再会
第七層の霧が、背中に張りついていた。
ガルド・ヴェルナーは右手で聖剣の柄を握り直した。革手袋の下で汗が滑る。忘却の泉を抜けるまでに、部下のエルヴィンを失った。霧に呑まれ、自分の名前すら忘れた男を通路の窪みに寝かせてくるしかなかった。
第八層への境界を越えた瞬間、霧が消え、乾いた冷気が肌を刺した。光苔の青白い光が回廊を照らし、壁という壁に蜘蛛の糸が張り巡らされていた。
糸は幾何学模様を描いていた。
放射状に広がる主糸と、それを繋ぐ横糸が、等間隔で正確に並んでいる。巨大な蜘蛛の巣ではなかった。むしろ設計図に近い。回廊の構造そのものを補強するように、糸が壁と天井と床を縫い合わせている。美しい、と一瞬思った自分に嫌悪が走った。これは罠だ。迷宮の怪物が張った、獲物を捕らえるための構造物だ。
回廊の奥に、影があった。
四本の脚が石畳に触れている。人間の脚ではない。黒い甲殻質の、節のある脚。その上に人の身体が載っている。黒髪、黒い外套。蜘蛛脚が床を打つ音が規則的に響き、それは心臓の鼓動のように回廊の空気を震わせていた。
影がこちらを向いた。
鬱金色の瞳が光苔に照らされ、暗闇の中に二つの光点として浮かんだ。縦長の瞳孔が収縮する。獣の目だった。だがその目の奥に、確かに知性がある。品定めするような視線が、ガルドの傷だらけの鎧を上から下まで辿り、聖剣の刀身に留まった。
ガルドは聖剣を構えた。
刀身に聖術の膜が走る。暖かい金色の光が糸の冷たい銀と衝突し、回廊に二色の影を落とした。
「怪物よ」
声が震えなかったことに、自分で驚いた。
「ティリア嬢を返してもらう」
* * *
ゼノは答えなかった。
蜘蛛脚の一本が石畳から離れ、天井に触れた。それだけの動作で回廊が変質した。壁が軋み、通路の幅が狭まる。左右の壁から新たな糸が射出され、ガルドの退路を塞ぐように網を張った。
ガルドは踏み込んだ。
聖剣を横薙ぎに振るう。聖術の膜を纏った刃が糸を断ち、切れた糸が高い音を立てて弾け飛んだ。金属弦を指で弾いたような、耳の奥に残る鋭い振動。糸の断面から僅かに虹色の光が散る。
ゼノの蜘蛛脚が動いた。
四本のうち二本がガルドの胸甲を打った。衝撃が鎧越しに胸骨に届き、ガルドの体が後方に吹き飛んだ。背中が壁にぶつかり、肺の空気が抜けた。石壁の冷たさと衝撃の熱が同時に走る。視界が白く飛び、一拍遅れて戻った。
立ち上がった。膝が笑っていたが、聖術で脚に力を流し込む。金色の光が脛当ての下で薄く発光した。
聖剣を突きの構えに切り替える。糸を斬るには横薙ぎが有効だが、本体に届かせるには突きしかない。第六層までの偵察で学んだことだった。
突進。
ゼノが右に避けた。蜘蛛脚が壁を蹴り、天井を経由して背後に回る。人間の動きではなかった。重力を無視したような軌道で、黒い影が回廊の上部を這い回った。ガルドが振り向くより早く、背中に糸が絡みつく。拘束糸。肩と腰を巻き取られ、身体の自由が削がれていく。
聖術の光を全身に走らせた。糸が焼け、煙を上げて断ち切れる。焦げた蜘蛛糸の匂いが鼻腔を突いた。甘さのない、鉱物質の乾いた煙。
「返す、と言ったか」
ゼノの声が降ってきた。天井に張りついた影が、低い声で言葉を刺んだ。
「……返す?」
声が変質していた。先ほどまでの無言とは違う。声の低部に、何かが軋んでいた。
「お前たちが落としたものを——」
蜘蛛脚が天井を蹴った。ゼノの身体が落下し、ガルドの眼前に着地する。鬱金色の瞳が至近距離で碧眼を見据えた。
「返す?」
三度目の同じ言葉は、もはや問いではなかった。糸が回廊の四方から集束し、ガルドの聖剣ごと身体を押し包もうとする。殺意ではない。潰す力ではない。だが圧は本物だった。聖術の膜を維持するだけで腕が軋む。
ガルドは歯を食いしばった。怪物の言葉の意味を量る余裕はなかった。ティリア嬢は攫われたのだ。生贄として落とされ、怪物に囚われている。それを取り返しに来た。それだけだ。だが剣を握る手が、一瞬だけ緩んだ。
* * *
足音が聞こえた。
糸と聖術の光が交錯する回廊の奥から、軽い足音が走ってくる。鎧の音ではない。武器の音もない。素足に近い、柔らかな音。
「やめてください!」
声が回廊を貫いた。
ティリア・エーデルシュタインが走ってきた。銀白の髪が苔の蒼光に染まり、淡い紫の瞳が戦闘の光を反射している。灰青の長衣——袖口をゼノの構築糸で繕った、迷宮での暮らしに馴染んだ衣——が走る勢いで裾を翻していた。
二人の間に、割って入った。
両腕を広げて。ゼノとガルドの間に立ち、どちらにも背を向けない位置で身体を横にして。
「お願いです、やめてください……!」
声が震えていた。だが脚は震えていなかった。
ガルドの聖剣が止まった。ゼノの糸が止まった。回廊に充満していた衝突の振動が消え、光苔の冷たい光だけが残った。静寂が、鼓膜を押した。
ガルドはティリアの顔を見た。
銀白の髪。淡い紫の瞳。頬は迷宮の生活で少し痩せていたが、肌の色は悪くない。怯えてはいる。だが衰弱はしていない。虐待の痕もない。教会で想定していた「囚われの生贄」の姿とは、何かが違った。
そして——瞳の色を見た瞬間、視界が割れた。
第七層の霧が奪ったのは、直近の記憶だった。剣の構え方、仲間の名前、教会での日々。だがそれらが剥がされた地層の下から、もっと古い、もっと深い記憶が浮き上がった。
碧眼の奥で、記憶が弾けた。二十年近く前の、陽だまりの庭。大きな屋敷の庭園で、泣いていた自分。母の葬儀の翌日だった。父に連れられて知らない屋敷を訪れ、大人たちが話し込む間、庭の隅で膝を抱えていた。
小さな手が、花を差し出した。
名前も知らない女の子だった。銀白の髪に、淡い紫の瞳。自分の半分もない背丈で、庭で摘んだばかりの白い花を両手で持ち上げて。
「泣かないで」
その声を、忘れたことはなかった。
「……あの、時の」
ガルドの唇から、言葉が零れた。聖剣を持つ腕が力を失い、切っ先が石畳に触れて甲高い音を立てた。
ティリアはガルドの顔を見ている。碧眼と淡紫の瞳が交差した。だがティリアの目に、記憶の光はなかった。覚えていない。三歳の記憶など、残っているはずがない。
それでも、ガルドの瞳の変化を、ティリアは見て取った。剣を向けていた目ではない。もっと古い、もっと深い場所を見つめている目。この人は自分を知っている。どこかで会ったことがある。理由はわからないが、この碧眼は嘘をついていない。
ゼノが動いた。
蜘蛛脚が石畳を打ち、ティリアの前に出ようとする。だがティリアが振り向き、片手を上げた。止まってください、と。声にはしなかった。手のひらと視線だけで。黒い甲殻の脚が、空中で止まった。
鬱金色の瞳が、ティリアの手のひらに落ちた。白い指先が壁面の蒼光を受けて浮かんでいる。黒い指が——甲殻に覆われた指先が、その手に向かって微かに動き、止まった。触れない。ここでは、触れられない。
* * *
ガルドは聖剣を鞘に戻さなかった。だが構えを解いた。切っ先を床に向けたまま、ティリアを見つめた。
「ティリア嬢」
声が掠れていた。第七層の霧で喉が乾いているのか、それとも記憶が喉を塞いでいるのか、自分でもわからなかった。
「俺と一緒に来てくれ」
言葉を選ぶ余裕がなかった。教団本院で練り上げた説得の文句は、すべて忘却の霧と共に消えている。残ったのは、二十年間胸の底に沈んでいた一つの衝動だけだった。
「教会に戻れば安全だ」
ゼノの声が、回廊の冷気を裂いた。
「安全なものか」
低く、短く。だがその四語に込められた重量は、先ほどの戦闘で叩きつけた蜘蛛脚の衝撃よりもなお深かった。ガルドには理解できない種類の怒り。「安全」という言葉そのものを噛み砵くような。
ティリアは二人の間に立ったまま、動かなかった。
光苔が明滅した。青白い光が一瞬暗くなり、戻った。迷宮の呼吸。その一拍の暗闇の中で、三つの影が交差し、また離れた。
ティリアの左手が、自分でも気づかないうちに、背中の側——ゼノがいる方へ僅かに伸びかけていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回「守るということ」
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