予定通りです
光苔が、花弁の繁を淡く染めていた。
壁を這う蔓の根元から天井にかけて、青白い光が脈打つように明滅する。息を吸い込むような間隔で暗くなり、吐き出すように明るくなる。迷宮の呼吸。花の部屋が生きている証。
ティリアは目を開けたまま、寝台の上に横たわっていた。
傍らに、ルカが丸くなっている。赤毛が顔の半分を覆い、膝を胸に引きつけた姿勢で眠っていた。子供の寝息が規則正しく、壁の苔が放つ明滅と交互にティリアの耳に届く。温かかった。ルカの身体は迷宮の一部でありながら、こうして触れているときは確かに体温がある。骨の庭園で抱きしめたときの揺らぎは消え、今は小さな子供の質量がそのまま寝台を沈めていた。
視線を動かすと、部屋の入口近くの壁に、ゼノがいた。
座っているのではなく、壁にもたれて膝を立てている。外套が足元に広がり、蜘蛛脚は収められていた。鬱金色の瞳が壁の淡い光に照らされ、その目は閉じていなかった。瞬きもしていない。ティリアとルカを視界に収めたまま、微動だにしない。
番をしているのだ、と思った。
眠らないのか、眠れないのか。おそらくその両方だった。七年間、この迷宮の最深部で一人きり。ルカが現れてからも、ゼノは眠りを人に見せたことがないのだろう。獣が群れの中でさえ片目を開けて眠るように、ゼノの身体には眠れない習性が染みついている。
ティリアの視線に気づいたのか、ゼノの瞳がこちらを向いた。
何も言わなかった。ティリアも何も言わなかった。壁の光が一度暗くなり、また明るくなる間、二人の視線が交わっていた。それだけで十分だった。花の匂いと苔の脈動と、ルカの寝息。この部屋に三人がいるという、ただそれだけの夜が過ぎていく。
* * *
翌日。
ルカが水辺から戻ってきて、髪を濡らしたまま花の部屋を駆け回っていた。赤毛から雫が飛び、壁の苔に当たって小さな光の粒を散らす。昨日の骨の庭園での出来事が嘘のように、ルカは動き回っていた。
「ゼノ、あのね、向こうの通路に新しい苔が生えてた。ちょっと赤いやつ」
「……知ってる」
「知ってた? ぼくが見つけたのに!」
ゼノは壁際に座ったまま、黒い指先で糸を弄んでいた。感知糸の調整だろう。指の間で銀色の糸が張り、ほどけ、また張る。その手元を見つめながら、ティリアは膝の上で指を組み直した。
聞きたいことがあった。昨夜から、胸の底に沈んでいたもの。
「ゼノ」
名を呼ぶと、糸を弄る手が止まった。鬱金色の瞳がティリアに向く。待っている目だった。話せ、とも、黙れ、とも言わない。ただこちらを見ている。
「名前を教えてください」
ゼノの表情は変わらなかった。瞬きが一つ、遅れてきた。
「……ゼノだ」
「それは迷宮がつけた名前ですよね」
ゼノの指から糸が離れた。銀色の一筋が石畳に落ち、苔の燐光を弾いて消えた。
「その前の名前は?」
ゼノの喉が動いた。嚥下する動きだった。空気を飲み込むように、喉仏が一度上がり、下がった。
「ない」
声は乾いていた。洞窟の奥で石が擦れるような、水分を含まない音。
「最初から、なかった」
ルカが動きを止めた。部屋の隅で、濡れた赤毛から雫を垂らしたまま、緑の瞳がゼノを見つめている。だがルカは何も言わなかった。知っているのだ。ルカの中にいる子供たちも、名前を持たなかった者がいたはずだった。
ティリアの手が胸に上がった。心臓の位置を押さえる。痛みではなかった。痛みならば慣れている。これは空洞だった。ゼノの声が落ちた場所に、底のない穴が開いたような感覚。
名前がない。与えられなかったのではない。最初からなかった。管理番号で呼ばれ、教会が「ノクス」と名づけ、迷宮が「ゼノ」と名づけた。どちらも他者が貼った標識であり、この人自身から生まれた名前は、どこにも存在しない。
それは、どこにも属さないということだ。
「いつか」
声が出ていた。考えるより先に、喉が震えていた。
「いつか、あなたの名前を見つけたいです」
ゼノは何も答えなかった。
鬱金色の瞳がティリアを見つめ、それから微かにずれた。壁の苔に。天井に。どこでもない場所に。感情を見せまいとする癖だと、もう知っていた。視線を外すことが、この人の精一杯の動揺なのだと。
光苔が、色を変えた。
一瞬だけ。青白い光の中に、朱色が滲んだ。花の部屋を満たす冷たい光が、刹那、暖炉の火のような温かさを帯びた。壁を這う蔓も、天井の花弁も、ルカの赤毛も、すべてが柔らかい橙に染まった。
ゼノの顔が、その光の中にあった。
表情は変わっていない。唇は結ばれたままで、眉間に皺も寄っていない。だが光苔は嘘をつけない。迷宮はゼノの延長であり、ゼノの感情が揺れるとき、迷宮もまた揺れる。本人が認めない感情を、この場所が代わりに灯していた。
朱い光は、三秒で消えた。
元の青白い光に戻った部屋で、ゼノは壁にもたれたまま目を閉じた。糸は拾い直さなかった。黒い指先が膝の上で組まれ、力なく開いている。
* * *
ルカが二人の間に割って入るように、部屋の中央にしゃがみ込んだ。
「ねえ」
赤毛の少年が顔を上げる。緑の瞳には骨の庭園で見た沈黙の残滓はなく、昨日を越えた後の、新しい落ち着きがあった。
「ぼくね、全部思い出したわけじゃないけど」
ルカは自分の手のひらを見下ろした。苔の光に透ける指先を、不思議そうに眺めている。
「泣いてた子もいたし、笑ってた子もいたよ」
声は穏やかだった。子供の声のまま、大人が語るような重さを帯びていた。
「ぼくの中に、みんないるよ」
ティリアの目が熱くなった。泣くまいと思った。昨日、骨の庭園で十分に泣いた。だが目の奥が焼けるように熱く、視界の端が滲んだ。
ルカは「みんないる」と言った。泣いていた子も、笑っていた子も、壁を叩いていた子も。ルカの中に生きている。失われたのではなく、ここに在る。それは救いだった。ゼノが喰った子供たちの記憶が、消えずにこの少年の中で息をしている。
ゼノが目を開けた。
何か言おうとしたのか、唇が微かに動いた。だが声にはならなかった。代わりに黒い指が膝の上で小さく動き、感知糸でも張るかのように、何もない空気を掬った。
* * *
月が、高かった。
聖典教団本院の執務室は最上階にある。アーチ窓から差し込む月光が、磨き上げられた机の天板を白く切り取っていた。銀の燭台に灯る蝋燭は三本。炎が揺れるたびに、壁に掛けられた聖典の一節——「迷える子羊を導くは、牧人の杖なり」——の金答が明滅した。
セファ・ローレンティスは机に向かっていた。
銀髪が蝋燭の光を受けて、月光よりもなお白い。白と金の聖職者衣装は夜になっても乱れることなく、襟元まできちんと留められている。机の上に広げた報告書に目を通す横顔は、深夜だというのに疲労の影がなかった。
扉が叩かれた。三度。等間隔の、規律正しいノック。
「どうぞ」
入ってきたのは、ガルドだった。
白銀の鎧は傷だらけだった。右の肩当てに深い抉り跡があり、胸甲には黒い焦げが走っている。外套は左肩の留め具から裂け、裾が焼け焦げて短くなっていた。迷宮での戦闘の痕跡が、鎧のあらゆる箇所に刻まれている。
ガルドは机の前に跪いた。片膝をつき、拳を床に置く。正規の報告姿勢。だがその動作に、いつもの流麗さがなかった。膝をつく際に右脚が僅かに震え、拳を置く速度が遅い。
「ガルド。お帰りなさい」
セファの声は暖かだった。労いの言葉に、嘘はなかった。
「迷宮内部の偵察結果を報告いたします」
ガルドの声は低く、堅かった。疲弊を隠そうとして、却って声が硬くなっている。
「第六層までの通路構造を把握しました。番人の……ノクスの制御範囲は、侵入者を感知してから構造を変更するまでに約十五秒の間隔があります。精鋭四名であれば、突破は可能かと」
「十五秒」
セファは報告書から顔を上げた。ガルドが「ノクス」と呼んだことに、一瞬だけ目が細まった。管理名。教団が与え、教団が使い捨てた名。あの子供に刻んだ標識を、ガルドは律儀に使い続けている。蝋燭の炎が銀の瞳に映り、光の点が二つ揺れている。
「随分と弱っていますね。以前は五秒もなかったはずですが」
「は——」
ガルドの唇が止まった。セファの言葉の意味を、反射的に量ろうとしたのだろう。だがそれ以上の問いは飲み込んだ。
「封印鍵の——ティリア・エーデルシュタインの所在は確認できましたか」
「直接の目視は叶いませんでした。ですが第八層からの祝福反応を感知しております。生存は確実です」
「そうですか」
セファは微笑んだ。報告書を閉じ、細い指で机の端を二度叩いた。考え事をするときの癖だった。
「ガルド。あなたは立派な騎士ですね」
その一言を、セファは惜しみない賞賛の声で言った。ガルドの肩から力が抜けるのが見えた。労いを求めていたわけではないだろう。だが傷だらけの身体は、無意識に承認を欲していた。セファはそれを知っている。知った上で、必要な量を、必要な温度で差し出した。
「ありがとうございます」
ガルドが立ち上がった。鎧が軋み、焦げた外套の端から粉塵が落ちた。
扉に向かう途中、ガルドの足が止まった。
一瞬。振り返りかけて、やめた。肩が動きかけて、戻った。それはほんの刹那の躊躇だった。迷宮で見たものが、ガルドの足を引いている。殺さない怪物。喰わない蜘蛛。騎士が正義と信じた物語の輪郭が、僅かに歪み始めている。
だがガルドは何も言わなかった。
「失礼いたします」
扉が閉まった。足音が廊下を遠ざかり、やがて消えた。
* * *
執務室に、セファだけが残った。
蝋燭の芯が小さく爆ぜた。乾いた音が石壁に跳ね返り、天井の梁に当たって消えた。遠くで教会の鐘が鳴っている。深夜の刻を告げる低い二打が、窓硝子を震わせて執務室に届いた。セファは椅子から立ち、アーチ窓の前に歩いた。月が正面にあった。欠けのない満月が、教団本院の尖塔と尖塔の隙間から覗いている。冷たい白光が、セファの銀髪と窓枠を同じ色に染めた。
窓の下には教団の庭園が広がっていた。整然と刈り込まれた植栽、白い砂利の小径、祈りの泉。すべてが月光に洗われ、昼とは別の顔を見せている。
セファは窓枠に指を置いた。月光に照らされた指先は白く、血管も見えない。
「あの子は幸せですよ」
誰もいない部屋に、声が落ちた。
「神に選ばれたのですから」
微笑は変わらなかった。慈悲深く、穏やかで、どこまでも静かな笑み。月光の下のセファの顔は、大聖堂のステンドグラスに描かれた女神に似ていた。あるいはそうなるよう、長い年月をかけて作り上げた顔だった。
セファは窓辺を離れ、机に戻った。引き出しから一通の封書を取り出す。封蝋はまだ押されていない。羊皮紙を広げ、一行だけ読み返した。書き足すことはなかった。すべては記されている。
封蝋を火にかざした。赤い蝋が溶け、炎の中で液体になる。羊皮紙を折り、合わせ目に蝋を垂らした。聖典教団の刻印を押す。蝋が固まるまでの数秒間、セファは刻印を押さえたまま月を見ていた。
「封印鍵の回収。準備は整いました」
蝋が固まった。赤い封蝋の中央に、聖典教団の紋章——翼を広げた鷹と開かれた書物——が浮き彫りになっている。セファはその封書を机の端に置いた。
蝋燭の炎が萎んだ。三本のうち一本が、燃え尽きかけている。残り二本の光が壁の聖句を照らし、金答の文字が執務室の闇に浮かんだ。
「迷える子羊を導くは、牧人の杖なり」
セファは微笑んだまま、蝋燭の炎を見つめていた。その目に映る火は、迷宮の光苔と同じように脈打っているのに、温かさの種類がまるで違った。
お読みいただきありがとうございます。
次回「再会」
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