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骨の庭園へ

 答えを待つ間もなかった。


 「何人喰ったの」。その問いが花の部屋に沈むより先に、外から声が落ちた。ティリアの名を呼ぶ、知らない男の声。


 背の四肢が壁面から引き抜かれた。


 甲殻の先端が石壁に四つの穴を穿ち、砕けた石粉が薄闇に散った。鬱金色の瞳が花の部屋の入口から通路の奥へ向き直る。ガルドの声が届いた方角――第六層の境界だ。


「動くな」


 ゼノの声は短かった。ティリアにではない。部屋の壁際で固まっているルカに向けた一言だった。だが視線はティリアを掠めた。瞬きほどの時間。それだけで、何かを確かめるように。


 背の甲殻が天井を掴み、ゼノの身体が浮いた。外套の裾が闇に溶け、通路の奥へ消えていく。足音はない。石壁を掴む甲殻の硬質な擦過音だけが遠ざかり、やがてそれも消えた。


 花の部屋に、沈黙が降りた。


 ティリアの耳に、自分の呼吸が聞こえた。浅い。速い。心臓が胸骨の裏で拍を刻み、指先にまで脈が届いている。褪せた花を握っていた手を開くと、乾いた花弁の欠片が掌の汗に貼りついていた。


「ティリア」


 ルカが壁際から離れ、ティリアの傍に来た。赤毛が光苔の朱に染まり、緑の瞳が真っ直ぐにティリアを見上げている。いつもの無邪気さが、ほんの少しだけ引き締まった顔の中に残っている。


「今のうち。見せたいものがある」


「……今?」


「ゼノがいないときじゃないと、行けないの」


 小さな手がティリアの指を掴んだ。石の壁と同じ温度の、冷たい指。それがティリアの手を引く力は、子供のものとは思えないほど確かだった。


「ルカ、待って。ゼノが動くなって——」


「ゼノは嘘つきだよ。動くなって言ったのはぼくにだもん。ティリアには何も言ってない」


 屁理屈だった。だがルカの瞳に浮かんでいるのは悪戯ではなかった。何かを見届けてほしいと願う、切実な光だった。


 ティリアは唇を引き結んだ。花の部屋の入口から、通路の闇を見る。ゼノはあの奥でガルドたちと向き合っている。戻ってくるまでに時間はある。そしてルカが「ゼノがいないときじゃないと行けない」と言った。この子供が初めて、ゼノの目を盗んで何かをしようとしている。


「……わかりました」


 ルカの手を握り返した。冷たい指が、ほんの僅かに震えた。


* * *


 壁を抜けた。


 ルカに手を引かれ、壁の継ぎ目から身体を滑り込ませる。本来なら石壁でしかないはずの場所が、ルカの身体が触れた瞬間に薄い膜のように揺らぎ、ティリアの身体を通した。迷宮の一部であるルカだけが知る、隠された通路。


 空気が変わった。


 花の部屋の暖かさが消え、冷えた石の匂いが鼻腔を満たした。地下水の滴る音が遠くで鞿いている。通路は下りだった。足元の石段が湿っていて、踏み出すたびに靴底が微かに滑る。


「第五層だよ」


 ルカが振り返らずに言った。手を引く力は変わらない。暗い通路を、迷いなく進んでいく。


「ゼノはここに来ないの。来たくないんだって思う。でもぼくはずっとここにいた。ここが好きなの」


 通路の先に、光が見えた。

 光苔とは違う光だった。青みがかった白。冷たいが柔らかい。月の光を水に溶かしたような、触れれば消えてしまいそうな淡い発光が、通路の出口から溢れ出していた。


 ティリアは足を止めた。


 通路を抜けた先に広がっていたのは、庭だった。


 天井は遥か高く、見上げれば視界の端が暗闇に溶ける。その空間を埋め尽くすように、白い結晶が生えていた。骨のように細長く、天井に向かって枝分かれし、珊瑚のような形を作っている。内側から青白い光が脈打ち、呼吸をするように明滅していた。


 地面は苔と石灰で覆われ、結晶の根元に水が薄く張っていた。ティリアの靴が水面を踏み、波紋が広がった。波紋が結晶に触れると、光が一瞬強くなり——高く細い共鳴音が空間に韟いた。ガラスの繁を指で撫でたときのような、頭蓋の内側に沁みる音。波紋が広がるたびに隣の結晶へ、さらに隣へと音が伝播し、庭園全体がひとつの楽器のように震えた。


「骨の庭園」


 ルカが言った。振り返ったルカの顔に、結晶の青白い光が映り込んでいた。


「きれいでしょ」


「……ええ」


 声がかすれた。美しかった。だが喉の奥に引っかかるものがあった。骨の庭園。この結晶の白さが骨に見えるから、ではない。もっと直接的な意味が、この名前にはあるはずだった。


「触ってみて」


 ルカが一番近くの結晶を指差した。ティリアの腰ほどの高さで枝分かれした、白い珊瑚骨。内側の光が穏やかに脈打っている。


「記憶珊瑚っていうの。触ると、見えるんだよ。昔のこと」


 ティリアは指先を伸ばした。結晶の表面が近づくにつれ、指の産毛が逆立った。静電気に似た感覚。だがそれよりもっと深い、皮膚の下、骨の中まで響くような冷たい引力。


 指が触れた。

 冷たかった。氷ではない。氷よりも深い、体温を吸い取るような冷たさが指先から腕を伝い、一瞬で全身に広がった。視界が白く飛んだ。


 ——泣いている。


 暗い部屋だった。光がない。石壁に囲まれた狭い空間に、子供がうずくまっている。膝を抱え、顔を埋めて、声を殺して泣いている。嗚咽が漏れるたびに小さな肩が震え、薄い衣が汗と涙で肌に張りついていた。


 ——別の場所。


 別の子供。今度は少女だった。暗い部屋の隅で壁に背をつけ、何かを口ずさんでいる。子守唄。掠れた声が途切れ途切れに歌を紡ぎ、だが歌詞はもう言葉になっていない。同じ旋律を繰り返すだけ。繰り返すたびに声が小さくなり、最後は唇だけが動いていた。


 ——暗闇の中に、糸が降りてきた。


 蜘蛛の糸だった。黒い、細い糸が天井から降りてきて、子供の身体を包んだ。繭のように。子供は抵抗しなかった。力が残っていなかったのか。あるいは。


 声が聞こえた。


「怖くないよ」


 低い声だった。少年の声。まだ大人になりきれていない、震えを押し殺した声。糸を操りながら、子供に向かってそう言った。怖くないよ。何度も。何度も。声が震えているのは子供ではなく、糸を降ろしている側だった。


 ——ティリアは指を離した。


 膝が折れた。水面に膝をつき、冷たさが衣を通して肌に触れた。呼吸が荒い。額に汗が浮き、視界が揺れている。結晶の光が涙で滲んで、白い星のように拡散した。


 耳の奥に、まだ声が残っていた。「怖くないよ」。震えていたのは声をかけられた側ではなく、かけた側だった。喰う者が「怖くないよ」と繰り返していた。その矛盾が、胸の底に錘のように沈んだ。


「……見えた?」


 ルカの声が近い。隣にしゃがみ込んでいた。

「何が、見えた?」


「子供が、泣いていました。歌っている子も。それから……ゼノの声が」


「うん」


 ルカが頷いた。小さな手が自分の胸を押さえた。


「ぼくも、同じの見るんだ。何度触っても、同じ。泣いてる子と、歌ってる子と、怒ってる子。それからゼノの声。でもね」


 ルカが立ち上がった。庭園の奥へ、数歩進む。そしてひときわ大きな結晶の前で止まった。人の背丈ほどもある、枝分かれした珊瑚の柱。他の結晶より光が強く、内側で青白い光が渦を巻いている。


「ぼくが触ると、違うの」


 ルカの手が結晶に触れた。


 光が弾けた。


 結晶の内側の青白い光が一気に膨れ上がり、ルカの手から腕、肩、全身へと広がった。ルカの輪郭が光に溶け、赤毛が白く透ける。緑の瞳が光を反射して、一瞬だけ、別の色に見えた。茶色。青。灰色。複数の色が入れ替わるように瞬いた。


 ルカの口から声が漏れた。だが一つの声ではなかった。重なっている。泣いている声、笑っている声、怒っている声、歌っている声。複数の子供の声が、ルカの喉を通して同時に鞿いた。


 結晶が共鳴した。ルカが触れた一本だけでなく、庭園中の結晶が光を増し、青白い光の波が地面を走った。水面が震え、波紋が無数に広がり、壁を照らす光が万華鏡のように回転した。


「——ルカ!」


 ティリアが立ち上がった。水を蹴散らし、ルカの傍に駆け寄る。だが近づけなかった。ルカを中心に光が渦を巻き、空気が密度を増している。風ではない。記憶の圧だった。この庭園に眠るすべての記憶が、ルカという一点に引き寄せられている。


 ルカの瞳がティリアを見た。光に包まれた顔は恐怖でも苦痛でもなく、ただ驚いていた。自分の身に起きていることを、自分でも理解できないという顔。

「ティリア——ぼく、これ」


 声が途切れた。光が収束し始めた。結晶の発光が穏やかに戻り、ルカの輪郭が再び固まっていく。赤毛の色が戻り、緑の瞳が元に戻る。最後に、ルカの全身を覆っていた光が指先から結晶に吸い戻された。


 ルカが膝をついた。呼吸が荒い。


 何も言わなかった。自分の手のひらを見つめていた。指の先に、結晶の光の名残が消えかけている。頬を伝う一筋の光が、顎の先で止まり、水面に落ちた。


 ルカの手が、ゆっくりと口元に当てられた。声を出さないためではなく、自分の唇がまだあることを確かめるように。指先が震えていた。目は開いたまま、結晶を見つめている。


 ティリアの手が震えていた。


 記憶珊瑚。子供たちの記憶。ルカの中にある声。そして今、ルカが結晶に触れたとき、庭園全体が応答した。共鳴した。


 ルカは、この庭園と同じものでできている。


 骨の庭園。結晶化した記憶。そしてルカ。三つの点が線になり、ティリアの胸の中で冷たい確信に変わっていく。ルカがこの庭園に「ずっといた」と言った意味。ゼノがここに「来たくない」理由。褪せた花の数と、この結晶の数。


「ルカ。あなたは」


 声が凍った。


 背後で空気が裂けた。壁の継ぎ目から蜘蛛脚が突き出し、石壁を砕いて通路をこじ開けた。冷たい風が吹き込み、水面が波立った。


 ゼノだった。


 外套の裾が裂け、左肩の布が焦げている。聖術の白い光の痕だ。蜘蛛脚の一本に亀裂が入り、甲殻の隙間から暗い体液が滲んでいた。亀裂の繁を覗くと、内側の組織が赤黒く焦げていた。聖術は甲殻の表面ではなく、内部に浸透して灼くのだ。だが亀裂の端には既に薄い新しい殻が生じかけていた。蜘蛛の身体が、壊れながら修復しようとしている。呼吸が荒い。走ってきた。感知糸がティリアの移動を捉え、骨の庭園まで追ってきた。


 鬱金色の瞳がティリアを見た。次にルカを見た。そして結晶を見た。ルカの手がまだ触れている、大きな記憶珊瑚を。

「……そこに触れるな」


 声は低かった。命令形。だが怒りではなかった。蜘蛛脚が壁を掴む力が抜け、甲殻が石の上で滑った。身体が傾ぐ。ガルドとの交戦の消耗と、ここまで駆けた疲労が、膝を裏切っている。


「ゼノ——」


「触れるな。それは」


 言葉が途切れた。結晶の光がゼノの顔を照らしている。青白い光の中で、鬱金色の瞳が揺れていた。結晶を見る目は、花の部屋で褪せた花を見るときと同じだった。声にできないものを、声にしないまま抱え続けてきた者の目。


 ティリアが立ち上がった。膝が濡れ、衣の裾が水を吸って重い。


「知っています」


 声が出た。自分で驚くほど静かな声だった。


「ルカが何なのか。この庭園が何なのか。全部ではないけれど、見ました。記憶珊瑚に触れて、見ました」


 ゼノの蜘蛛脚が震えた。四本すべてが、力を失ったように垂れた。


「あなたが止めたいなら、止めてください。でも、ルカがここに連れてきたのは、あなたに見てほしかったからじゃない。私に見てほしかったからです」


 ルカが頷いた。小さく、だが確かに。


 ゼノは答えなかった。


 結晶の光の中に、長い沈黙が落ちた。水面の波紋が収まり、庭園が再び静かな青白い光に満ちている。その光がゼノの顔を照らし、影を刻み、震える背の四肢の殻を冷たく光らせていた。


 ゼノが座り込んだ。

 膝から力が抜け、水面に沈んだ。外套が水を吸い、黒い布が広がる。四本の脚がすべて地面に垂れ、殻の先端が水の中に沈んだ。右手の薬指と小指が曲がらないまま、拳を握ろうとして握れたずにいた。


 顔を上げた。ティリアを見た。


「……話す」


お読みいただきありがとうございます。


次回「喰わなければならなかったもの」


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