ルカの正体
沈黙が、骨の庭園を満たしていた。
結晶の青白い光は穏やかに脈打ち、水面に落ちた波紋はとうに消えている。ゼノの語りが終わってどれほど経ったのか。一分かもしれないし、十分かもしれなかった。時間の感覚が、骨の林の中では溶けて曖昧になる。
ティリアの頬はまだ濡れていた。涙を拭う気にはなれなかった。拭えば、この沈黙に皹が入る。ゼノが差し出した七年分の重さを、自分の手で壊してしまう気がした。
呼吸を整えようとして、うまくいかなかった。胸の奥で、聞いたばかりの言葉が渦を巻いている。喰わなければならなかった。同じ孤児院の子供だった。俺と同じだった。その声が消えない。骨の庭園の結晶に反射するように、何度もティリアの中で跳ね返った。
壁際のルカが、顔を上げていた。
涙の跡が頬に筋を残したまま、緑の瞳がティリアとゼノの間を行き来している。膝を抱えた腕は力を失い、細い脚が投げ出されていた。いつもの落ち着きのない動きが嘘のように、ルカは壁に背を預けてじっとしていた。
ティリアは、ルカを見た。
赤毛の少年の輪郭が、結晶の明滅に合わせて薄くなった。一瞬だった。光が戻るとルカの身体も戻ったが、ティリアの目はそれを見逃さなかった。ゼノの語りの最中、ゼノの声が消耗で掠れるたびに、ルカの赤毛の色がほんの僅かずつ褪せていた。迷宮の主が弱れば、迷宮が生んだ存在もまた薄れる。
ティリアは膝に力を入れ、身体をルカのほうに向けた。
「ルカ」
声が掠れていた。泣いた後の喉は思うように動かない。それでも、名前を呼んだ。
ルカが目を瞬いた。少し身構えるように肩が上がった。
「あなたは——」
言葉が続かなかった。何を聞けばいいのかわからない。何を聞いていいのかもわからない。ルカの正体を、ゼノの語りの中で断片的に知った。だが、それをルカ自身にどう向ければいいのか。
ルカが首を傾げた。
「ぼく?」
声は明るかった。いつもの、少し高い子供の声。結晶の光に照らされた顔には、涙の跡が残っているのに、口元がいつもの形に戻っている。笑みではなかった。笑おうとしている顔でもなかった。ただ、これがルカの素の表情なのだと、ティリアは初めて思った。
「ぼくはルカだよ」
答えは単純だった。問いの意味を正確に理解した上で、それでもなお、この答えを選んだ。そういう声だった。
* * *
水面が揺れた。ゼノが膝をついたまま、微かに身じろぎした音だった。
「ルカは」
低い声が庭園に落ちた。感情を削ぎ落としたゼノの声。だが、削ぎ落としきれないものが、言葉の継ぎ目に滲んでいた。
「俺が喰った子供たちの、記憶の集合体だ」
結晶の光が一瞬、強くなった。庭園全体がその言葉に反応するように、青白い脈動が水面を走った。
ティリアの指が膝の上で握り込まれた。知っていた。ゼノの語りの中で、断片は既に聞いていた。だが、こうして明確に言語化されると、言葉の一つ一つが石のように重い。
「迷宮が——俺の……」
ゼノの声が途切れた。鬱金色の瞳が水面を見つめ、そこに映る自分の顔を避けるように視線がずれた。
「……孤独を察して、作り出した」
孤独という言葉を、ゼノが自分に使うのを聞いたのは初めてだった。寡黙で、冷淡で、距離を取り続けるこの人が、自分の内側にあるものに名前をつけた。その一語が、骨の庭園の冷たい空気を震わせた。
ルカの表情が変わった。
泣くのでも、怒るのでもなかった。緑の瞳が一度大きく開き、それからゆっくりと元の大きさに戻った。指先が薄く透けかけた。結晶の光が爪の下を通り抜け、骨の影が浮かび上がる。だがすぐに色が戻り、ルカの手は再び子供の手になった。
「……じゃあぼくは」
声が零れた。小さく、固い声だった。唇が何かを形にしかけて、途中で閉じた。「ぼく」の次に来るはずだった言葉を、ルカ自身が飲み込んだ。瞳の奥で、複数の感情が順番を争うように明滅した。否定。困惑。そして、それらを押しのけて浮かんだ、諦めに似た静けさ。
「——そっか」
声は小さかった。庭園の天井に届かないほどの、地面すれすれの呟き。さっきの固さは消えていた。飲み込んだものの味を確かめるように、ルカは一度だけ唇を舐めた。
ルカの視線が、自分の手に落ちた。細い指を開き、光にかざすように眺めた。壁を通り抜け、姿を消し、迷宮の一部として存在してきた手。人の手と同じ形をしているのに、人の手ではないもの。
「だからぼく、みんなのこと知ってたんだ」
声の調子が変わった。無邪気さが消えたのではない。無邪気さの下にあったものが、初めて表に出た。記憶という名の地層が、ルカの言葉を通して露出した。
「前の人が泣いてたのも。歌ってた子のことも。暗いのが怖くて、ずっと壁を叩いてた子のことも」
ルカの手が降りた。膝の上に置かれた指が、微かに震えていた。
「全部、ぼくの中にあったんだ」
結晶の光が、ルカの赤毛を柔らかく照らしていた。青白い光と赤い髪の間で、影が揺れた。ルカは泣いていなかった。怒ってもいなかった。ただ、自分の中にある記憶の重さを、初めて正面から量っているような顔をしていた。
* * *
ティリアの視線が、庭園を囲む結晶の柱に移った。
白い珊瑚のような枝。骨に似た色。子供たちの記憶が眠る林。ゼノがこの場所に二人を連れてきた意味が、遅れて胸に届いた。
花と光苔の部屋。あの部屋の壁に這う蔓、天井から垂れる小さな花々、温かな朱色の光。目覚めたときに最初に見た景色。四年かけて作った、とゼノは言った。
——次に来る者は、喰わない。守る。何があっても。
その言葉が、今、別の像を結ぶ。
あの部屋は贖罪だった。過去に救えなかった子供たちへの。喰うしかなかった者たちへの。花を植え、光苔を育て、古い寝台を直し、壊れた玩具を残した。次の人が来たとき、最初に見るものが闇ではないように。冷たい石床ではないように。
誓いだった。四年間、飢えに耐えながら作り続けた、祈りの形をした誓い。
ティリアの胸の中で、何かが限界を超えた。
こらえていた涙ではなかった。涙はとうに流れている。それとは別の、言葉にならない感情が、胸から喉を押し上げ、身体を動かした。
膝が水面を打った。立ち上がり、ルカのもとへ歩いた。三歩。水が浅く跳ねた。裾が濡れた。構わなかった。
ルカが顔を上げた。緑の瞳が、近づいてくるティリアを映している。驚きが瞳の中で揺れた。
ティリアはルカの前にしゃがみ、両腕を広げ、抱きしめた。
ルカの身体は小さかった。細い肩が腕の中に収まった。だが触れた瞬間、奇妙な感覚が指先を走った。実体はある。温かさもある。子供の肩の骨の硬さも、服の布の感触も。けれど、その奥に微かな揺らぎがあった。水面に映った像に触れているような、確かなのに不確かな輪郭。迷宮が作り出した存在の、人と記憶の境界が指先に伝わった。
構わなかった。
揺らいでいても、ここにいる。この腕の中にいる。それだけで十分だった。
「——っ」
ルカの肩が跳ねた。身体が強張り、呼吸が止まった。
抱きしめられることに、慣れていない反応だった。ゼノは触れない人だ。ルカの傍にいても、頭を撫でることすらしない。そしてルカの中にいる子供たちも、抱きしめられた記憶をおそらく持っていない。
数秒、ルカは石のように固まっていた。
やがて、少しずつ、強張りが解けた。肩の力が抜け、額がティリアの鎖骨のあたりに預けられた。小さな手が、ティリアの背中にゆっくりと回った。
ルカの指が衣を掴んだ。
声は出なかった。泣いてはいなかった。ただ、目を閉じていた。ティリアの体温を確かめるように、額を押しつけたまま、静かに息を吐いた。その吐息がティリアの鎖骨に当たり、返ってきた。二人の呼吸が交互に重なり、やがて同じ間隔に揃っていく。庭園の結晶の脈動と、ルカの息と、ティリアの息。三つの律動が溶け合って、骨の林に低く響いた。
* * *
ゼノは、二人を見ていた。
水面に膝をついたまま、蜘蛛脚を垂らしたまま、動かずに。結晶の光がゼノの横顔を照らし、鬱金色の瞳に青白い明滅が映り込んでいた。
ゼノの右手が、微かに持ち上がった。
指先が二人のほうへ伸びかけた。黒く変色した指が、結晶の光の中で影を落とした。ティリアの背中に触れたかったのか。ルカの赤毛を撫でたかったのか。あるいはその両方だったのか。
指が、止まった。
伸びた手が中空で静止し、握りこまれた。拳の中に何かを閉じ込めるように、五本の指がきつく折り畳まれた。黒い指先が掌に食い込み、爪の跡が白く浮いた。
ティリアの手が動いた。ルカの肩を抱いたまま、片手がゼノのほうへ伸びた。無意識だったのか、意志だったのか。自分でもわからなかった。
ゼノの拳が引かれた。だが遅かった。ティリアの指先がゼノの手の甲を掠めた。一瞬だけ。黒く変色した皮膚の表面を、ティリアの指の腹が滑り、離れた。
冷たかった。石壁と同じ温度の、人の手とは思えない冷たさ。だがその下に脈があった。掠めた刹那に伝わった、微かな拍動。
ゼノの手が、膝に戻った。
触れなかった。触れられなかった。喰った手で抱きしめることはできない。この手は奪った手だ。子供たちを喰い、迷宮に閉じ込め、七年間誰にも触れずに生きてきた手だ。
だがティリアの指先には、まだゼノの脈の感触が残っていた。
結晶の光が、三人の影を庭園の壁に映していた。二人が寄り添い、一人が離れた場所にいる影。その距離は、ゼノが自分に課した距離だった。
* * *
どれほどそうしていたか。
ルカがティリアの腕の中で身じろぎした。額を離し、顔を上げた。緑の瞳は乾いていたが、睫毛の先に壁の苔の淡い光が宿り、濡れているように見えた。
ルカの視線が、ゼノに向いた。
水面の向こうで膝をつく迷宮の主を、小さな緑の瞳がまっすぐに見つめた。ルカの唇が開いた。
「ねえ、ゼノ」
子供の声だった。だが、その声の中に、かつてこの迷宮で泣いた子供たちの沈黙が重なっていた。歌っていた子。壁を叩いていた子。泣かなかった子。その全員が、ルカの声帯を通してゼノを見ていた。
「ぼく、ここにいていいの?」
結晶の光が止まった。脈動が途切れ、庭園が一瞬、息を詰めた。水面の波紋が消え、全てが静止した。
ゼノの唇が震えた。
開こうとして、閉じた。喉が動いた。言葉を探しているのではなかった。言葉はある。ずっとあった。ただ、それを声にすることが——七年間、誰にも許さなかった自分の感情を、たった一語に乗せることが、身体中の骨を軋ませた。
蜘蛛脚が水面を打った。四本が同時に、無意識に。水飛沫が上がり、結晶の光を散らした。
「……ああ」
一言だった。
声は低く、掠れていた。息と混ざり、庭園の天井に届く前に消えた。
だが、その一音の中に、七年分の重さがあった。罰だと思った日。笑われた日。名前を呼ばれた日。四年間の飢えと、花を植えた日と、壊れた玩具を拾った日。全部がその三文字の中に押し込まれていた。
ルカの目が見開かれた。
緑の瞳が揺れ——そして、笑った。泣き笑いではなかった。零れるような、抑えきれない笑みだった。記憶の集合体であるルカの中で、全ての子供たちが同時に、初めて安堵した顔をした。
ティリアの腕の中で、ルカの身体の揺らぎが一瞬消えた。指先に伝わる輪郭が確かになり、子供の体温がはっきりと感じられた。存在を許された瞬間、ルカは——ほんの一瞬だけ、完全にここにいた。
骨の庭園の結晶が、再び光を取り戻した。青白い脈動が庭園を巡り、三人の影を壁に映す。二人が寄り添い、一人が少し離れている。
だがゼノの拳は、もう握られていなかった。
開いた掌が、膝の上に置かれていた。黒い指先が、結晶の光の中で微かに震えていた。
庭園の奥で、水が静かに流れる音がした。子供たちの記憶が眠る結晶が、温かく、脈打っていた。
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次回「予定通りです」
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