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守るということ

 光苔が明滅を繰り返していた。


 青白い光が回廊の壁を照らし、消え、また灯る。その間隔は一定ではなく、まるで地下深くに眠る何かの寝息に合わせるように不規則に揺れていた。三つの影が石畳に落ちている。白銀の鎧、黒い外套、灰青の長衣。誰も動かない。


 ティリアの左手が、背中の側に伸びかけていたことに気づいた。指先がゼノの外套の裾に触れる寸前で止まっている。慌てて手を引いた。今この瞬間に片方に寄れば、均衡が崩れる。


 ガルドが口を開いた。


「ティリア嬢」


 聖剣の切っ先は石畳に向いたままだった。構えを解いてはいるが、柄を手放してはいない。革手袋の指が白くなるほど強く握られている。


「教会に戻れば安全だ。俺が連れて帰る。この迷宮から出れば……」


 言葉が途切れた。表層の記憶を霧に前られた男の目が、懸命に何かを掴もうとしている。教団本院で誰かに言われた言葉。任務の詳細。それらは霧の向こうに沈んでいる。だが、泣いている自分に花を差し出した小さな手の記憶だけが、剥き出しのまま残っていた。


「大丈夫だ。もう大丈夫だから」


 その声は温かかった。


 ティリアの胸の奥で、何かが軋んだ。温かい声。地上の光。教会の白い壁と、磨き上げられた礼拝堂の床と、窓から差す朝の陽射し。かつて自分が知っていた「安全」の手触りが、ガルドの声を通して蘇ろうとする。帰れるのだ。あの場所に。聖女候補として大切に扱われ、毎朝祈りを捧げ、きちんと食事が出て、清潔な寝台で眠れる場所。


 だが。


 その記憶の輪郭が鮮明になるほど、輪郭の裏側にある影も濃くなった。「封印鍵」という言葉。セファの微笑。「予定通りです」。教会が自分を育てた理由。聖女の力を磨かせた理由。あの温かさの下に、何が敷かれていたのか。


 背後で、蜘蛛脚が石畳を掻く音がした。苛立ちを抑えるように、短く、鋭く。


 ゼノは何も言わなかった。先ほどの「安全なものか」の四語から、一言も発していない。黒い外套の下で蜘蛛脚が軋み、鬱金色の瞳がガルドの白銀鎧に映る光苔の光を睨んでいる。


 ティリアはゼノの沈黙の質を知っていた。言葉が出ないのではない。言葉にすれば壊れるものがあるから、噛み締めているのだ。第八層で過ごした日々が、その沈黙の意味を教えてくれた。


「ガルドさん」


 自分の声が思いのほか落ち着いていることに、ティリアは驚いた。


「教会に戻って——何が起きるのですか」


 ガルドの碧眼が揺れた。


「何が、とは」


「教会は私をどうするつもりなのですか。聖女候補として戻すだけなら、なぜ最初に生贄として迷宮に落としたのですか」


 沈黙。


 ガルドの顔に浮かんだのは怒りではなかった。困惑だった。教会がティリアを生贄に落とした。その事実を、彼は知っているのか。知っていて、なお「安全だ」と言ったのか。


「……それは、っ」


 ガルドの声が震えた。聖剣を握る手が微かに揺れ、切っ先が石畳を引っ掻いた。金属が石を擦る甲高い音が回廊に散った。


 壁が微かに振動した。迷宮の深部で何かが動いたのか、石壁を伝わる低い震えが足裏に届いた。


「教会がティリア嬢を害するわけがない!」


 反射だった。考えて出した言葉ではない。身体の芯に叩き込まれた信仰が、疑問よりも先に声になった。白銀鎧の胸甲が壁の蒼光を弾き、冷たい輝きをティリアの目に射した。


「教会は民を守る。聖女を害するなどあり得ない」


 言い切る前に、自分の声が虚ろに響いていることにガルド自身が気づいた。回廊の石壁に反射して返ってきた自分の言葉が、薄い。中身がない。第七層の霧に表層の記憶を削られた今、教会への信頼は感情だけが残って根拠を失っている。


 ガルドは奥歯を噛んだ。


 ゼノが息を吐いた。


 短い、低い呼気。感情を圧し殺すための呼吸だった。鬱金色の瞳がガルドからティリアへ移る。ティリアの背中——灰青の長衣の肩が僅かに緊張しているのを見て、視線を外した。天井の光苔を仰ぐ。


「……教会は、お前を使う」


 声は低かった。天井に向けたまま、搾り出すように。かつて「安全な場所」から送り出された生贄たちの顔を、この男は知っているのだ。ティリアの前にも、迷宮に落とされた者がいた。教会が「守る」と言いながら差し出した命が。


「お前は——」


 言葉が止まった。


 蜘蛛脚の一本が石畳を打った。不随意の動作だった。言葉を継ごうとして、身体が拒んだ。封印鍵のこと。ティリアを迷宮に「組み込む」という教会の意図。それを語れば、ティリアの目にどんな色が浮かぶか。恐怖か。絶望か。あるいは——自分を見る目が変わるか。お前もその仕組みの一部だと気づかれたとき、白い指先がもう伸びてこなくなるかもしれない。


 黒い指先が、外套の内側で拳を握った。


「教会はお前を使う。お前は……」


 二度目も、同じ場所で止まった。


「何を言いかけている」


 ガルドが一歩踏み出した。聖剣の柄に力が戻る。


「ティリア嬢を脅しているのか。何を信じ込ませた、迷宮の番人」


 ゼノの瞳孔が縦に絞られた。「番人」という呼称に反応したのではない。「信じ込ませた」という言葉だった。まるでティリアが自分で考えることができないかのような物言い。


 空気が張り詰めた。蜘蛛脚が展開し、切断糸が指先に生成される気配。ガルドの聖剣に金色の光が再び走る。


 回廊の空気が変わった。温度が一段下がり、吐く息が僅かに白く滲んだ。光苔の色が青白から蒼灰に沈み、壁面に這う構築糸が寒さに収縮して軋んだ。


「——やめてください」


 ティリアの声だった。先ほどと同じ言葉。だが、声の質が違った。


 震えていなかった。


「少し」


 二人の間に立ったまま、両手を下ろし、背筋を伸ばした。蒼い壁光がティリアの銀白の髪を照らしている。淡い紫の瞳が、まずガルドを見た。次にゼノを見た。どちらの目も真っ直ぐに受け止めて。


「少し、考える時間をください」


 ガルドが目を瞠った。


 ゼノの蜘蛛脚が、止まった。


 静寂が落ちた。光苔の明滅だけが回廊の時間を刻んでいる。ティリアの言葉は命令ではなかった。懇願でもなかった。宣言だった。自分の意志で、自分の時間を、自分に与えることを選んだ。


 ガルドは口を開きかけ、閉じた。碧眼がティリアの顔を探るように見つめている。そこに囚われた女の怯えはなかった。洗脳された虜囚の空虚さもなかった。自分の足で立っている人間の目が、そこにあった。


「……わかった」


 絞り出すように、ガルドが言った。聖剣を鞘に収める。金属が噛み合う硬い音が、回廊の壁を一度だけ叩いて消えた。


「だが——俺はここを離れない。ティリア嬢のそばにいる」


 ゼノの喉から、低い音が漏れた。威嚇に近い響き。だがティリアが視線を向けると、蜘蛛脚がゆっくりと折り畳まれた。完全には収納できない。二本が外套の下に消え、残りの二本が背中から覗いたまま、微かに震えている。


 ティリアは息を吸った。回廊の冷たい空気が肺を満たした。乾いた石と、光苔の仄かな苦味と、遠くから漂う花の気配。ゼノが整えた第八層の空気だった。


 ゼノに向き直った。


 鬱金色の瞳が、ティリアを見ていた。縦長の瞳孔が開いては絞られ、また開く。視線を外したがっているのに外せない目。ティリアが何を言うのか、その言葉が自分をどこへ追いやるのか。


 光苔が色を変えていた。蒼灰に沈んでいた光が、緩やかに藍へ移ろう。緊張が解けたのを迷宮が感じ取ったかのように、壁の微振動も収まっていた。


「ゼノさん」


 声は静かだった。


「全部、教えてください」


 ゼノの瞳孔が開いた。


「私のことを。教会が私に何をしようとしているのか。封印鍵とは何なのか。——あなたが、さっき言いかけたこと」


 ゼノの黒い指先が、外套の内側で開いた。拳を解いたのだ。蜘蛛脚の震えが止まり、代わりに人間の指が僅かに震えていた。


「……知れば、」


 声は掠れていた。


「戻れなくなる」


 言葉が喉まで来て、止まった。


 セファの笑顔が浮かんだ。十年間、毎朝のように向けられた穏やかな微笑み。祈りの作法を褒められた日も、祝福の力が伸びた日も、あの笑顔が自分の支えだった。それを全部——全部なかったことにしなければならないのか。十年分の朝を、一つ残らず塗り潰すのか。


 胸の底が冷えた。足元が崩れるような感覚に、指先が震えた。


 それでも。


 口を開きかけて、声が裏返った。一度唇を噛んで、息を整えた。喉の奥が詰まる。もう一度、息を吸った。


「知らないまま選んだことは、選んだとは言えません」


 ティリアの言葉に、ゼノは応えなかった。


 だが鬱金色の瞳が、初めて——逸らされなかった。薄明の中で、迷宮の番人と銀白の髪の娘が向き合っている。白銀鎧の騎士は一歩離れた場所で、二人の間に流れる空気を理解できないまま、聖剣の柄を握り締めていた。


 光苔が、長く灯った。


 迷宮が、息を止めたように。


お読みいただきありがとうございます。


次回「疑念の芽」


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