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喰わなければならなかったもの

 暗い。


 石の冷たさだけがある。背中に触れる石床と、薄い毛布一枚では防げない冬の空気。それだけが世界の全てだった。


 ノクスという名の子供は、目を閉じていた。閉じても開けても同じ暗闇だから、まぶたの裏を選んだだけだった。


 消毒液の匂い。粗い麺布。番号で呼ばれる声。隣の部屋の呻き。廊下の靴音。遠い鐘。孤児院の夜は、そういう断片でできていた。


 十三で選別された。「素体適性あり」。隣の子供が泣いた。ノクスは泣かなかった。泣くための感情が、もう残っていなかった。


 隔離棟。窓のない部屋。蝋の匂い。四年間の調整を、ゼノはうまく思い出せない。身体の内側を探る術式と、皮膚に刻まれる紋。痛みはあった。だが、隔離棟にいる間、ノクスと言葉を交わした人間は一人もいなかった。痛みよりも、そのことのほうが身体に残っている。


* * *


 骨の庭園の水面に膝をついたまま、ゼノの声が止まった。


 結晶の青白い光が水面に映り、その反射がゼノの顎を下から照らしていた。外套が水を吸って重く広がり、蜘蛛脚が四本とも力なく沈んでいる。亀裂の入った甲殻から暗い体液が滲み、水面に細い筋を引いていた。


 ティリアは動かなかった。


 水面を挟んでゼノの斜め前に座り、膝を揃え、手を衣の上で組んでいる。ゼノが語り始めてから、一度も口を開いていなかった。相槌も、問いかけも、慰めの言葉も。ただ、聞いている。ゼノの声が止まるたびに、結晶の光が明滅し、水面の波紋だけが時間の経過を刻んでいた。


 壁際で、ルカが膝を抱えていた。背を壁面につけ、顔を膝の間に埋めている。起きているのか眠っているのかわからない。だが、ゼノが語っている間、一度も身じろぎしなかった。


 ゼノが息を吸った。水面が微かに揺れた。


「十七で、入った」


 声は低く、平坦だった。事実を読み上げるような調子。自分のことではなく、誰か別の人間のことを語っているように。


「第十三代番人が劣化した。持たなくなった。迷宮が新しい主を求めた。ノクスが投入された」


 投入。その言葉を、ゼノは躊躇なく使った。


「三日、かかった」


 声が少し低くなった。


「融合。迷宮が身体の中に入ってくる。骨の一本一本に根を張るように。血管の中を這うように。三日間、意識が消えなかった。消えたほうが楽だった。消えなかったのは、感応力が高かったから。皮肉だった」


 ティリアの指が、組んだ手の中で僅かに力を込めた。ゼノの声から感情が剥がされていた。痛みを語る声が痛んでいないことが、かえって喉の奥を掴んだ。


「三日目に、声が聞こえた。迷宮の声だった。名前を呼ばれた。ノクスではなく、ゼノ。知らない名だった。だが、呼ばれた瞬間に、ノクスは死んだ」


 水面の波紋が消えた。


「迷宮が名を与える。番人が名を受け入れる。その瞬間から、名前は迷宮の壁に刻まれる。石の一粒ずつに。消えない。番人が朽ちても、名は残る」


 ゼノの声は淡々としていた。自分の名前の重みを、事実として述べているだけだった。


「ゼノが目を覚ました」


* * *


 沈黙が長かった。


 結晶の光が穏やかに明滅を繰り返し、庭園は静かだった。静かすぎた。天井のどこかから落ちる水滴の音だけが、石の壁に当たっては跳ね返り、反響を繰り返しながら暗闇に溶けていく。その一滴一滴の間隔が、沈黙の深さを測る尺度になっていた。ゼノの呼吸だけがその合間に聞こえる。深くはない。浅くもない。ただ、次の言葉を探しているような間があった。


 ティリアの目が、ゼノの指先に留まった。黒く変色した指。迷宮との融合の証だと、以前聞いた。あの指が冷たい床を掴み、三日間の苦痛に耐えた。十七歳の指だった。

「最初の一年で——一人、喰った」


 ゼノの声が変わった。


 変わったのは音量ではなかった。声の温度だった。凍土に素手を押し当てたときのような冷たさが、言葉の一つ一つに滲んでいた。


「教会が送り込んできた。孤児だった。ノクスより年下の——」


 声が止まった。「ノクス」という名が不自然に硬い。自分を遠ざけるための名前が、唇の上で軋んでいた。三人称が崩れかけ、持ち直した。


「ゼノより年下の子供だった。迷宮に落とされて、泣いていた。三日間、泣き続けた。ゼノは」


 今度は止まらなかった。だが、声が削れた。


「喰った。迷宮が求めた。封印が要求した。身体が飢えていた。理性が残っている間に——その子供が苦しまないうちに——終わらせなければならなかった」


 水面に落ちた体液の筋が、結晶の光を暗く歪めた。


「二人目も。教会からだった。同じ孤児院の子供だった。目の色が、隣で寝ていた子に似ていた」


 ゼノの右手が水面を掴んだ。指が水を握り、何も掴めずに開いた。


「三人目」


 声が途切れた。


 長い沈黙だった。結晶の光が弱まり、庭園が少し暗くなった。


「三人目は——俺と、同じだった」

 三人称が崩れた。ノクスでもゼノでもなく、「俺」が零れ落ちた。


「同じ隔離棟にいた。壁の向こうで鍛冶の槌音が聞こえた。孤児院の裏手に鍛冶屋があったのだと、隔離されてから知った。顔を覚えていた。あいつも、泣かない子供だった。泣くための感情を、もう持っていなかった。俺と同じだった」


 ゼノの声が震えた。震えは一瞬で、次の言葉が出るときにはもう消えていた。だが、蜘蛛脚が水面を叩いた。四本のうちの一本が、意志とは無関係に跳ねた。甲殻が水を打つ硬い音が庭園に鞿き、波紋が結晶の根元まで広がった。


「喰わなければならなかった。封印が崩れれば、災厄が溢れる。迷宮の外の人間が死ぬ。だから喰った。喰って——」


 言葉が消えた。


 ティリアの視界が滲んだ。泣いているのは自分だと気づくのに、数秒かかった。頬を伝う水滴が顎に落ち、膝の上の手を濡らした。拭わなかった。拭えば、ゼノの語りを中断させる動きになる。だから動かなかった。


 壁際で、ルカの身体が揺れた。


 微かに。膝を抱えた腕が震え、額を押しつけた膝頭が左右に揺れた。声は出なかった。ルカの中にある子供たちの記憶が、ゼノの言葉に反応していた。共鳴する結晶のように。骨の庭園の光が、ルカの震えに合わせて淡く脈打った。


* * *


「三人目のあと、あいつが出てきた」


 ゼノの目がルカに向いた。壁際で膝を抱えたまま、顔を上げないルカを。


「最初は、わからなかった。迷宮が生んだ使い魔だと思った。だが声が違った。話し方が違った。ひとりの子供じゃなかった。何人もの子供が、あの身体の中で」


 ゼノが口を閉じた。喉が動いた。飲み込んだのは言葉ではなく、言葉にならないものだった。


「迷宮が作った。俺のために。喰った子供たちの記憶から」


 ルカの肩が跳ねた。顔は上げなかった。


「罰だと思った。最初は。喰った子供たちが形を成して、俺の前に立っている。そう思った。だが」


 ゼノの声が、初めて柔らかくなった。刃が鞘に収まるように、鋭さが引いた。


「あいつは笑った。俺を見て、笑った。俺が何をしたか知っているはずなのに。記憶があるはずなのに。笑って、俺の名前を呼んだ」


 庭園の結晶が、一斉に光を増した。青白い光が水面を走り、ゼノの顔を照らした。鬱金色の瞳が濡れていた。涙ではない。結晶の光が瞳の表面を覆い、硝子のように反射していた。


「あの日から決めた」


 声が固くなった。柔らかさが消え、決意の硬度が戻った。


「次に来る者は、喰わない。守る。何があっても」


 ゼノの視線が庭園の結晶を撫でた。白い珊瑚の柱。骨のような枝。子供たちの記憶が眠る、冷たい光の林。


「花と光苔の部屋を作った。四年かけた。生贄が落とされたとき、最初に見るものが闇ではないように。冷たい石床ではないように。あの部屋は、俺のためじゃなかった」


 ティリアの呼吸が止まった。


 花の部屋。光苔の温かな朱色。壁に這う蔓と、天井から垂れる小さな花々。あの部屋に初めて目を覚ましたとき、迷宮の底にこんな場所があることが信じられなかった。怪物の巣に、花が咲いている。その矛盾に困惑した。


 四年かけて作った、と。


 自分が落とされる前から。自分の顔も名前も知らないまま。いつ来るかわからない次の生贄のために。喰わないと決めた蜘蛛が、花を植えた。


 ティリアの胸の中で、何かが音を立てて組み変わった。花の部屋が見せていた景色が、まったく別の意味を帯びて立ち上がる。あれは飾りではなかった。罠でもなかった。四年分の祈りだった。


* * *


 ゼノが顔を上げた。


 骨の庭園の結晶に囲まれ、水面に膝をつき、蜘蛛脚を垂らしたまま、ゼノの鬱金色の瞳がティリアの目を捉えた。


 逸らさなかった。


 ティリアが迷宮に来てから、ゼノは何度も視線を外した。目が合いかけると横を向き、蜘蛛脚で壁を掴んで距離を取り、外套の影に顔を隠した。鬱金色の瞳は常にどこかを避けていた。ティリアの目を。自分の罪を映すかもしれない、他者の瞳を。


 今、逸らさなかった。


「そして、お前が来た」


 声は低かった。震えてはいなかった。だが、その五文字の中に、四年分の飢えと、四年分の覚悟と、四年分の孤独が圧縮されていた。水面を挟んで、ゼノの瞳がティリアを見ている。結晶の青白い光が二人の間を照らし、互いの顔に影を落としていた。


 ティリアの唇が開きかけた。何を言えばいいのかわからなかった。許しの言葉は傲慢だった。慰めの言葉は空虚だった。だから——


 何も言わなかった。


 ただ、視線を返した。ゼノが逸らさないなら、自分も逸らさない。涙が頬を濡らしたまま、目を閉じずに、鬱金色の瞳を見つめ返した。


 骨の庭園が静かに光っていた。子供たちの記憶が眠る結晶が、二人を囲んで脈打っている。壁際のルカが、初めて顔を上げた。涙の跡が光苔の光に照らされ、頬に細い筋を描いていた。


 誰も、何も言わなかった。


 言葉が要らない沈黙だった。


お読みいただきありがとうございます。


次回「ルカの正体」


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