井と壁を掴み、身体を通路の上部に持ち上げる。外套の裾が垂れ、暗がりの中で闇と同化した。待ち伏せ。人間の武術は知らない。だが迷宮は、自分の身体だ。
足音が近づく。
松明の光が通路の曲がり角を照らした。赤い炎ではなく、聖術の白い光だ。壁に刻まれた光苔が、その光に反応して色を変える。赤から、白へ。迷宮が侵入者の力に反発している。
曲がり角を抜けて現れたのは、二人の人間だった。
先頭の男が、ゼノの目を引いた。金髪が松明の白光に輝いている。碧眼。若い。ゼノより少し年嵩か。白銀の鎧は傷だらけで、本来の輝きを泥と血錆が覆っていた。左の肩当てが歪み、胸甲に深い溝が走っている。迷宮の罠が刻んだ痕だ。だが男は立っている。折れていない。
後ろに続くのは、やはり鎧の人間。こちらは盾を構え、周囲を警戒している。顔に疲労が刻まれ、目の下の隈が深い。
先頭の男、ガルドが足を止めた。
「……静かだな」
呟きは隣の部下に向けたものだった。声に、かつての朗らかさはない。掠れた低い声。何日も迷宮の中で過ごし、仲間を失い、正義の確信が揺らぎ始めた声だ。
「隊長、上です」
部下が盾を掲げた瞬間、ゼノは動いた。
天井から糸が降り注いだ。拘束糸ではなく、壁の石材を縫い合わせていた構築糸を引き抜き、通路の天井を崩落させた。石塊が二人に向けて落ちる。
ガルドの剣が閃いた。
白銀の刃が聖術の光を帯び、落下する石塊を真正面から断ち割った。石が左右に弾け、壁に激突して砕ける。粉塵が吹き上がり、視界が白く濁った。
その中を、ガルドが駆けた。石の破片を踏み砕きながら、剣を振りかぶってゼノの頭上へ迫る。速い。鎧の重量を感じさせない踏み込み。聖術が身体を強化しているのか、足元の石畳にひびが入った。
ゼノは甲殻で天井を蹴り、後方へ跳んだ。同時に切断糸を放つ。極細の糸がガルドの剣筋に直交するように走った。
金属が噛み合う音。切断糸がガルドの剣に触れ、弾かれた。聖術の膜が刃を覆っている。生きた糸には聖術が干渉する——だが壁は違う。糸が石と融合し、もはや生体反応を失った構造物には、聖術の浄化が届かない。
背の脚が壁を掴み、身体を横に転じた。ガルドの剣が空を切り、石壁を削って火花が散る。白い光の粒子が闇に舞った。
距離が開く。五歩分。ゼノは壁に手を当て、構築糸を走らせた。通路の壁が左右から膨張し、ガルドと部下を挟み込むように迫る。
ガルドが剣を壁に突き立て、膨張を食い止めた。刃が石に沈み、壁の動きが止まる。だが止められたのは片側だけだ。反対側の壁がガルドの背中に迫り、鎧の背面と壁の間が拳一つ分まで狭まった。
「——くそ」
ガルドの歯の間から声が漏れた。剣を引き抜き、身体を横にして壁の隙間を抜ける。部下が盾で反対側の壁を押し返そうとするが、石の重量に腕が震えていた。
ゼノは追撃しなかった。
壁を閉じきれば、潰せる。だがそうしなかった。壁の膨張を途中で止め、通路を狭めたまま固定した。通れないことはない。だが進みにくい。追撃せず、閉じ込めたぞ、殺さず、ただ遅延させた。
ガルドがそれに気づいた。
壁の隙間から身体を抜け出し、粉塵にまみれた顔でゼノがいた天井を見上げた。もういない。闇の中に溶けている。
「……殺さないのか」
誰にともなく呟いた。
迷宮に入ってから、何度目の疑問だろう。罠は足を狙い、頭を狙わない。糸は拘束し、切断しない。壁は遅延させ、圧殺しない。仲間を一人失ったのは、罠ではなく自らの判断ミスだった。迷宮は、この怪物は、殺さずに見ている。
あの糸。迷宮中に張り巡らされた、見えないほど細い糸。あれが殺意で振動したことが、一度もない。
「隊長……先へ」
部下の声に、ガルドは頷いた。だが足が重い。剣を握る手が、僅かに迷っている。
救出対象の少女を、この迷宮は守っている。
その直感を、正義の名の下に否定できなくなりつつあった。
* * *
花の部屋に戻ったとき、ゼノの呼吸は乱れていた。
壁を操作しただけだ。直接の打撃は一度も受けていない。それでも消耗は深い。糸が鈍り、壁の応答が遅れ、身体が重い。指先の黒が手の甲にまで広がっている。右手の薬指と小指が、もう曲がらない。甲殻が関節を覆い、固定している。
通路の向こうに、光が見えた。
花の部屋の入口。光苔の薄い朱色が通路に漏れ出し、壁の凹凸を照らしている。その光の中に、人影が立っていた。
ティリアだった。
銀白の髪が光苔の色を吸って、淡い桃色に染まっている。淡い紫の瞳がゼノを捉え、動かない。頬の傷はまだ乾ききっていない。昨夜、ゼノが砕いた壁の破片が刻んだ痕。
目が合った。
ゼノの足が止まった。背の脚が床に触れ、甲殻が石を擦る乾いた音がした。疲弊した身体が、それ以上近づくことを拒んでいるのか。近づくことを恐れているのか。
「……お前のことは」
声が出た。自分で驚いた。言うつもりはなかった。だが口が動いた。昨夜の残響のように、制御できない言葉が喉からこぼれた。
口を閉じた。
言えない。その先を言えば、何かが決定的に変わる。変わってしまったものを認めることになる。昨夜の「お前がいない迷宮に、意味などない」——あの言葉で既に壊れたはずの壁を、これ以上壊す言葉は持っていない。
ティリアが一歩、前に出た。
通路の薄暗がりの中、ゼノとの距離が縮まる。光苔の朱色がティリアの顔を照らし、影を濃くした。
「ルカに聞きました」
声は静かだった。丁寧語の形を保っていたが、その奥に硬い芯がある。昨夜、腕を差し出したときと同じ声だ。
「この部屋に、昔いた子供たちのこと」
背の甲殻が一本、痙攣するように跳ねた。
「泣いていた子。歌っていた子。怒っていた子。ルカはその子たちがどうなったか、わからないって——でも、わからないふりをしていただけです。ルカも。私も」
ティリアの目がゼノを見据えた。逸らさなかった。
「あなたは何人喰んだの」
敬語が剥がれた。
「食べてください」と差し出した昨夜の声とは違う。あのときは自分を差し出す覚悟の声だった。今はゼノの過去に踏み込む覚悟の声だ。
ゼノが目を逸らした。
鬱金色の瞳がティリアから外れ、壁際の花を見た。褪せた花。茶色く乾いた花弁。時間の中で色を失い、形を崩し、それでもまだそこに在る花。
答えなかった。
口を開きもしなかった。身じろぎもしなかった。四本の脚がすべて床に垂れ、甲殻の先端が石の上で微かに震えているだけだった。
だがその沈黙が——答えだった。
ティリアの手が膝の上で握りしめられた。指の関節が白くなるほど、強く。喉の奥が灼けた。怒りでも悲しみでもない、名前のつかない感情が胸を圧した。——やがて、ゆっくりと指が開いた。一本ずつ、自分に言い聞かせるように。掌を膝の上に置き、息を吐いた。ここにいる。それでも、ここにいる。
花の数を数えればいい。古く、褪せ、乾いた花の数を。ゼノが声にできない数を、この部屋が代わりに語っている。
光苔の薄い朱色が、二人の間の沈黙を照らしていた。
ティリアは頬の傷口を手の甲で拭った。指先が濡れている。血だった。乾いたはずの傷が、いつの間にか開いていた。
そのとき、壁の奥から声が聞こえた。
遠い。何層も隔てた向こうからの、人間の声。反響に歪んで言葉は聞き取れない。だが一語だけ、石壁を貫いて花の部屋に届いた。
「——ティリア嬢!」
ゼノの蜘蛛脚が、四本すべて同時に壁面に突き立った。
お読みいただきありがとうございます。
次回「骨の庭園へ」
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